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青果2
アン・ジャクソンは化粧を終えて自宅のリビングのソファに座り、自分が設定した出発の予定時刻がやってくるのを静かに待つことにした。気分的には重たかった。これから出かけなければならないことを考えると、億劫だった。だが本当に気分が重くて億劫で面倒くさくて嫌なのか? そうではないような気がした。冷静に考えると、これから出かける先で、自分がしなければならないことは、ほとんど何もないように思われたからだ。
友人の名前はデビー・マーティン。今日はその友達からの希望で、彼女の悩み相談を受けるつもりだった。この申し出があったとき、アンは電話口で彼女に再三、こんなことを確認した。
「それは直接会わないとダメなの? たとえばこのまま電話ではダメなの? もし話がまとまらないって言うなら、あとからメールみたいなものを送ってもらっても大丈夫だけど」
「アン」デビーは言う。「ぜひ会って話したいのよ。電話やメールなんかじゃダメなの。会って話さないと意味がないの。でもどうしてもあなたが私に会いたくないっていうなら、電話かメールにするわ。絶対にそうすることができないってわけじゃないから。でもなるべく会いたい。今回のことは、ぜひあなたに会って相談したいのよ」
デビーからの相談内容が何なのかはわからなかった。加えて、何なのだろうという想像すらつかなかった。デビーは学生時代からの友人というわけではない。前の職場が同じだったのだ。お互いにその職場を辞めてからも、何度かランチを一緒にしたことがある。カラオケにも行ったことがある。もしかしたら岩盤浴にだって行ったことがあるかもしれない。しかし最近は疎遠だった。理由はわからない。一つ思い当たるのは、彼女からの、妊娠した、という報告だ。彼女は既婚者だったが、子どもはまだいなかった。それで、もしかしたら、このタイミングで子どもができたと打ち明けられる可能性は十分にある。だが、そうだとして、彼女はなぜそれを電話やメールで言えない? 彼女としては、もし話の内容が妊娠だったとして、だからこそ直接会って話がしたい、ということなのかもしれない。その喜びを、ぜひ会ってあなたと共有したいのだ、と。
そう言われると、彼女のそうしたい気持ちもわからないでもなかった。もし自分が彼女の立場だったらどうだろう。妊娠の感動で、「いや電話やメールじゃなくて、ぜひ直接会って」と言っていたかもしれない。しかしこちらの不安が大きくなっているのも事実だ。もしデビーの話が妊娠でなかったら? 彼女の今日の相談事が、もし妊娠でなかったら、じゃあほかにどういう話題があるのか。
家の中をあらためて見回してみると、静かで不思議な空間だった。なぜ自分がいまここにいるのかを、アンは思い返さなければならなくなった。まだ馴染みがそれほどあるわけではないが、自分の好きなものに囲まれた空間、落ち着ける場所、これから自分たち夫婦の時間が構築されていくところ……そして、それらはいつかすべて失われる。快晴だった。雲一つない空が窓の外に広がっている。暑くはなさそうだが、きっと日の当たるところは暖かくて気持ちがいいだろう。
アンはレースのカーテンを手に取り、雲が欲しいと思った。快晴よりは、多少は雲のばらついている空の方が、何か自分のイメージする本来の空の方に近いような気がした。これから私は雲を獲得しに行くのだ。小さくて、晴れの印象をぐっと引き上げるための、白くて濃い雲を手に入れに行く。もしそれが自分の手に負えないような、考えても見なかったような、見たこともないような雲だったら、そのときは軽やかに逃げ出そう。今日の悩み相談で、私たちの生活の天気自体が変わることは一切ない。
待ち合わせ場所は梅田の阪急を降りたところ、ビッグマンの前だった。紀伊國屋書店で待ち合わせ場所の時間まで暇をつぶす予定だったが、デビーから連絡が入り、お互いに予定時刻より早い到着になることが判明した。ビッグマンのモニターには今日の運勢やら何やらが映し出されている。
「アンちゃん?」
ビッグマンのモニターに夢中になっていると、視界の横から、ピョンと顔を出すように声をかけられる。距離は離れている。さほど驚きもなく、そちらの方に目をやる。声をかけられた瞬間から誰なのかわかっていた。デビーだ。
「デビーちゃん、久しぶり!」
三年ぶりくらいということになるだろうか。デビーは年上だ。アンはデビーの顔を見ながら考える。私がいま三十歳ちょうどだから、彼女は三十三歳か。
「結婚したんだってね、おめでとう」
デビーがそう言って軽く腕に手を当ててくる。そういえば自分の結婚の報告はLINEで済ませたんだった。少し今日への不安が強まる。それを払拭するように、アンもすかさず彼女の腕に手を当て返す。
「ありがとう」
「ホントに久しぶりだね、元気してた?」
「元気だったよー。デビーちゃんは?」
「元気元気。でも半年くらい前だったら、ちょうど差し歯がとれてて、そこからバイ菌が入って、顔の左は半分がパンパンに腫れてたけどね」
「大丈夫? それ」
「もう全然大丈夫だよ。抗生物質たらふく飲んだから」
抗生物質をたらふく?
「え、抗生物質ってたらふく飲むのもなんだ?」
「たらふくじゃないかも。でも処方された分を全部飲むころには、だいたい良くなってたかな」
「まあ、良くなったんだったら良かったよ。大変だったね」
「今日どこ行こっか?」デビーが言う。
「うーん、いろいろ調べたけどいっぱいありすぎてわかんない」
「じゃサイゼリヤでいい?」
「嫌かな」
アンが即答すると、デビーも笑いながら言う。「あれ? 嫌なんだ。サイゼリヤも結構落ち着くよ?」
「落ち着くかも知れないけど! でもせっかく梅田まで来たんだから、もっとおしゃれなところいきたいかなーと」
「サイゼリヤはおしゃれじゃないって?」
「そうは言ってないけど。普段なかなか行けないところって意味でね」
アンは三重の田舎に住んでいるが、デビーは大阪の豊中市というところにすんでいる。豊中市がどういうところなのかよくわからないが、きっと都会なのだろう。少なくとも、三重の名張よりは都会に違いない。てか、そういえば名張にはもうサイゼリヤすらない。昔は国道沿いにあったのだか、もう今は別の店舗に変わってしまっている。
結局駅からほど近く、デビー主導で茶屋町にあるカフェに入ることになった。ビルの八階だった。案内された席は窓際で、窓の外には梅田のビル群が見える。アンは思い描いていたような店に入れたことに、テンションが上がった。
「なんかすごい」
「すごいかな? すごいよね」
「デビーちゃんはいつも梅田なの?」
「いつも梅田って?」
「うーん、お買い物するところとか」
「そんなことないよ。私も梅田に出てくることなんて滅多にないよ」
「そうなんだ。もったいない。近いんだから遊びに来たらいいやん」
「たまにはねー。お買い物とかは、だいたい近所で済ましちゃうかな」
「豊中で?」
「そうそう。豊中で」
豊中ってどんなところなのか。アンは考える。何となく大阪市内に仕事で通う人たちのベッドタウン的なイメージがあるけれども、それは私が思っているだけで、その実態はもしかしたら全然違うかもしれない。ものすごく洗練された都市、みたいな感じかもしれない。つまり豊中に住んでいれば、梅田になど出てくる必要がなくなる、梅田にあるものは、すべて豊中市にもあるからだ、みたいな。そうなると豊中市いかつ。
注文は、お互いにランチタイムのパスタセットにした。アンはミートソース。デビーは明太子のクリームソース。しかしそれらを食べきっても、なかなか話は本題に突入しない。どうしても、どうでもいいようなことを喋ってしまう。
それはそれで楽しい。
しかし、このままではきっと後悔してしまうと思い、アンは視線を窓の外に移してから言う。
「それで、デビーちゃんが今日話したかった話って何なの?」
すると、デビーが口を閉じて、下唇を噛むようにし、それから口全体をすぼめて、視線を斜め上にやったりやらなかったりする。
何なのか。
急におかしくなってしまったのか。でもその様子を見て、何となくピンとくるものもある。
これは絶対に悪い報告ではない。少なくとも、本気で悩んでいて、どうすればいいのか自分でもまったくわかっていない、てかどうにもならない問題に巻き込まれてしまっているから、アンちゃん助けてほしい、みたいな話ではなさそうだな、と思った。
その可能性はあると思っていた。たとえば職場の労働環境が変わって辞めざるを得なくなった、人に騙されて借金を作ってしまった、旦那が不倫して離婚することになった、逆に自分が不倫してしまっている、などだ。
近鉄の急行に乗りながら考えていた。長谷寺あたりだ。
しかし今のこのデビーのよくわからないリアクションを目の当たりにして、アンはほぼ確信する。これはきっといい話題に違いないと。聞くだけで人をハッピーにさせてしまうようなことが、彼女の人生にやってきた。そして私は、今からそれを実際に彼女から聞かされるのだと。
だから今のデビーは、ただもったいぶっているだけだ。あるいは話す段になって、急に恥ずかしいような、むずがゆいような気持ちに襲われて、どうしたらいいのかわからずにモジモジしているだけ。
「ねえ、何なの? そんなずっとモジモジしててもわからないよ」
「モジモジなんてしてないよ。ただなんて言ったらいいか迷ってるだけ」
「じゃあ何て言うか決まったら教えて」
「当ててくれないの?」
「当ててほしい?」
デビーの考えるそぶり。
「いや、やっぱり自分で言う」
「なんなん」
「妊娠した」
やっぱり。それしかないだろうなと思っていた。めちゃくちゃ腹が立つほどもったいぶられたわけではないが、やはり少しでももったいぶられると、アンとしては妊娠の二文字が頭をよぎる。ほっとする。妊娠か。これからどうなるんだろう。
「それで、実はそれだけじゃないの」
「それだけじゃない?」
「妊娠と同時に、ある問題も発覚したの」
デビーはそう言うと、すぐにうつむいて黙り込んでしまう。ある問題が発覚したの――果たしてそれは何なのか。大丈夫か。デビーの様子を見ていると、あまり大丈夫ではなさそうな感じもするが、しかし壮大なギャグへの振りにも見える。妊娠があまりにも良い報告すぎるからだ。このとても良い報告のせいで、あとから続く別の問題が、どんなものであったとしても、それは霞んでしまうのではないか。少なくとも私にはそう思える。アンはデビーにうつむかれてもなお冷静だった。
「で、それは何なの?」
アンは言った。すぐにそう言った。自らの想像力を働かせる前に、だ。デビーが顔を上げて言う。
「それはまだ言えない」
「まだ言えないってどういうこと?」
「まだ言うべきタイミングじゃないのよ」
「タイミングは今じゃないの? せっかくこうして会ってるんだし」
「梅田で買い物する?」
「買い物?」
「せっかく梅田まで出てきたんだから、このあとちょっとブラブラしたいでしょ?」
そりゃまあ。
「じゃそのあとでいいからさ」
「何なの?」
「豊中市まで来てほしい」
「え?」
「豊中市の、私の家まで来てほしいのよ」
デビーは、電車の中ではほぼ無言だった。家に来てもらうと決めたからには、そこですべてを話そうという魂胆なのだろう。よく無言でいられるなと思う。彼女が何を考えているのか、まったくといっていいほどわからない。本当に私は彼女の友達なのか。しかし、そういえば結局先程のカフェでの報告も、妊娠だった。どうしても会って話したいと言っていたから、もしかしたら妊娠ではなく、何か別の相談かとも思ったが、違った。
となると、今から家について、彼女の語る話が今日の本題ということになるのだろうが、それも別に大したことではないかもしれない。私からすれば、それも別にわざわざ家に招待してまで話すことではないやん、みたいな感じで終わってしまうものなのかもしれない。でも違ったらどうしよう。
何がある?
そう思うと、急にアンの心がざわついてくる。会って話さないといけないが、でもカフェではダメで、それは家でしないといけない。会って話さないといけない理由は、電話では伝わらない微妙なニュアンスを、絶対に間違ったまま伝えたくないからであって、言い換えると、それは自分の気持ちを相手に理解してほしいという強烈な願望の裏返しだ。でもそれはカフェではなくて家で行われなければならない。人に聞かれてはいけない? カフェで偶然隣になった人にでさえ、聞かれるのを避けなければならない。そんな理由も、今回の話にはまた合わせて存在する。
阪急電鉄がぐんぐん進む。父親が違うのか? もしかしてそのお腹の中にいる子供の父親は、今の結婚相手ではないとかそういうことなのではないだろうか。
アンの足取りが重くなる。デビーの家には行きたくないなと思った。朝と何も変わっていない。自分がこれから彼女の家に行き、そこで自分のできることといえば何もない。何もできることはなく、ただ話を聞くだけなのだが、もはやそれすらしたくない。雲ももういらない。自ら望んで快晴の空に、ただの見栄えでちょこんと雲を欲しがるなんてどうかしていた。天気は放っておいても変わるのだ。どれだけ晴れている空も、そのうち曇ってきて、雨になるという世界でしか生きたことがないくせに。
「ここが私のマイハウスよ」
何やそのセリフ、と思いながらも、アンはデビーに案内されて、その家の中に入っていく。ハイツタイプのアパートだった。二階建ての二階。間取りは、正確にはわからないが、たぶん2LDKほどあって、二人暮らしには十分だと思われるし、また子供が生まれるとなっても、一人なら、まだ十分であるように思われる。
リビングに通される。十畳以上、十五畳はないかな、という広さだ。キッチンはカウンター式になっていて、そこに隣接されるように四人がけのダイニングテーブルが設置されている。部屋の奥にはくつろぐための空間がある。テレビ、テレビボード、ソファ、ローテーブル、大きめの観葉植物がある。
「ここに座って」
指示されたのは、ダイニングテーブルのイスだった。ソファじゃないのか、とアンは思う。まあ別にそれはいいけど。
「何飲みたい? コーヒー? 紅茶?」
「紅茶かな」
「了解」
気がせってくる。ここまできたら、早く要件を話してよ、と思う。いつまでも億劫な気持ちのままではいられない。どうせ突破しなければならない壁があるのなら、さっさとそれにぶつかった方がいいだろう。ここまで来たら、もう逃げられる気はしないのだから。
「話って何?」
アンはキッチンでお茶の準備をしているデビーに向かって言う。
案の定、デビーは答えられない。
「え、ちょっと待ってよ。いまお茶の準備してるだから」
「お茶なんていらないよ。だっていまお茶してきたんだもん。ねえ、話って何なのよ」
「テーブルに行ったら話すからちょっと待ってよ」
「嫌や。いま聞きたい」
まるでだだをこねる子供である。非常識なのはわかっている。でもこうしている方が、アンとしては楽だった。
「いまお菓子も準備してるから」
「お菓子もいらないよ」
「せっかく買ったんだから食べてよ」
アンは席を立ち、キッチンで作業しているデビーの横に移動する。彼女の両肩に手をおいて、軽く前後に揺さぶる。デビーはクッキーやポテトチップスなどの市販のお菓子を、一つの大きなお皿にまとめている様子だった。いろいろなお菓子を、少しずつ楽しむためだろう。それもいいが、今はとにかく話が何なのか聞きたい。
「あ、そういえばアンちゃんってお家でのごはんってどうしてるの?」
「お家でのごはん?」
なぜそれがいま気になる? キッチンで喋っているからだろうか。
デビーが続ける。「おうちでごはんとか作ったりする?」
「うーん、私のうちはね」アンはデビーの肩から手を離す。「料理はほとんど作らないよ。旦那も作らない。お互い仕事してて、帰ってくる時間も違うし、そもそもごはんは何でもいいって感じだからね。だから今のところは、お互いに勝手に好きなものを買って食べちゃう。で、そのあとほぼ毎日二人でお菓子食べながらテレビ見てるって感じかな」
「お菓子かー。お菓子二人で食べるなんて平和だね。でもごはんも、毎日外食ってわけじゃないでしょう」
「うん、それは違う」アンは答える。「コンビニとかスーパーとか、あとお惣菜屋さんのお弁当とか」
「いいお惣菜屋さんがあるんだ?」
「え、ないよ。そういえばお惣菜屋さんでお弁当は買ってないわ」
「なにそれ、どういうこと?」
わからん。
「やばい。なんかノリでそんなこと適当に言っちゃった」アンは自分でも笑いながら言う。「でも実際は、マジでコンビニでしょ、スーパーでしょ、あとは、マクドとか牛丼の持ち帰りとかが多いかも」
「中食ってやつね」
中食って何だったっけ、とアンは思う。そんな言葉が世の中にあったような気がするけれども、どうだったかな。もしデビーちゃんがいま勝手に作り出した言葉だったらどうしよう。別にいいか。
アンはキッチンを見渡す。本当にいろいろな道具が、過不足なくキチンと取り揃えられている。大中小のフライパンなど当たり前で、絶対に玉子焼き専用のフライパンとかもあるに決まっている。あと食器棚にも目をやる。そこにはものすごい数の皿や器が並んでいる。まさかこれを全部使い分けているのだろうか? だとすると、きっとこの家で出せない料理はないはずだ。梅水晶とかほかの小料理にも、もしかして専用の皿があるのではないかと疑われる。それはそれでいいことに違いない。
「うちはね、やっぱ私が作るかな」
「デビーちゃんが?」
「そうそう、私が作るよ」
作りそうだな、と思う。これだけキッチン道具に囲まれていたら、そりゃ作らざるを得なくなるか。まあ、自分で取り揃えたはずだから、料理を作りたいっていう動機がまずあっての話なんだろうけど。
「でもそういえばデビーちゃん昔から料理得意だったよね」
「うん、料理は昔から作ってたかな」
「一回二人で鍋やったときあったよね」
「あー、あったね」
まだ同じバイトで働いていたときだ。バイト中に鍋の話で盛り上がり、なぜかそのときはモツ鍋を家でやろう、という話になった。
アンは言う。「私、いまでも覚えてるわ。二人でモツ鍋やろうって言って、それでデビーちゃんが用意してくれるってなったんだよね。で、そのときのデビーちゃんのお部屋にお邪魔して、いざ食べようってなったらめっちゃおいしいわけ。私は、え、こんなにおいしいモツ鍋の素っていまスーパーに売ってるんだ? ってデビーちゃんに聞いたら、いや、これいちから私が作ったよって。マジ衝撃だったよ。お鍋なんでさ、私はもうなんか全部市販のスープの素でしか作れないと思ってたからさ。あとモツ鍋のモツが普通にスーパーに売ってるのとかも知らなかった」
「モツは普通に売ってるよ」デビーが言う。「アンちゃんいっつもこの話してくれるね。よっぽど衝撃的だったんだね」
「衝撃的過ぎたよ。何よりも普通にホントにおいしくてびっくりしちゃったもん。思わず本場の人なのかなって」
「違うし、福井だし」
お互いに笑い終わり、ふと沈黙の時間が訪れる。アンは何をやっているんだろうと思う。違う。私のいまやらなければならないことは、デビーちゃんの相談事が何なのかを聞き出すことであって、決して昔話に花を咲かせることではない。何度も何度も擦ってきたような、それもあのときのお鍋がおいしかったみたいな、そんなどうでもいいような話をして何になる。気を引き締めないと。せっかくここまで来たんだから、絶対に彼女の話を聞いて帰らなくては!
「デビーちゃん」
「何?」
「言いづらいこと?」
「言いづらいことって?」
デビーが聞き返してくる。アンの方を目を少し大きめに開いて見てくる。
アンは続ける。
「何かあったんでしょ? 妊娠はとってもよろこばしいことだけど、それ以外に何か。もしくは、それに関連しているけれども、他人にはすごく言いづらいこと」
「そうだね」
何なんだろう。雰囲気が一気に重くなる。雨の降る前の感じがする。
アンは自分に言い聞かせるように言う。
「昔の話って単純に楽しいからいつまでもしていたいけどね。特にデビーちゃんとは楽しかったから、いっぱい思い出あるもん」
「うん」
「でもいまはそれをすべきじゃないよね。お互いの時間も限られてる。だから良かったら話してみて。今日が無理だったら、またいつでも会いにくるから」
「実はもう話に片足は突っ込んでる」
「なんですとな」
アンは思わず、なんですとな、と言っていまう。なんですとなって何なんだ。わからない。でもなんですとな、と確かに言ってしまった。気を取り直してデビーの顔色を伺う。嘘を言っているようには見えない。まゆげが動いていない。冗談を言っているようにも思えない。口元が緩んでいない。どういうことだろう。いつの間にか今日のデビーちゃんの相談事に、片足を突っ込んでいるとは?
すると、デビーがシンクの端に手を付き、そこからリビングの方を遠目で眺めながら言う。
「私、妊娠してさ」
「うん」
「思ったんだよね」
「何を?」
「これからいろいろ変わるんだろうなって」
「うん、そうだね」
そりゃいろいろ変わるんだろう。私はまだ妊娠したことないからわからないけど、そういえばこのあいだも親戚の誰かが妊娠したって私の母親も言ってたっけ。よく考えたらその話はいま関係ないけど、でも、もしかしたら子供ができると、今までのすべてが変わってしまうのかもしれない。
「それでね、私考えたの」
ごくり。
「私、今まで家での料理をすごくがんばってきた」
「うん」
「それで今の旦那を捕まえたって自負もあるし、それに、旦那に料理のこと褒められるとうれしいから、毎日がんばって夕食の準備してた」
「そうなんだ」
「もちろんそれって嫌じゃないのよ。決していやいややってるわけじゃなくて、自分でも料理作ってて楽しいし、買い物する時間とかもすごく好き」
「いいじゃん」
「でもそこに革命を起こすわ」
「え?」
「私、今までは出来た料理を一人分の皿に盛り付けて提供してたんだけど、これからはそれを大皿料理に移行する。大皿に盛り付けた料理を、みんなで好きな分だけ取り分けてもらうスタイルにするわ――だからアンちゃん、実は今日あなたにやってほしいのは、食器棚から今後使わないであろう食器たちを私と一緒に処分してもらうってことなの」
雲だ! これこそ紛れもない雲だ! アンは体が内から震えてくるのを感じる。駆け出したくなる。ベランダに出て叫びたくなる。そうだ、私はいまデビーちゃんから相談を受けたはずだが、まったく心が痛めつけられていないし、それどころか、ほっこりを通り越して、そんなん勝手にしたらいいことやん、と普通に思ってしまっている。デビーちゃんのことをいい意味で突き放しかけている。もちろん協力したい。なぜならば、これは雲だ。これこそ私の求めていた青空に映える最高の雲だからだ。
「険しい道になると思うけど?」
アンは目をきりりとさせて、男前な顔を作って言う。あえてこの話全体にツッコミはしない。なぜなら、この役に選んでくれたことが、本当に心の底からうれしいからだ。
デビーが答える。
「それは覚悟の上よ。私はこのことでこの一週間まともに寝られていないの」
「じゃあ、早くもとの睡眠が出来るようにしないとね。私も精一杯協力させてもらうわ」
「ありがとう、アンちゃん」
「いいのよ。重たい荷物はすべて私に任せて」
二人は目を合わせると、まずは食器棚の一番上の段から手を付け始める。