冷めた熱を片す
後悔しないように生きてきた。過去にとらわれないように生きてきた。
でも、ダメだった。後悔は俺を渦中から逃してはくれない。
過去がずっとこちらを見ている。それだけなのに、まるで鉛でも飲んだかのように体が重い。それでも先に進まなくてはならない。――過去が見ているのだから。
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ぼうっ、そんな間の抜けた音が耳を掠めた。
その音で目が覚め、勢いよく体を起こし周囲を見渡す。ついさっきまで横になっていた場所には草と土の感触。少し遠くには大型の遊具が一つと、そこで遊んでいる子どもにそれを見守る大人が数名ずつ。寝る直前まで家にいたはずの俺であるが、どうしてか公園にいるらしい。
「なんで公園なんかにいるんだ、俺……」
その呟きに答えはない。俺自身に心当たりもなければ、それを知る者もいない。誘拐かその類を疑ってみるも、その可能性はないと断言できる。そもそも色のない男を公園にさらうメリットがどこにあるというのか。
夕日に顔をしかめながら、とりあえず公園内を歩くことにした。座っていても埒が明かない気がした。
大学生のときは研究室の前にある原っぱで眠ったこともある俺ではあるが、あれからもう十何年も経っている。今更そんなことをする歳でもない。仕事だって辞めたばかりだ。それに何より、ここ一週間は家から一歩も出ない生活を繰り返していた身だ。なおのこと公園に来る理由が見当たらない。
「にしても、この公園どうもあの場所に似てるんだよな」
十年以上前に建て替え工事で綺麗サッパリなくなった公園。思い入れのある公園を思い出し、何気なく口にした言葉。そのはずなのに、その言葉を皮切りに胸の内で違和感が肥大化していくのが分かる。
立ち止まって公園を見つめる間に、疑念は確信へと少しずつ形を変え、俺はおずおずと振り返る。
道路を挟んだ向かい側、そこにはデパートがあった。見覚えのある建物が、記憶通りに。そして、その事実はなくなったはずの公園の現存を意味していた。
「そこで何してるの、おじさん。絵の邪魔なんだけど」
眼前、決して存在するはずのない夢の住人。まだ若い頃の俺――中学の制服を着た相田周二がそこにいた。
「おじさん、か……」
鉛筆とキャンパスノートを手に持ち、公園のベンチを独り占めしている絵描き少年。そんな過去の俺こと相田周二は言葉と目で邪魔だと訴えかける。
その居心地の悪さに頬を掻きながらも、二十年後の自分のことを「おじさん」と評する相田周二の言葉に思わず苦笑をもらす。彼からしてみれば、年齢相応には見えないほど俺は老けて見えているのかもしれない。
それもある意味じゃ仕方ないのかもしれない。俺のこれまでの人生は、心を折り型取るものでしかなかったから。
「なに、おじさんは俺の邪魔をしたいの?」
「あー悪い。違うんだ。そういうわけじゃない。そんなわけがない」
あいも変わらず、睨みをきかせている相田周二。このままずっと睨まれているのも気が気じゃないので、彼の隣に座ることにした。断りもなしに急に横に座ったからか、先にも増して視線が鋭くなっている気がするが、相手は過去の自分だ。気にするだけ無駄だろう。
それに、どうして今の俺が過去の世界なんてものを見させられているのか。その理由がここに来てようやく分かった。
「にしても、少年は絵を描いているんだな。絵は好きなのか?」
「それは、そうだけど、いきなり何?」
「いや、ただそういう奴にはそういう奴なりの特別な悩みがあるんじゃないかと思ってな。俺は今日、それを聞きに来たんだ」
「全く意味が分からないんだけど……」
「ないのか、悩みの一つや二つ」
おかしなことを聞いているのは分かっている。少なくとも、初対面相手に聞くようなことではないことは十分自覚している。
それでも俺は相田周二にどうしても聞いておきたかった。彼がこの先、しこりとなって残り続ける後悔の種があることを、他の誰でもない俺自身が知っているから。
相田周二は下を向いたまま、怪訝そうに眉間を歪ませている。彼が彼なりに、考えようとしていることは握りしめられている鉛筆の、その震えが物語っていた。
「……あるにはあるよ。でも、別に特別なものでもない。他のみんなも持ってるものだから」
「そうかもしれないな。でも、少なくとも少年にとっては特別なものだろう?」
一呼吸入れて、俺は言葉を続ける。
「――画家になるのが怖いって悩みは」
「なんで……?」
「そのくらい分かるさ。俺はおじさんだからな」
昔から、絵を描くのが人一倍に好きだった。筆を滑らせるたびに、胸の内で熱が灯るのを感じていた。その熱は不思議と暖かくて、手放すには惜しかった。それが分かっていたから、きっとこの先も絵を描いて生きていくのだろうと思った。
でもそれは違った。中学生になって、将来はどうするのか、それを改めて考えたとき怖くなった。将来というものの不透明さに、そして自分が歩もうとするその道の過酷さに。
小学生の頃、光るものがあると言われ何度かコンクールに絵を出したことがある。でも、そのいずれも賞に選ばれることはなかった。当時、悔しかった俺は展示会に行き、大賞作などを目にした。最初は接戦での落選だろうとたかをくくっていたが、絵を目にした瞬間、その考えはすぐさま否定された。レベルの違いに打ちのめされた。近い学年でありながら、どうしてこうも足もとにも及ばないと思えてしまうのか、不思議でならなかった。
もし、自分が画家の道を歩むとして。一体、どれだけの努力を積めば、どれだけの苦悩を超えれば、あの人たちに届くのか。考えるだけでも怖かった。
「やっぱり、怖いか。画家を目指すのは」
「それは、先なんて見えないから。見えたところで折れちゃいそうだから……」
「でも、自分の手で想像を形にする。あの瞬間だけは、少年にとって本物なんじゃないのか?」
「どうなんだろう。よくわかんない。でも確かにあの瞬間は楽しいよ」
「なら。その『楽しい』だけは手放すな。その熱だけはあんたを本物にしてくれる」
そうなのかな、そう呟く相田周二を横目に俺はベンチから立ち上がる。
彼の呟くそれに答えなんてものは存在しない。後悔しないための術なんてものはない。だから、彼に返せる答えもまたない。
その代わりに、振り向きざまに手を振り「頑張れ、応援してる」と口にした。
「――――――――っ」
相田周二が何かを言っている。けれど、もう届かない。聞こえない。
視界は揺らぎ、意識はたゆたい、存在自体おぼつかない。そうして――夕方、俺は夏の蜃気楼に溶けていった。
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じりりり、夏をこれでもかと弾ませる蝉しぐれに、うんざりとため息をこぼしながら、ばっとカーテンを開け陽射しをいっぱいに浴びる。
どうも今日は寝覚めがよかった。昨夜、眠る前に酒を飲んだ影響か、体に僅かな気だるさが残っていたが、心持ちは不思議と悪くなかった。まるで何かにけしかけられたかのような気分だった。
見た夢でもよかったのだろうか。夢とはいえ、こればかりは記憶にないことが悔やまれる。
「ま、そのへんは別にいいか。とりあえず次の仕事でも探すとするか」
悪くない感慨を胸に、玄関の扉を開け、次を目指して歩き出す。
初作です。今回のは分からないものを分かろうと進む話です。自分の過去なんてよく分からないからね。