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休憩時間になった。ジョージ・ホーケンは青果のバックヤードを抜け出して、店舗裏の駐車場へと急ぐ。そこの隅に二メートル✕三メートルほどの物置がある。その物置の扉の前には、腰の高さほどの筒状の灰皿が置いてある。ジョージはタバコを吸わないが、休憩場所としてよくそこを利用する。ほかにタバコを吸っている人がいると、そこへ立ち寄るのは避ける。しかし誰もいないと、まるで自分もそこでタバコを吸うかのごとく滞在する。タバコを吸う仕草は真似しない。彼はそこで主に缶コーヒーを飲む。砂糖がどれだけ入っているかわからない、とにかく甘く仕上がっているコーヒーだ。これは物置へ行く途中にある自販機で簡単に手に入る。プルタブを開ける。コーヒーが、勢いよく喉を下ってくる。気持ちがいい。でも次の瞬間には、そこまで大したものではないかもしれない、と思う。これは毎日のことなのだ。仕事の合間の休み時間にここにやってきて、なるべく一人の時間を過ごそうとする。やりすぎなくらいの甘い缶コーヒーを一気に飲んで、頭に糖分を送ってやる。理由はわからない。理由はわからないが、この店舗に配属されてからは、いつの間にかそうすることが彼の習慣になっている。
ジョージは半分ほど中身のなくなった缶コーヒーをあらためて眺めて、確かにどうして自分は休憩時間になるといつもここにやってくるのだろう、と思う。遠くで犬の鳴き声がする。誰かが木の枝を踏んだか手で折ったような音がする。それから少し時間が経つ。あいかわらず、なぜ自分がいつもここにやってくるのかはわからない。灰皿があるのだから、タバコを吸う人がここにやってくるのはわかる。店内は禁煙だ。だから勤務中にタバコを吸いたいのなら、やはりここへくるしかない。それに今の時期だと、通勤に使っている自家用車の中にわざわざ戻っていたら、暑くて休憩にならないだろう。
自分はタバコは吸わない。缶コーヒーなら、店内の客のいないところならどこでも飲める気がする。ふと視線にあるものが目に入る。それは黒色のクッション素材と、数本の金属製のなにかで出来ている。パイプ椅子だ。「パイス椅子か」ジョージは頭の中でうなる。「そうか、そういえばこいつがあったんだった。この物置の前のスペースには、このどこにでもよくあるような、特に学校の体育館や公民館などでは絶対に見かけるような、年季の入った、しかしまだ完全にはくたびれてはいない、まさにこの店にはおあつらえ向きのパイプ椅子があったんだよ。で、俺はこれに腰掛けようってんだな? これに腰掛けて、さらに自分の休憩時間を充実させてやろうって魂胆なんだな? まったくこの欲張りも者め。ホントに、くつろぐということに関してはどこまでもチャレンジングな野郎なんだからな」
パイプ椅子はところどころシートが破れて中のスポンジがはみ出ている。はみ出た部分のスポンジは汚れて変色している。パイプにも錆びている部分がある。もちろん変色している。このパイプ椅子には、きれいな部分はどこにもないかもしれない。
「あれ、ちょっと待てよ」ジョージはパイプ椅子の観察を途中で切り上げて、缶コーヒーを口に含む。「俺はこのパイプ椅子を見つけて、これこそが、俺が休憩時間にここに毎日やってきている理由だと思ったわけだ。そう結論づけようとしたわけだ。つまりこの椅子に腰掛けて、たっぷりとそこでくつろいでやろうってね。ところがだ、ところが、こいつは見れば見るほど汚いじゃないか。汚れているじゃないか。そりゃそうだ。こんな屋根のないところにずっと晒されていて、きれいなままでいられるわけがない。汚れるだろうよ。そりゃこんなところに放置されてりゃ、これを見た人全員に一瞬で嫌われるくらいに汚れてしまうよ」
「じゃあ俺はどうしてここへやってきているというのかな!」ジョージはいら立つ。「本当にそうさ、本当に。仕事の合間に、どうして俺は毎回ここへやってくるんだ? このパイプ椅子に座って休みたかったからじゃないのか。座ってきれいな青空でも眺めたかったんじゃないのかな。いやこの汚れをもう一度見てみろ。こんなところは人間が腰掛けるようなところじゃないぞ。これは、特にまともな人間ならば、絶対にそうすることはしないようなガラクタの椅子さ!」
どうやら彼がいつもこの休憩時間にこの場所を利用している理由は、汚れたパイプ椅子以外の何かであるらしい。ジョージの頭上で葉と葉の擦れる音がする。風が吹いて、足元の影も揺れる。ほかに考えられる理由は、頭上に木が生い茂っていることによって、ここがよそよりもいくらか涼しい、ということだ。だがそれはどうだろう。涼しいだけならば、クーラーの効いている部屋の方がずっとそうであるに決まっている。それにそれをいうならば、まさかこの店舗には、スタッフ専用の休憩室がないとでも?
「もちろんこの店舗にもスタッフ専用の休憩室はあるとも」ジョージは自らの問いに答える。「パイプ椅子だってあるさ。それも一脚だけじゃないぞ。少なくとも四脚くらいはある。大きなテーブルがあるんだ。180センチの会議用テーブルを二つくっつけて、それを一つの大きなテーブルとして利用している。それだけじゃない、俺たちの休憩室には、ちょっとした和室さえあるんだ。和室――それを和室と言っていいのかどうかはわからないが、しかしそれは本当にある。畳のスペースが、俺たちの休憩室には存在しているんだよ。そこで寝転んでくつろいでいる従業員だって探せばいないこともないんだ! じゃあどうして俺はそのスタッフ専用の休憩室を自分の休憩時間に利用しないのかな。タバコを吸わないんでしょう? タバコを吸わない人なんだったら、最初からそこを使えばいいじゃない」
「うるせえババアがいるんだよ」ジョージは声をあらげる。大丈夫、すべて彼の頭の中の出来事である。「いいか? 俺には俺がうるさいと思っているババアがいる。そいつはほとんどいつもそのスタッフ専用の休憩室にいる。少なくとも俺が休憩のときには、なぜかいつもそこにいるんだよ。だから俺は、そいつのことをさけなきゃならない。さけないととんでもないことになるんだ」
俺にはうるさいババアがいる。そしてその人のことをさけなければ、その人に絡まれて大変なことになる。これがジョージの言いたいことだろう。わからない。うるさいババアとは誰のことなのか。ジョージの上司か、はたまた彼の言うことをきかない、いわゆるお局的な年上のパートのことなのか。具体的に何をされたのか。何をされたから、ジョージはその女性のことを「うるさいババア」などと形容するようになったのか。
「話せば長くなるんだけどいいかな?」ジョージは落ち着いてコーヒーをまた少量口に含む。頭の中で勝手に一人で話しているだけなのに、あえて自分に対してことわりを入れてくるなんて律儀な奴だ。「でもまずこのことだけは言っておきたい。勘違いしないで欲しいから、これだけははっきりさせておきたい」
何だ。
「まさかこの俺が、人間関係に悩むようになるとはね!」ジョージは続ける。「まさか俺は、そんなことで悩むような人間じゃないと思ってたよ。でも怪物ってのはどこにでもいるもんだ。どこにいるのかわからない。俺は人生の旅の途中でついに出会ってしまったんだ。小中高、大学と、俺は本当に周りの人たちに恵まれていた。恵まれていたんだと今ならわかる。あんなババアに出会ってしまったら、これまで出会ってきた人たちは、本当にみんないい人たちだったんだなって心から思うよ」
つまり職場の人間関係が悪化したのは、自分が原因なのではなくて、あくまでもそのうるさいババアが原因ってこと? そのうるさいババアが、本当にうるさすぎるから、自分はその人をさけなければならなくなってしまったと?
「はじめはとてもフレンドリーな感じだったんだ」ジョージはさらに話を続ける。「この店舗に配属されてきたばかりの俺に、気さくに声をかけてくれるし、休憩時間になると、あれやこれやとお菓子や飲み物などの差し入れを持ってきてくれる。俺もはじめはありがたいなと思っていたんだ。こんなに大量のものを、本当にもらってしまっていいんですかって感じだったね。しかしそれはいま思えば罠だった。それらの差し入れは、彼女からすると、そのあとで自分のわがままを聞き入れてもらうための貢物だったんだよ」
彼女のわがままとは?
具体的に?
「具体的にか。でもとにかくなんて言ったらいいんだろうな。しんどい作業は全部他人任せにして、自分は楽な作業ばっかりしようとするんだよ」
たとえば?
「たとえば、簡単なことだよ。重たい荷物の搬入のときには、自分は売り場でウロウロしていたり、客からのクレームっぽい対応が発生したときには、すぐに裏に引っ込んでくる。なんでも人のせいにするんだ。人のせいにして、自分は常に悪くないって態度を取り続ける」
ほかの従業員にしわ寄せがくる感じなんだ?
ジョージは答える。「まあだいたいそういう感じだね。俺に直接何か損が発生するってわけじゃないんだ。俺が不利益を被るって構図は少ないかもしれない。でも不愉快な気持ちにはなってしまう。彼女に責められている、ほかの従業員なんかを目の当たりにするとね」
彼女の言い分が正しいってことはないのか?
「それはもちろんあると思う。場合によっては、彼女の言っていることの方が、筋が通っているときもあるだろうね。でもたいていはそうじゃない。理不尽なんだ。彼女は、いつだって自分ばかりが得をするようにことを運ぼうとする。そのためにみんなに常日頃から甘い汁を吸わせるんだ。普段からお菓子や飲み物をいっぱいあげてるんだから、私が困ったときくらい、私を助けてくれてもいいでしょって。そんなのって、押し付けがましいったらありゃしない」
そんなに単純な話なのかな?
「おいおい、お前はどっちの味方なんだよ」ジョージがすごんでくる。「誰の味方なのかと言われたら、俺だろ? お前は俺なんだから俺の味方をしてくれよ。常に公平であろうとするのは大切なことさ。俺もあらゆるものごとのバランスを取るのは大好きだよ。でも人は無条件に誰かに味方をしてほしいときがある。今がそうだよ。今はつかの間の休憩時間なんだ。身体も休めて、出来れば心もリラックスしたいもんだね」
彼女の実家が何かしらの小売店である可能性は?
「は? 何が言いたいんだい?」
つまり、彼女が毎日毎日職場のみんなにお菓子や飲み物を配って歩いているのは、実家が何かしらの商売をしているからであって、だから彼女は家に帰れば、ほぼ無限にそういうお菓子や飲み物を手に入れられる――自分一人では消費できないから、だったら職場のみんなにおすそ分けしてあげようっていう――
「いい加減にしろよ。お前は俺なんだ。お前は俺の味方なんだ。お前、俺から分裂するような言動をとるんじゃない。そんなことばっかりしていたら、もうお前とは金輪際喋ってやらないぞ」
別にそれでもいいけど。
「ひねくれるなよ、ブラザー。不貞腐れないでくれ。どうせお互い一人じゃやっていけないんだから、仲良くやろうぜ」
結局一人ぼっちにはなりたくなさそうなジョージ。
了解。
じゃあ話を戻そう。それで? その気分が悪くなっちまうババアが休憩室にいるから、お前はタバコを吸わないにもかかわらず、今この外にある、主に喫煙者が好んで使うスペースでわざわざ涼を取っているってわけなんだな?
「それがそうとも言えないんだ」ジョージは再び缶コーヒーを口にして言う。「話していて思い出したんだけど、その俺の気に食わないババアは、先月付でもう退職してるんだ」
何だと?
「意味がわからないだろ? でも俺もいま話していて思い出したんだよ。彼女は確かにもうすでにこの店舗から退職している。このスーパーにはもう出勤してきていない。だからもう彼女はいない。売り場にもレジにも駐車場にも、それからもちろんスタッフ専用の休憩室にもな!」
何を言っているんだろうかこいつは。頭が錯乱しているのだろうか。今まで話していた気に食わないババアは、もうこの店舗にはいないという。先月付けでもう退職してしまっていると。
じゃあ大人しくスタッフ専用の休憩室に行けばいいじゃないか。どうして行かない? そこに行ってはいけない理由はもうないんだろう?
ジョージは物置の前を離れて、フラフラと駐車場内を歩き始める。遠くでまた犬の鳴き声がする。駐車場の端には柵が設けられている。その先は斜面になっている。斜面には木がたくさん生えている。木と木の隙間から、一軒家がたくさん見える。ここは住宅街の一角なのだ。住宅街から見ると、小高い丘の上に、このスーパーマーケットは建設されている。
再び物置の前に戻ってくると、誰かが灰皿の前でタバコを吸っていた。男だ。彼はいま灰皿の正しい使い方をしようとしている。灰皿の上にタバコの灰が注がれる。コンプレックスを覚える。いいな。自分もあんな風にタバコが吸えたなら、休憩時間に何も考えなくていいのに。
「あ、ジョージ君」
男がジョージに気付いて話しかけてくる。男は同じ店舗に勤めている、先輩社員のエリック・ジャクソンだった。
「エリックさんも休憩時間ですか」
「いや、なんかだるくなってきたから抜けてきた」
「そうなんですか」
だるくなってきたから抜けてきたってなんなんだ。そんな理由って社会人として通用するものなのか。
「勤務時間が長いからさ、適度に休みながらやらないとね」
「そうなんですね」
「あと今日店長いないし。店長いなかったらこっちのもんだよな。もう仕事してんのかどうかも正直わからん」
「そんなことあるんですか?」
エリックは副店長だ。本当につい最近この店舗へと配属されてきた。だからもっとも間近で別の店舗から配属されてきた社員といえば、この人のことになる。前の店舗では惣菜のチーフだったとか。年齢は三十歳。もしかしてもうすでに店長とは何か確執めいたものがあるのか?
「あるよ」
え?
エリックは続ける。「もはや今日は俺何もしてへんかもしれへん」
ジョージはエリックの顔色を伺う。ビックリした。どうやら、あるよ、というのは、店長との確執が、ということではなくて、あくまでも仕事をしているのかしていないのかわからなくなることが、あるよ、という意味らしい。当然か。
「てか今日出勤したらさ、バイトのアレックス君がいて」
バイトのアレックス君。
普段は夕方から勤務している、大学生の男の子だっけ。
エリックはさらに続ける。「おー、アレックス君いたんや、みたいになって。なんか元々今日は出勤予定にしてたらしい。俺そんなん知らんくてさ、おんねやったらめっちゃラッキーやん、みたいな」
「彼に仕事を任せられるからですか」
「そうそう。あの子めっちゃ頼りになるよな。学校の先生になるんやろ?」
アレックス君は今度の春、大学を無事に卒業すれば、小学校か中学校の教師になるらしい。優秀な学生ということになるのだろうか。
「棚作るのとかはさ、もうあの子に任しといたら大丈夫やわ」
「いいですね、自分の仕事を任せられるようなバイトさんがいて」
「ええかな?」エリックは少し首をひねってから「ジョージ君にもそういう子いたらええな。自分ばっかりで仕事してたらしんどいやろ」
わかっている。でも仕事はなるべく他人に任せたくない。何をされるかわからないからだ。そしてわけのわからないことをされると、どうしても一番初めに腹が立ってくる。なるべく職場では腹を立てたくない。無駄なエネルギーは使いたくない。誰よりも大人しく目立たないままその日の帰路につきたい。
「でも、青果はおばちゃんばっかりか」
「そうなんですよね、少なくともアレックス君みたいな学生の子はいないですね」
「みんなベテランさんばっかりやもんな」
「はい」
「でもそれはそれでええんか」エリックが言う。「なんでもかんでもはいはい言うこときいて、かわいがってもらったらええやん、それも楽やろ」
エリックの話をきいていて、そりゃあなたならそういうことも得意でしょうね、とジョージは思う。彼とはまだ仲が浅いが、彼は人付き合いにおいて飄々としたところがある。何を言われてもへこたれないところがありそうというか、まあ、具体的な話はまだ何もないのだが、しかし何も考えていなさそうで、何事にも自分の意見を常に持っている気がする。早いうちにどういう人であるのか見極めておきたい。味方にも敵にもなりそうだから気が抜けない。
「昨日の話やねんけどさ」
「はい」
「妻とケンカしてさ」
家庭内の愚痴か? 意外だ。他人に愚痴を言うような人だとは思っていなかった。普段の仕事ぶりから、愚痴を言うくらいなら行動しろ、みたいな思考の人かと思っていたが、そうでもないのか。グロサリー部門は、確かに彼がやってきてから、売り場も見違えるほどきれいになっている。売上も、今後は間違いなく前年比を上回っていくことだろう。仕事とプライベートは別ってことなのかな。
エリックは話を続ける。「それでいきなりで申し訳ないけど、ジョージ君はさ、お風呂の換気扇の最大の効用を考えたとき、お風呂場の扉は完全に閉め切った方がいいと思う? それとも少し開けておいた方がいいと思う?」
急なお風呂の換気扇の話――昨日の奥さんとのケンカの内容だろうか。何にせよ幸せな話か。
「そうですね」ジョージは答える。「僕としては、完全に閉め切った方がいいと思います」
「やんなあ」エリックが言う。「絶対にちゃんと扉は閉め切った方がいいよな」
「そりゃ閉め切った方がいいでしょうね」ジョージは続ける。「限られた空間の空気を入れ替えてこその換気扇ですよ。扉を開けていたせいで、空間に隙間があったら、それだけで換気扇の力はもはや半減されるレベルだと思います」
「お、めっちゃ言うやん」エリックは目を大きく開きながら「でも俺もだいたいそうやねん。だいたいは今の君の意見と一緒やねん」
「奥さんは違ったんですか」
やはりこれが昨日の夫婦ケンカの内容だったらしい。そういえばこの人は新婚なんだったっけ? わからない。新婚だったような気がするけれども、彼の年齢、私よりも二つ年上の三十歳ちょうどということを考えると、結婚歴はそれなりにあってもおかしくない。
エリックは話を続ける。「そうやねん、俺の奥さんは違ってん」
「どう違ったんですか」
「私の家では違ったと」
「私の家では?」
「そうやねん。私の家では、昔からそんなことはしていなかったと。お風呂場の扉を全部閉め切ってしまうようなことはしなかったと。あくまでもお風呂場の扉は、その使用中に外に水滴などが飛び散らないように閉めるだけで、お風呂の使用が終われば、それは常に開放されていたと」
「そんな家がこの世にあるんですか」
「いやあるやろ」エリックはふと笑みを浮かべながら「さすがにこの世にあるんですかは言い過ぎやろ。そういう家は別にあってもおかしくないよ」
そうかな?
「不服そうな顔やな」エリックは言う。「まあでも論点はな、なんでお風呂場の扉をしめるのか、それから、なんでお風呂場の扉を開けるのかってことやと思うねん」彼はそう言い終えると、もう一本タバコに火をつける。ここからこの話を深めてやろうという考えだろうか。
タバコの先が赤く灯る。涼しい風が頬に吹いてくる。手に持っていた缶コーヒーがもういらなくなってくる。これはかなりの頻度で起こることだ。最初はいいが、そのうちその甘ったるさがくどくなってくる。結局最後まで飲み切れない。
換気をするため?
お風呂場の換気を、より効率的に行うために、一方はそこの扉を開け、もう一方はそこの扉を閉める。この話は、ただそれだけのことじゃないのか。
「でもな、妻に言わせると、論点を解決したところで、腹の虫は収まらないかもしれないらしい」
「どういうことですか?」
「歴史があるということやろ」
「歴史?」
「歴史っていうか、これまでそうしてきたという事実が、どうにもこうにも自分一人では処理できへんねやろな」
歴史?
この換気扇の話はそういうことなのだろうか? 私としては、やはり歴史などという言葉を持ち出すまでもない話だと思う。お風呂場の素早い換気のためには、お風呂の扉を開けっ放しにしておくのが良いのか、それとも閉じておくべきなのか。それさえ解決できれば、あとはその答えに沿った日常を送るだけで、我々は平和な日々をまた一つ獲得できるはずだ。どうしてそこに抵抗があるのか。はっきり言って理解できない。
「今調べてみてもいいですかね?」
ジョージはそう言ってポケットからスマホを取り出そうとする。
「いや、もう調べてある」
「そうなんですか?」
「答えは、閉めっぱなしやで」
最近、この近所に新しい家族が引っ越してきたのかも知れない。というかほぼ確実にそれはそうだと思う。犬の鳴き声が頻繁に聞かれるようになったからだ。しつけのまだ出来ていない犬なのだろうか。でも鳴き声を聞いている限りでは、それは子犬のものではなくて、立派な成犬のものだと思われる。迫力があって、声の響きにも余韻がある。ただ実際にそれがどんな犬のものなのかはわからない。見たことがない。今日もまた犬の鳴き声が休憩中に聞こえてきた。近所迷惑として、この犬の鳴き声が、この界隈の住人たちの話題になっていないだろうか。もしなっていた場合、犬とその飼い主はどうなってしまうのだろう。
新しい家族?
ジョージはそう思うと、自らの思考を改める。エリックはタバコを吸い終えようとしている。彼が軽くあくびをする。灰が灰皿に落ちていく。もしかしたら新しい家族が引っ越してきたんじゃなくて、元々ここに住んでいた家族が、新しい犬を飼い始めたんじゃないか? いや、そんなことを言い出したら話の収拾がつかなくなってくる。心臓がバクバクしてくる。もうすぐ休憩時間が終わる。仕事が再開される。
「でもな、この話で俺が言いたいことは何が正解かってことじゃないねん」
エリックが言う。
「そうなんですか?」
「そうやねん」エリックはうなずきながら「俺が言いたかったのは、そういうことじゃなくてな、なんか変かも知らんけど、そのとき目の前にあったお菓子の話やねん」
目の前にあったお菓子の話?
「何なんですか、それ」
「いや、何なのかはわからへんねんけどな、でもその妻との言い争いの最中に、ふと目の前を見たら、チョコパイがあったわけよ」
「はい」
チョコパイ? あの市販されている、お菓子のチョコパイのことだろうか。
「換気扇の話が始まる前に、食後に食べようと思って冷蔵庫から出してきてたんやろな」
「はい」
「会話の合間に、それがふと目に入ってさ、それでそのときはむしゃくしゃしてたのもあって、適当に袋破って食べてん」
「はい」
「なんか思っていた以上においしくてさ」
「え?」
「いや、だからそんときのチョコパイが、そんとき思っていた以上においしくて。それで俺、ふと笑ってもうてん」
「何なんですか、それ」
「何なんですかって言われてもな。俺もよくわからへんけどな。でもあのときのチョコパイがおいしすぎて、それまでのその場の文脈とか関係なくふと笑ってもうたって話や」
意味がわからない。この人はなぜいまそんな話をするのか。換気扇の話をするなら、先輩としてそれに終始してほしかった。そしてそれに答えが出ているなら、堂々と自信を持って、その答えを出したところで話を打ち切らないと。
「それからどんどん不思議な気持ちになってきてさ」エリックはまるでジョージを無視するように続ける。「チョコパイってこんなにおいしかったっけ? とか。あと、チョコパイってもしかしていつもこっちが予想するよりもちょっとだけおいしくない? それがロングセラーの秘訣か? みたいなことも頭に浮かんできて。あとそれから単純に、こんなにチョコパイっておいしくなくてもええんちゃうかな? みたいなことも思ってたな」
「何が言いたいんですか?」
「わからんよ」エリックは言う。「わからんけど、でもいま思っても、確かにあんときのチョコパイに別においしさを求めてたわけじゃなかった。少なくともあんなにおいしくなくてよかった。笑ってしまうほどおいしくなくても。でもおいしかってんな、チョコパイ。ホンマなんか知らんけど、あのときのチョコパイおいしくて」
そのときだった。
「おい、ジョージそこおったんか。ちょっとこっちきてや」
搬入口からの大きな声する。視線をそちらにやる。店長が立っている。
「え、店長おったんや」エリックが言う。「今日休みちゃうんや」
「いや、休みのはずですけどね。なんかあったんですかね」
「知らんけど、ジョージ君、めっちゃ呼ばれてるやん」
何だろう。わからないが、店長の急な呼び出しに、いよいよ自分がなぜ休憩時間にこの喫煙スペースまで逃げてきているのか、その答えが用意されているような気がしてならない。
「ちょっと行ってきます」
「うん、そうし」
ジョージは物置の前を離れる。足音が立つ。砂利の擦れる音がする。怖い。いい報告ではない。これから天気は、きっと悪い方へと変わる。店長は軽く手招きをして、ジョージがやってくるのを待たずに、すぐに店内へと戻っていってしまった。