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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪役紳士と下っ端従者の冒険譚

作者: 幻燈

 

 眼前に(そび)える古い建物。その向こう側から心地よい風が吹き、煤けた灰色の髪が(なび)く。爽やかな空気を肺いっぱいに吸い込むと、少年は拳を握り締めた。


「やったぞ……! 遂に、おれもここまで来たんだ!」


 ***


 少年——ヨシカは生まれから天涯孤独、路地裏育ちの教養とは程遠い人間だ。孤児院に身を置いたこともあったが、なかなかどうしてこの一匹狼気質には孤児院での生活は向いていなかった。


 というのも、孤児院では働かざる者食うべからずという教えの元、子どもたちが全ての雑事を行っているのだが、むしゃくしゃすることがあったからとサンドバック代わりに扱われることもままあったからだ。

 子どもたちは、幼い頃から「自身が孤児であるから悪いのだ、むしろ存在価値を与えていただけているだけ有難いことだ」と刷り込まれていた。


 だが、ヨシカは違う。自身がそんな目に遭えば理不尽に思うし、幼い子らを守ろうと身体が動く。そうして歯向かった結果、「ガキが誰かを助けられると思い上がるんじゃねぇ」と殴られ、捨てられた。


 一気に路地裏生活に逆戻りだ。


(でも、可笑しいじゃん。強いやつが弱い子を助け、守るもんじゃないのか?)


 かつて見た騎士たちは皆、弱い者を助けるために戦いに出ていた。その恐怖や鬱憤を、決して庇護する者で晴らすこともなく。

 騎士たちが直接ヨシカを助けてくれることはなかったが、少なくとも彼らはヨシカたち孤児に対して手を上げることも、手酷く扱うこともなかった。


「……ぐす、ぅぅ」


 路地裏を歩いていると、すすり泣きが聞こえてきた。ヨシカが顔を向けると、痩せ細った少女が更に小さな子を抱きかかえ、その腹に顔を(うず)めている。

 幼子は四肢を弛緩(しかん)させ、首も力が入っていないのかぐったりと後頭部を地面につけている。暫く眺めていたところで、一切動く気配がない。恐らく、亡くなっているのだろう。


(気の毒だけど)


 ここではよくある光景だ。その証拠に、誰も彼女らを心配する者はいない。むしろ、すすり泣く声が煩わしいと、傍で吞んだくれていた浮浪者が眉を顰めている。

 少女も本当は泣き叫びたいだろうに、少しでも声を上げれば拳が飛んで来ることがわかっているのか、ただ震えていた。


「きゃはは!」


 表通りでは今日も賑やかな人の声が聞こえ、子どもたちが親に「これ買って」と玩具をせがんでいる。ただ、一筋中に入っただけだというのにこの差だ。


(この国は、間違っているよな)


 だからといって、同じく孤児であるヨシカにできることはない。今日の食事はおろか、ここ数日まともなものを食べていないのだ。

 孤児院を追い出されたせいで、ささやかな食事と寝床も失った。

 唯一、孤児でも金を稼げる斡旋所ですら足元を見られ、狩った魔物を持って行ったところでパン一個買う金にもならない。


 日中は街の外で雑草を食み、夜は残飯を漁る。そんな鼠にも劣る生活をしていた。


(は~~……明日の生もままならないかぁ)


 早いところ職を手にしなければ、躯になるのは自分自身だ。ヨシカは今日こそまともな食事にありつくべく、荒くれ者御用達の定食屋へと向かった。



「あら、ヨシカ。いらっしゃい、久しぶりねぇ」


 定食屋の裏口から店内に入ると、店主がヨシカに気付いた。


「おはよう、店長! 今日何か仕事ある?」


 ヨシカが店主に出会ったのは、孤児院に身を置くより以前のことだ。斡旋所にて発令される、魔物の間引きを日課にしていたヨシカへと唐突に詰め寄ってきたのは記憶に新しい。

 最初は大層危険な人物かと警戒したものだが、痩せぎすの少年に手伝いを申し付け、見返りとして余った材料で料理を振る舞ってくれた。

 その後も、間引いた魔物の低賃金でその日暮らしをするヨシカを気にかけ、庇護してくれる場として孤児院を紹介したのも店主だ。


「ヨシカ、あなたまた……ご飯十分に貰えてないの?」

「経営難だって、仕方ないじゃん」

「まさか前みたいに街の外に出てるんじゃないでしょうね!? 子どもにご飯をちゃんと食べさせるのが彼らの仕事なんだから、あなたが我慢することないのよ!」


 食事を貰うどころか追い出されているのだが、それをこのお人好しに言うつもりはなかった。


「今のうちにまともなものを食べておかないと大きくなれないんだから……ほら、何か作ってあげるから座ってちょうだい」

「駄目だよ、店長」


 厨房へ戻ろうとする店主に、ヨシカは首を振った。

 施しは受けない。それは、ヨシカが店主と出会った頃に交わした約束だ。


「そう、だったわね……生憎、今日は仕事があまりないのだけど」


 店主は輝く頭をかきながら、バツが悪そうに店内を見渡した。普段ならこれだけ話し込んでいれば料理を早く持ってこいとばかりに怒声が飛んできそうなものだが、今日に限っては静かだ。

 何か問題でも起きたのだろうか。ヨシカが厨房から顔を覗かせると、人っ子一人いない閑散とした空間が広がっていた。


「今日おっさんたち誰もいないじゃん。どうしたの」

「それが……」


 これを見てちょうだい、と店主が一枚の紙切れを指した。残念ながらヨシカには文字は読めないのだが、斡旋所で似たような文字を何度も見かけたことはある。


「これもしかして、仕事の……?」

「そうよ。隣の領地を収めるお貴族様が従者を探してらっしゃるんですって。収入も高くて住み込み、何より身分や年齢を問わないらしいって皆(こぞ)って出て行ったんだけど、どう考えたって訳ありよねぇ……」


 ヨシカは求人募集の用紙を食い入るように見ていた。彼の耳には最早、店主の話など聞こえてすらいない。


(金も住むところももらえて、身分も年齢も問わないって!?)


 ヨシカは目を輝かせた。これしかない、と勢いよく顔を上げる。

 店主が戸惑うように何度か瞬きをした。


「ヨシカ……?」

「店長! これ、いつ!? どこでやんの!?」

「え、えぇと……三日後のお昼頃、フックス領の御屋敷で行うんですって」

「三日後、フックスね! ありがと!」


 返事を聞いてすぐ、ヨシカは店を飛び出した。その背後から、店主の戸惑う声が聞こえる。


「ヨ、ヨシカ……! あなた、フックスまでどうやって行くかわかってるの?」

「わかんないけど! 歩いてたら辿り着くよ!」


 かと思えば、ドドドドド……ッと、地鳴りのような足音がヨシカを追い掛けてきた。


「このおばか! フックスまで大人が歩いて一週間も掛かるのよ! それに、街の外は魔物だらけ、いつどこでどんな魔物に遭遇するかもわからないのに、どうやって行くって!?」

「ま、魔物くらいおれだって……一体一だったらどうにか……」

「そんな配慮してくれるわけないでしょう!! というか、いい加減止まって話を聞きなさい! あなた、フックスまでの行き方も知らないんでしょう!?」


 ヨシカは足を止めて振り返った。言われてみればそうだ。生まれてこの方、この街でしか生活をしたことがないヨシカにとって他の領地など未知の世界。

 どこにあるのか、どうやって行くのかも正直わからない。

 店主は漸く止まった、と肩で息をしながら笑った。


「……フックス領行きの、馬車があるわ。次の馬車が、試験に間に合う……最後の便よ!」

「馬車……じゃ、おれは行けない」

「何を諦めているのよ! ほら、早く行く!」


 路銀の持ち合わせもないのに、どうやってと顔を顰めるヨシカの手に買い物鞄を握らせる。

 少し重量があることから、買い出しを頼みたいわけではないだろう。ヨシカが戸惑うように顔色を窺うと、店主は「貸しよ!」とだけ言ってヨシカの背を押した。


 ***


 三日後。あれから何とかフックスに辿り着いたのだが、ヨシカは少し困った事態に陥っていた。


「おれ、どこに行けばいいんだろう……」


 折角、店主が路銀と軽食を渡してくれたというのに、肝心の屋敷にまだ辿り着いていないのだ。もうすっかり太陽は頭の天辺に上りかけている。

 このままでは間に合わなくなる。だが、周りの人間はヨシカと目が合いそうになれば顔を逸らすか、嫌そうな顔をした。

 自身の格好が薄汚いせいで物乞いにしか見えないのだろうが、もう少し手を貸そうという気概はないものかと苛立ちが募る。


「ああもう! なんちゃらフックスの屋敷ってどこだよ!!」


 ヨシカが思わず叫ぶと、不意に近くでコンコンと硬質なものを叩く音が聞こえてきた。

 何だろうと振り返った視線の先に、立派な馬車が停車している。中は布で覆われているため音の正体かは不明だが、ヨシカが往く手を阻んでいたのかもしれない。

 ヨシカが道の端へと寄ると、御仕着せを身に纏った人物が降りてきた。


「君。試験会場はこの道を真っ直ぐ行った先にございますよ」

「え、あ、ありがとうございます!」


 どうやらヨシカの叫びを聞き、態々教えてくれたようだ。ヨシカが頭を下げると、使用人は颯爽と御者台に乗り、手綱を手に取った。


(…………?)


 ふと、目線を感じ、目線を上げる。すると、布の隙間から、中の紳士がヨシカへと視線を向けていた。自身の煤けた灰色の髪とは異なり、よく整えられた髪は青みがかった灰色をしている。

 ヨシカと目が合うと、彼はよく整えられた口髭を撫でつけながら、にこやかに微笑んだ。


(な、なんていい人……!)


 思わず、その美麗な微笑みに目を奪われる。同じ男だというのに、金持ちというのはこうも優雅なのかと、ヨシカは感嘆と羨望の息を吐いた。


「……っとと、こんなことしてる場合じゃない! 急がないと!」


 教えられた道を走る。最早、間に合うか否かを考える暇はない。一先ず足掻け、考えるのはそれからだとひたすら足を動かした。



「あ、あれは……!」


 厳かな雰囲気の大きな屋敷が現れる。古びているものの、よく磨き上げられた窓は陽の光を浴びて輝き、美的感覚に疎い孤児ですら価値のあるものだとわかる。

 その建物の前に、人だかりが見えた。ヨシカ同様、試験を受けに来た者たちだろう。

 間に合った、と胸を撫で下ろしたのも束の間、人だかりを隠すように黒い門がその口を閉ざし始める。


「待って待って! 通ります! おれも、おれも入ります!!!」


 慌てて駆け寄るも、すでに人ひとりすら通れない隙間しか残っていない。ヨシカは速度を落とし切れず、門にぶつかった。


「何だ、お前は!」


 門を閉じようとしていた男が誰何(すいか)する。手に握られた大きな槍が、ヨシカを脅すように向けられた。


「お、おれは怪しい者なんかじゃなくて! 従者志望!」

「ハァ……? お前みたいな薄汚いガキが?」


 男が顔を歪めてヨシカを見下ろす。そして、よく見てみろと敷地内に集まった者たちを指差した。

 皆それぞれ差はあれど、小綺麗な格好をしている。それこそ、定食屋で見掛けた顔ぶれですら、比較的身綺麗にしているのだ。ヨシカのように煤や泥で汚れた格好をしている者など、誰一人としていなかった。


「お前さ、文字読めないだろ? 普通は会場がお貴族様の屋敷って時点で、そんな恰好で来る奴はいないぜ」

「……でも、身分も年齢も関係ないって聞いたんだけど」

「そうは言ったって、まさか従者にこんな汚ねぇガキは選ばねぇの!」


 さあ帰れ、帰れと背中を押される。やはり孤児では駄目なのか。

 ヨシカが顔を俯かせたときであった。


「別に、薄汚い鼠だろうとも構いませんよ」

「だ、旦那様……!?」

「……ぇ?」


 都合よく聞き間違えたのではないかと、顔を上げる。すると、門の向こう側に、馬車で目が合った紳士が立っていた。


「この私、アインハード・フォン・フックスが求める条件はただ一つなのですから」


 アインハードはそう言うと、にっこりと微笑んだ。心なしか、その切れ長の目が鋭さを増している気がする。

 男が震えながら門を開け、ヨシカを通した。


「あ、あの、ありがとうございます! おかげで試験を受けられます!」

「いえ。試験はもう既に終わっていますよ」

「へ……?」


 試験が終わっているとはどういうことだろう。ヨシカが首を傾げると、アインハードが半身を引いて敷地内を見せた。


「え、あれ……? 皆どうしたんだ……?」


 先程まで敷地内で待っていたはずの人々は皆、気を失ったかのように倒れていた。長時間、陽に照らされすぎたせいか、人だかりのせいで気分が悪くなったのかもしれない。何にせよ、アインハードの言う通り、これでは試験は続行不可能だろう。

 ヨシカが肩を落とすと、アインハードがその肩にハンカチを乗せ、手を置いた。


「君、名は?」

「ヨシカ……」

「おめでとう、ヨシカ。今日から君は私の従者(下僕)です」


 ぞわり。ヨシカは咄嗟に粟立った両腕を掌で擦った。

 アインハードの言葉が脳内をぐるぐると駆け巡る。もしかして、もしかしなくても。何故かはわからないが、従者の試験に合格したのだろうか。


(でも、今不穏な感じがしなかった……?)


 何にせよ、合格したのならばこの先の生活も保障されたようなものだ。


「やったぞ……! 遂に、おれもここまで来たんだ!」


 ヨシカは両手を握り締め、天高く拳を掲げた——はずであった。


 ***


「なんでおれこんなことになってんの……!」


 ヨシカが生まれ育った領地とフックス領の領境に続く、果てしなく広い荒野の中。ヨシカは従者に支給された剣を両手に持って空に吠えていた。


「ほら、子鼠。魔物が向かってきますよ。しゃんとしなさい」

「しゃん、とって……アイン様も、手伝ってくださいよ……!」

「何故、私が? 君がいるのに、この私に手を汚せと?」


 アインハードがヨシカに向かって眉を顰める。常識知らずだわこの子……といった視線に曝され、ヨシカは額に血管を浮き上がらせた。

 ヨシカの怒りが漏れ出ていたのか、目の前の魔物がふるりと身震いをする。


 そもそも、こうなった発端はアインハードにある。

 なんと、ヨシカが従者に就職後、数週間も経たぬ内にフックス家が没落したのだ。この多方面を敵に回す性格が災いし、罪状をでっち上げられたらしい。


 詳しいことはヨシカには何も伝えられていないので知らないが、「まあ、大体アインハードが悪いんだろうな」と思わずにはいられなかった。


「第一、仲間だと思っていた方々に裏切られて哀しんでいる私に追い打ちを掛けようというのですか?」

「職を、失って……悲しんでる、おれに対する、……ッは、仕打ちは見えてます……?」


 ヨシカはアインハードと喋りながらも、襲い来る魔物の胴体に刃を立てた。びしゃりと血が飛び散り、顔に浴びる。

 肩で息をしながら、顔に付着した血をお仕着せの袖で拭き取る。お仕着せの色が血の目立たない暗い色でよかった。


 魔物は暫く痙攣していたが、やがて動かなくなった。


「だからこうして雇っているでしょう?」

「は……?」

「ほら、それの魔核を取ったら斡旋所へ向かいますよ」


 かつては捌き方もわからず、死骸そのままを持ち込むせいで手数料を取られていたようだが、今ではすっかり魔核や素材を取れるようになった。

 フックス領の斡旋所だからか、アインハードのおかげか。足元を見られることもなく、魔核や素材を売って生計を立てている。

 といっても、魔物を狩るのも素材を取るのもヨシカの仕事で、アインハードは傍に座って優雅に黄昏ているだけだが。


 今日も今日とて、魔核を売って手に入れた硬貨のほとんどがアインハードの懐へと仕舞われていった。


(……割に合わないったら)


 ヨシカは手の中の硬貨に溜息を吐いた。これではいくら貯めたところで、ちっぽけな武具しか買えないではないか。

 食事を切り詰めて何とか工面しようとはしているが、最近は何故だが妙に腹が空き、気付けば硬貨を使ってしまう。


 そもそも、本来であれば全てヨシカが手に入れた金銭であるはずなのに、当たり前のようにアインハードが懐に仕舞うのが可笑しいのだ。

 受付嬢も、大人であるアインハードが戦っているとでも思っているのか、何も疑問に思わずに硬貨を渡してしまう。

 とはいえ、ここで倒したのは自分だなどと声高に告げたところで、誰も信じないだろう。


「……安すぎません?」


 せめて、抗議するのが精一杯だ。それも、呆れたように首を振るアインハードによって却下されてしまった。


「君は、少々勉学が足りませんね」

(孤児の俺に教養なんかあるわけねーだろ)


 ヨシカがふてくされていると、アインハードがふむ、と考え込んだ。


「仕方ありませんね。……着いてきなさい、子鼠」


 ***


 アインハードに連れられ、辻馬車に乗る。向かった先は、ヨシカの生まれ育った街であった。


「ここは……」

「おや、知っているのですか」

「うん、よく手伝う代わりにご飯を貰ってて……」


 アインハードが足を止めたのは、以前ヨシカが世話になっていた定食屋であった。丁度扉が開き、中から店主が顔を出した。


「あら? ヨシカじゃないの……! あなた、元気にしてたの!?」

「店長……久しぶり」


 ヨシカが挨拶を返すと、店主がヨシカの御仕着せ姿に目を白黒とさせる。


「貴方、まさか……!」

「あ~~……いや、受かったには受かったんだけど、その後すぐに職を失ったって言うか……うん」


 ヨシカの説明に、店主が「どういうことなの」と眉を顰める。詰め寄らんばかりの勢いに後退ると、いつの間にか背後に立っていたアインハードにぶつかってしまった。


「あ、アイン様……? すみませ」

「え……アイン? アインって、アインハード!? あなた、何でここに!?!?」


 アインハードの顔を見た途端、店主がお淑やかとは程遠い表情をしてみせた。まるでアインハードのことを知っているようだ。


「あなた、突然姿を消してからどうしてたのよ……いや、それよりヨシカといるってことは」

「私のことなんてどうでもいいでしょう」

「どうでもいいわけないじゃない! あの子たちが死んで、あなたも消えて……あたしがどれだけ心配したと思っているのよ!」

「どうでも、いいでしょう?」


 アインハードの冷たい声が、場の空気を凍らせる。踏み込み過ぎたと悟ったのか、店主の顔色が悪い。

 ヨシカがおろおろと二人の間で視線を彷徨わせていると、アインハードがヨシカの両肩に手を置き、店主へと突き出した。


「……そんなことより。この子鼠、食事を疎かにしているんですよ」

「こ、子鼠って……ヨシカはペットじゃないのよ」

「わかっていますよ、私の従者ですから」

「いやだからもう従者じゃないですって」


 咄嗟に反論しながらも、意外にも強い力で押され、ヨシカはたたらを踏みながら店内に足を踏み入れた。そのまま、押されるままにカウンター席に座らされる。

 アインハードも隣に座ると、優雅にメニュー表を捲る。周囲の客も思わず視線を送るほど場違いで、居心地が悪い。

 これ以上過去の話をする気はないと口を閉ざすアインハードに、店主は溜息を吐いてヨシカへと視線を移した。


「やだ、ほんとに痩せてるじゃない。孤児だった頃の方がまだましだったわよ!? アインハード、ちゃんとヨシカにご飯をあげているの!?」


 だから何故、そう一々自身のことをペット扱いするのか。ヨシカは頬を丸く膨らませた。


「ちゃんと食事代は渡していましたよ」

「じゃあ何、ぼられたっていうの?」


 どこのどいつが、と店主が(まなじり)を吊り上げる。それをアインハードが涼しい顔で否定した。


「食費を削って別のものを買おうとしているんですよ」


 ヨシカは知っていたのかと目を丸くした。対して、店主は頭を抱えて呻き声を上げる。


「一体、食事を疎かにしてまで何を買おうっていうのよ……」

「……武具だよ」


 今度は店主が目を瞬かせる。そして、驚きの表情のままアインハードに視線を向けた。


「アインハード、あなた……伝えてないの?」

「そういえば、言い忘れていましたか。その服、高位の魔物の糸で作られているんですよ」


 素材以上の魔物でない限り、滅多なことでは肉体を傷付けないし、生地自体も傷まない。その上、自浄効果のある魔術も掛けられているらしい。全く、至れり尽くせりである。

 ヨシカはテーブルに思いっきり頭を打ち付けた。


「なんだよそれぇ……」

「だから勉学が足りないと言ったでしょう。少し考えれば今までの無茶な戦いでも怪我を負わないことに疑問を呈するはずですが?」

「くっ……! だってそんな凄そうなものをおれなんかが着ているとは思わないでしょ!」

「私が私のものに妥協するとでも?」


 アインハードは不服そうに整った髭を撫でた。


 ***


 食事をしっかり取るようになってから、ヨシカは目に見えて力が満ち満ちていた。これまでの戦いに比べ、一匹を倒すのにもあまり疲労を感じない。

 疲れにくくなったからか、あるいは集中力が増したからか。魔物の動きが少しわかるようになり、急所を狙えるようにもなった。

 そのおかげで、斡旋所でも「最近よくがんばっているね」と褒められるようになったのだ。


(なんか強くなった気がする……!)


 最早、ここら一帯の魔物など敵ではない。

 相変わらず、アインハードは傍に座ってヨシカの淹れた茶を嗜むばかりだが、慣れてしまった今となっては何とも思うまい。

 それよりも、ヨシカは自身の力がどこまで通用するのかを試したくて仕方がなかった。


「アイン様、今日はもう少し先へ行ってもいいですか?」

「ふむ……まあ、そろそろいいでしょう」


 アインハードもヨシカの成長を認めたのだろう。先へ進むことに対して、許可が下りる。


 そうして荒野を進んでいくと、遠くにぽっかりと空いた穴が見えてきた。窪みなどではなく、魔物が大口を開けているかのような、先の見えない穴だ。

 とても自然にできたものとは思えない違和感に、ヨシカは思わず立ち止まった。


「あれは……?」

「……子鼠、戻りますよ」

「はい……? え? まだ、ちょ……っ!」


 穴を見た途端、アインハードがヨシカを小脇に抱え、来た道を戻る。非戦闘員だというのに、ヨシカが幾ら暴れようともびくともしない。

 先程までは進んでいいと言っていたのに、何故急に引き返すのか。ヨシカがむっとしてアインハードを見上げると、眉に皺を寄せた気難し気な表情がそこにあった。



「アイン様、どうして戻って来たんですか」


 結局、ヨシカは斡旋所まで連れ戻された。いつになく扉を強く開けるアインハードに、中にいた人間がぎょっと目を見張る。それを一切気にすることなく、アインハードが受付へと駆け寄る。


「ど、どうされました……?」

「少し耳を貸してください…………いいですね? 急いで」


 アインハードに耳打ちされた途端、受付嬢の顔が蒼褪め、すごい勢いで奥の部屋へと引っ込む。


「アイン様、何を伝えられたんですか?」

「子鼠は質問ばかりですね……そのうち、わかりますよ」


 ヨシカがぱちぱちと目を瞬かせていると、奥の部屋から受付嬢と責任者らしき男が大慌てで出てきた。双方ともに目を見開き、汗が額に滲んでいる。


「魔の、大穴ができたってか……ッ!? 嘘じゃないだろうな!? 報告者は!?」

(魔の大穴……?)

「私ですよ。……こんなことで嘘など吐いて、どうするというのです」

「あ、アインハード様……!?」


 先程荒野で見かけた穴のことだろうか。何やら特殊な穴だったらしい。ヨシカが様子を窺っていると、突如出てきた責任者に注目が集まっていたのか、周囲がざわつき始めた。


「魔の大穴だと!?」

「まさかそんな……どうすんだよ、俺たちじゃどうしようもないぞ……!」


 ヨシカが振り返ると、斡旋所に異様な空気が流れ、そこにいた者たちは皆一様に浮足立っていた。ある者は頭を抱え、ある者は震えている。反応の差はあれど、誰もが表情を暗くさせていた。

 それ程厄介なものなのだろうか。ヨシカが思わず剣の柄尻に手を当てると、責任者の男が重々しい空気の中、口を開いた。


「……アインハード様、無理は百も承知なのですが……どうか、我々の街を救ってはくださいませんでしょうか」


 男の言葉にヨシカはぱっと顔を上げた。

 力を、求められている。孤児である、ヨシカの。皆が唾を吐き捨て、死んでも気にされることのなかった、正に鼠のような存在である自身に助けを求めている。


(もし、もしおれが窮地を救えたら……)


 孤児たちの扱いが今よりマシになるかもしれない。少なくとも、孤児たちの道を拓くことができるかもしれない。

 ヨシカは速まる心拍を抑えるように胸に手を当てた。早く、早く返事をしなければ。ヨシカが口を開いたときであった。


「はい? 何故、私がこの私を捨てた国のためになるようなことをしなければならないんです?」

「は……いや、しかし……貴方は」

「私はもう貴族でも、ましてや()()()()()()()()()()でもありませんよ。今、義務を果たすべきは貴方がたです。それで滅びるというのならば、滅びるがよろしい」


 私も滅びたようなものなのですから、とアインハードが平然と宣う。ヨシカは言葉の真意が理解できず、のろのろとアインハードを仰ぎ見た。


「アイン様……でも、助けないと……」


 ヨシカがなんとか言葉を口にすると、アインハードは駄々をこねる子どもを見るように溜息を吐いた。


「子鼠、私はもうこの領地の領主でも何者でもない。貴族位も剥奪され、権威は強奪されました。今この領地を守るのは私ではなく、新たに領主に据え置かれた者の仕事ですよ」

「だからって……それじゃ、見殺しと同じじゃないか……」

「そうならないために、彼らのような斡旋所と契約している者がいるでしょう」


 アインハードがゆっくりと目を細め、周囲を見渡す。その視線の先には、屈強な男たちが武器を携えていた。

 視線を受けた男たちは一様に顔を俯かせている。誰も、自分たちが討伐しようと立ち上がる様子はない。


「……でも、あんなんじゃ無理だよ」


 ヨシカはわなわなと震える手を握り締めた。目の奥がちりちりと熱を帯び、赤く染まっていく。


「君に、何ができるというんです? 君は私の従者で、他の何者でもない。……ほら、行きますよ」

「……強い奴が皆を助けるんだ。もう、アイン様の言うことは聞いていられない。おれは行くから」


 これ以上この場にいると、怒りで涙が零れてきてしまいそうであった。何だかんだと、アインハードはヨシカが強くなっていることを認めてくれていると思っていたのに。


(おれの信条まで否定するなんて……)


 ヨシカは斡旋所を飛び出した。その背を、アインハードが追ってくることはなかった。


 ***


 アインハードと別れて以降、ヨシカは途方に暮れていた。頭が冷えてくれば、アインハードが言ったことも間違いではないと理解できるのだ。

 ヨシカも強くなったとはいえ、あれだけ大の大人たちが震えあがるほど恐ろしいものに対し、一人でできることは無いのかもしれない。そもそも、ヨシカは魔の大穴のことすら何もわかっていないのだ。


(……アイン様から勉学が足りないって言われそうだな)


 残念ながら、その声は聞こえてこない。俯きそうになる顔をヨシカは両手で叩いた。落ち込んでばかりではいられない。

 まずは斡旋所へ聞き込みに戻るかと歩き出すと、背後から声を掛けられた。


「あれ、君……確かあのお貴族のおじ様みたいな人と一緒に行動してる子だよね?」

「えと……? まあ……」


 振り返ると、見知らぬ青年たちが近付いて来た。


「見習い従者の子だっけ? こんなに小さいのにすごいよね」

「いや~……はは」


 それも過去のことだが。

 何か用でもあるのだろうかとヨシカが訝しんでいると、リーダー格の青年が「そんなに警戒するなよ」と両手を上げた。


「君、最近凄い速さで成長してるんでしょ? 強いって噂になってるよ」

「え……」


 青年の言葉に、ヨシカはきょとんと目を丸くした。そんなヨシカに対し、別の青年が畳み掛けるように話を続ける。


「俺たち、魔の大穴に挑もうと思うんだ」

「大人たちはビビッて何もしないだろ? 僕たちがこの街を守らなくちゃって」


 志の高い青年たちのようだ。


「でも、俺たちじゃ心許ないんだ。もしよければ、君も一緒に行ってくれないか?」


 頼りない大人の代わりに、自分たちで街を守る。ヨシカは高揚するのを感じた。

 自身と同じように何かを守るために戦おうとする青年たちと共に戦いたい。だが、何の準備もせずに挑むことはできない。


 ヨシカは少し考え込んだ後、青年たちを見上げた。



 荒野を、武器を携えた青年たちが進んで行く。ヨシカもまた、青年たちの足跡を踏みながら荒野を歩いていた。


「まさかヨシカが魔の大穴のことを知らないなんてな」


 先方を歩く青年が振り返り、ヨシカに話し掛けた。


「まあ、孤児なら仕方ないって」


 青年たちに着いて行く代わりにヨシカが出した条件は、魔の大穴について調べてから行動するということだ。

 ところが、魔の大穴というのは誰もが知る基礎的知識であったらしく、未だに揶揄われていた。


「だって、通常よりも強い魔物が出てくる大穴だなんてド直球な名称だとは思わないじゃんか」

「正確には、大穴の中では通常よりも濃度の高い魔核が生成され、それによって強い魔物が排出されるんだけどね」


 青年たちの話によると、魔の大穴で生まれる魔物は一匹のみだが、周囲の魔物の力を全て吸い取ったかのような強さであるらしい。

 確かに、一人では敵わなかったかもしれない。


(でも、今は彼らがいる)


 ヨシカは額に浮かぶ汗を拭き、大丈夫だと自身に言い聞かせた。


「あった! 大穴だ!」


 そのとき、前方を歩いていた青年が止まり、声を上げた。

 顔を上げると、アインハードと見たときよりも大穴が近くに見える。心なしか、大穴が拡がっているような気がするのは気のせいだろうか。


 青年の一人が大穴近くで耳を(そばだ)てた。ヨシカも息を潜めていると、大穴からコオオォォ……と何かの咆哮が聞こえてくる。


「……いるな」


 誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。

 この先に、今まで戦ったどの魔物たちよりも強い魔物が待ち受けているのだ。ヨシカは耳の奥にまで鼓動が聞こえてくるような感覚がした。


「……そうだ、ヨシカ。この粉を被っておくといい」


 大穴へと足を踏み入れる直前、青年がヨシカに向かって革袋を投げた。中を覗くと、銀朱色の粉が入っている。


「これは……?」

「魔物の意識を阻害する粉だよ。気付かれにくくなるんだ」


 青年の説明にヨシカはなるほど、と頷いた。それならば、他の皆も被っておいた方がいいのではないか。疑問が顔に出ていたのか、「俺たちは先に被っている」と青年が告げる。


(こんなものまで用意してくれるなんて、いい人たちだなぁ)


 ヨシカは粉を頭から被った。

 それを見届け、青年が大穴の中へと入って行く。ヨシカも遅れるまいと、大穴の中へと飛び込んだ。


 ***


 中は思いの他、暗くはなかった。所々に光苔が生えているからか、薄ぼんやりと照らされている。

 ひんやりと冷えた空気の中、妙に何かが腐敗したような生臭い匂いが漂ってきた。


「…………ッ!」


 先方を歩いていた青年が急に立ち止まった。寒いはずなのに、首筋に雫が浮かんでいる。

 ヨシカは、カタカタと小刻みに震える青年の肩口から前を覗き込んだ。


「あれが……大穴の、魔物……?」


 周囲の魔物の強さを吸い取ったなど、そんな可愛い表現は似つかわしくない。まだ距離もあるはずなのに、魔物の生臭い鼻息がヨシカの場所にまで届く。


 得物を探すようにぎょろぎょろと動かされる三対の眼、裂いたかのように大きな口。刺されれば穴が開くであろう鋭利な角が二対、獣の額に付いている。

 脚はヨシカの胴回りよりも太く、足元には鋭い爪によって深い溝が掘られている。尻尾も雄々しく、叩きつけられれば、それだけで人間など骨諸共砕かれてしまいそうだ。


(弱点が……ない……)


 少なくとも、今のヨシカでは見つけられそうもない。頭を避けても、爪によって四方から攻撃される。後ろに回り込んだところで、尻尾に叩きつけられて死ぬ未来しか見えない。


「無理だ……今のおれじゃ、勝てない……」


 ヨシカは脚を後ろに引いた。全身が、本能が逃げろと叫ぶ。

 だが、それは叶わなかった。逃げ出そうとする身体を青年たちが抑え込む。


「は…………?」

「勝てない、じゃないんだよ」


 ずるずると、身体を魔物の方へと押しやられる。どれだけ足を踏ん張ったところで、自身より遥かに体格のいい青年らが相手では太刀打ちできない。

 ヨシカは、表情を引き攣らせながら青年を見上げた。


「お前が勝つ必要はねぇの」


 どういうことだ。問い詰めたくとも、喉が張り付いて声が出ない。いやだ、いやだと首を横に振ったところで、彼らの足が止まることはない。

 あっという間にヨシカは先頭の青年を追い抜き、魔物の眼前へと突き飛ばされた。


「さっきの粉、なんだかわかるか?」


 ぼた、ぼた……と眼前に雫が落ちて、ヨシカはのろのろと顔を上げた。


「魔物寄せだよ」

「そん、な……話が、違うじゃないか……」

「話が違う? 嘘なんかついてないぜ。……お前が魔物寄せを被ってくれたおかげで、俺たちは魔物から認識されにくくなるんだからな!」


 リーダーの大声を皮切りに、青年たちは魔物へと走り出した。堂々と姿を現したにもかかわらず、三対の目はヨシカを捉えて離さない。

 その隙にも、青年たちは魔物の側面に回って好き好きに攻撃を繰り広げる。魔物は痛くも痒くもないのか無反応で、ただただヨシカに向かって大きな口を裂いた。

 ぬめりとした涎が鋭い牙から滴り、真っ青な舌がヨシカを迎えようと蠢く。


「あ…………」


 ここで、死ぬんだ。

 ヨシカは自身の終わりを悟った。否、悟るも何も、この絶望的な状況下では死ぬ以外の選択肢など用意されていないではないか。


 結局、アインハードの言う通りであったのだ。弱いヨシカでは、どうすることもできない。甘んじて死を受け入れることしか。


「……って、できるわけないだろ……!!」


 ここでヨシカが魔物に食べられれば、街が襲われるまでの時間を稼げるだろう。だが、ヨシカがなりたいのは、尊い犠牲ではない。意地汚くても、生への執着を捨てることはできない。


「路地裏出身、舐めるなよ……!」


 ヨシカは立ち上がり、剣を抜いた。


「グォォォオオオオ!!!」


 突然獲物が反抗したことに怒りを覚えたのか、魔物が咆哮する。その声が強烈な風を伴い、ヨシカたちの身に叩きつけられた。


「ァ゛……」


 側面から攻撃を与えていた青年たちが、泡を吹いて倒れた。ヨシカ自身も衝撃波によって身体ごと後ろに吹き飛ばされたが、何とか受け身を取ってやり過ごす。

 慌てて立ち上がると、すでに魔物はヨシカから他へと興味が移ったのか、気を失った青年たちに目を向けている。


(もしかして、さっきの風で粉が吹き飛んだのか?)


 青年らに意識を向けている今ならば、逃げられるかもしれない。


 逃げたい、逃げたい、逃げたい——……!


 生まれた頃から天涯孤独、路地裏育ち。誰にも望まれず、地を這って生きてきた今まで。

 この国は可笑しかった。弱き者に手を貸すはずの騎士は孤児には見向きもしないし、保護施設では不当に暴力を加えられる。だから、ヨシカが守らなければと思った。


(いや……違う。本当は、そうじゃない)


 本当は、誰かに助けられたかった。手を差し伸べてもらいたかった。必要だと、言われたかった。


(おれは、弱い……)

「でも……強くなりたい……ッ!」


 今、この場から逃げたら。


「おれは、一生弱いままだ!」


 もう、迷わない。ヨシカは、剣を握り直した。

 地面を踏み込み、膝を曲げる。肩に入った力を抜き、狙う先は一点。


「はぁぁぁ……ッ!」


 魔物が青年を食べようと口を開く。その瞬間、地を蹴り、裂けた口元に向かって剣を振り切った。

 口の端がぷつりと割れ、白い肉が顔を出す。口を開く動きに合わせてブチブチと音を立て、青い飛沫が噴き出した。


「グルゥァァァア……!!!」


 魔物が痛みに声を荒げ、のたうち回る。外皮に叩き込まれた傷は浅いが、粘膜に近い部分は皮膚が柔らかいようだ。

 尻尾が地面を叩き、その拍子に青年がぷちりと踏みつぶされる。果実が潰れたような跡に、ヨシカは顔を顰めた。


 一心不乱に振り回される爪を紙一重で躱す。避けた爪が地面を大きく抉り、倒れていた青年の姿が消える。

 ヨシカは走り回りながら、死んだ青年の剣を拾い、隙を狙っては魔物を刺した。


 幾本かは魔物の硬い肌に弾かれて折れたが、刃先が魔物の角膜に突き刺さる。魔物は驚きと痛みに両手で顔面を押さえ、首を振っている。


「もう、一矢……!」


 死角となった足元へと滑り込み、残りの一本を爪の間へと捻じ込んだ。爪を弾き飛ばすことこそできないが、魔物の踏み込みが甘くなる。

 そのおかげか、攻撃の狙いが定まり難くなり、苛立ちに大きく外れることが多くなってきた。


「は、……! はぁ……っぐ、……!」


 だが、ヨシカも満身創痍であった。

 攻撃は全て何とか避けてはいるが、直撃せずとも、鋭い衝撃波がヨシカの皮膚を裂く。尻尾が砕いた壁からは石が飛び、頭に当たって血が流れた。魔物も視界を奪われてはいるが、ヨシカも片目に血が入り、見えづらくなっている。

 脚も最早惰性で動かしているようなものだ。恐らく、何かに躓けばそのまま起き上がれなくなる。


「無様だな、おれ……。死んだら元も子もないのに……」


 鋭い爪がヨシカの行く手を阻もうと地面すれすれを薙ぐ。それを横に飛び退くことで避けると、正面から尻尾が迫って来ていた。


「まず……ッ!」


 避けなければと思っているのに、抉られた溝によって踵が引っ掛かった。咄嗟に動こうにも、脚が(もつ)れて動かない。

 ヨシカは半身を捩りながら、避けきれない分を剣で受け止めた。


「かは……ッ」


 重みのある衝撃が全身を打ち、血が口から溢れ出る。尻尾によって身体が打ち上げられ、壁に衝突したのだ。

 そのまま顔面から地面に落ちるが、受け身を取ることもままならない。もう、身体が一切動かない。

 視界の端に、アインハードから支給された剣が見えた。


「は、はは……こんな攻撃、受けても折れないのかよ……」


 ヨシカは無性に笑いが込み上げてきた。今更になって、アインハードとの思い出が蘇ってくる。


 絶対渋いのに、文句も言わずにヨシカの淹れた茶を飲み干してくれた。面倒だっただろうに、解体の方法を一から教えてくれた。

 ヨシカを信じつつも、理不尽な目に遭うことがないように守っていてくれた。


 思えば、アインハードが人生で唯一ヨシカに価値を与え、必要としてくれた人間かもしれない。全て、気付いたところで今更だが。


「……アイン、様……おれ、つよくなれた……かな」

「いえ。まだまだ勉学が足りないようですね、ヨシカ」


 死に際のせいか、幻聴まで聞こえてくる。アインハードらしい台詞だ。

 あんな酷い別れ方をしたというのに、我ながら精度の高いことである。


「勉学ったって……おれ、もう死ぬんだけど……」


 重たい瞼を抉じ開けると、滲む視界を魔物が占領しているのが見える。大人しくなった獲物に、愉悦している。大口を開け、今にヨシカを食べようと近付いてきた。

 鼻が曲がりそうな、強烈な腐臭に涙腺が刺激される。だが、それ以上に、情けなさに涙が頬を伝う。


 もっと生きたい。生きて、アインハードに会いたい。


 生暖かい雫が顔の近くに落ちたときであった。


「座りなさい」


 決して大声ではないのに、空気が震えるのを肌で感じる。唯一動かせる目だけで入り口の方を見つめると、黒いシルエットが見える。

 擦れて上手く見えないが、ヨシカにはそれが誰だか、はっきりとわかった。


「アイン、様……?」

「……私の子鼠に手を出すだなんて、度し難いな」


 魔物が新たに現れた獲物へと歯を剥き出す。対して、アインハードは武器の一つも持っていないようだ。

 丸腰にもかかわらず、彼は臆することなくヨシカの元へと駆け寄ってくる。そして、両腕でヨシカの身体を抱き上げた。


「だめ、です……逃げ、て……」


 ヨシカを心配し、連れ戻そうとここまで来たのかもしれない。だが、戦えないアインハードにできることは何もない。

 せめて、アインハードだけでも逃げるようにと言葉を紡ぐ。


「ヨシカ、何を言うのです。早く帰りますよ」

「おれ、だいじょうぶ……だから」


 それでも連れ帰ろうとするアインハードの胸を、血塗れの手で力なく押した。

 現実を受け止めきれないのか、アインハードがきょとんと目を丸くする。切れ長の目が、少し幼さを帯びた。


「アイン様……おれ、アイン様に会えて、よかったよ……」

「ヨシカ……」

「グゥオオオオオオォォォォ!!!!」


 アインハードが何か言葉を続けようとしたときだった。それまで放置されていた魔物が怒りを露わにした。

 足に刺さった剣のことも忘れ、そのままヨシカとアインハードに向かって突進してくる。鋭い角が、ヨシカを抱えて動けないアインハードに突き出された。


「囀るな……魔物ごときが」

「グォ……ゥゥ……ァ」


 しかし、角はいつまで経ってもアインハードの身に穴を開けることはなかった。何かに拮抗するように、動きを止めている。

 ヨシカが呆然と眺めていると、アインハードが魔物に向かって人差し指を下ろす。その指の動きに合わせ、魔物が膝を突いた。


「座りなさいと告げたはずですが……命令を聞けないとは、やはり知能の低い」


 言葉はわからずとも、バカにされていることはわかるのかもしれない。魔物が憤怒に顔を歪め、何とか立ち上がろうと藻掻いている。だが、徐々に、思うように動かない身体に困惑と焦りを滲ませていった。

 その様をアインハードは満足そうに眺める。口元は笑みを浮かべているが、目はどこまでも鋭く、冷たい光を放っている。


「おっと、早く終わらせないと子鼠が凍えてしまいますね」


 そう言うや否や、アインハードは下に向けていた指を首元に持って来た。その動きに合わせるかのように、魔物が震えながら、その鋭い爪を自身の首元に付けた。

 爪の先が震えつつ、首筋を傷付けて血を滲ませる。潰れていない瞳に、恐怖の色が滲んだ。


「散りなさい」


 アインハードの指がゆっくりと、首元を横切るようにして一線を引いた。瞬間、魔物の指が抵抗しつつも、首に青い筋を作っていく。

 鮮血が止めどなく溢れ、やがて魔物は大きな体を青い海に沈めた。


 ***


 あれから、ヨシカは相変わらずアインハードと狩りをしている。

 魔の大穴での討伐が国に貢献したと認められ、アインハードは再び貴族に返り咲くことができるはずであった。しかし、「自由って何物にも代えがたいですよね」と言って断ってしまったのだ。

 勿体ない気もするが、ヨシカ自身、今の生活に満足している。


「アイン様ってすごい力をお持ちだったんですね」


 何もしていないと思われていたアインハードであったが、その実、ヨシカが対処できる範囲の魔物しか襲い掛からないようにと周囲を牽制していた。


「別に、ただ威圧が誰よりも強いというだけなんですがねぇ……」


 おかげで周囲に人が集まらないのだと、アインハードが嘆いてみせる。


(それ絶対、威圧が強いからってだけの理由じゃない……)


 ヨシカの胡乱(うろん)な眼差しもどこ吹く風。アインハードは肩を竦めて髭を撫でつけた。


「……そういえば、アイン様がおれを選んだ理由って何だったんですか?」

「さあ……何だと思います?」

「物怖じしなかったから、とか……?」

「……強い子鼠には、威圧が効かないから……ですかね」


 心地よい風が吹き、アインハードの声が攫われる。ヨシカの灰色の髪が空の光を反射して青みを帯びる。

 爽やかな空気を肺いっぱいに吸い込むと、今日も少年は剣を握り締めた。



 了


 誰かに必要とされたい少年と、誰かが必要な紳士(見た目のみ)のお話でした。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 以下は本作の解説や裏話のようなものです。


 孤児であるヨシカは基本的に、世間から邪魔者及び厄介者という目で見られており、いつ死んでも誰からも気にされることのないような子です。

 唯一、心優しい店主が何かと気に掛けていましたが、見返りを求めようとしないが故に、それすらも施しであると本人は感じていました。

 一方で、アインハードは常に人と一線を引く性格で、故意であるにせよ感情に引っ張られるにせよ、人を失神させる程の威圧を出すことができます。それこそ、魔物を容易く屈服させるくらいに。

 この力のせいで、彼は幼少よりずっと心を許せる者もおらず、孤独を抱えていました。


 彼がフックス家を継ぐ前のこと。自身に怯える者に囲まれ、恐ろしいものを見るような目で接し続けられることに限界が来た彼は、家を飛び出します。

 とはいえ、頼れる者も働く先もない人を受け入れられる先など、斡旋所のみ。アイン自身もヨシカ同様、根無し草な生活を送っていました。


 何のしがらみもない世界で新たに生きることになったアイン。しかし、斡旋所ですら彼を受け入れられる者はおらず、独りでした。

 結局、自身の居場所はないのか。絶望の淵にいた彼に無謀にも話し掛けたのが、灰色の髪をした青年です。流れの旅人である彼は、アインに世界の広さを教えました。

 日々、アインを連れ回し、各地を巡り……いつしか店主や他の仲間も集まり、アインの世界に色が付き始めます。

 

 それも、束の間のことです。彼らのパーティは魔の大穴に巻き込まれ、アインと店主、そしてもう一人の仲間を残して全滅します。もう一人の仲間は灰色の髪の青年との子を宿しており、アインは青年から彼女と子どもを託されました。

 しかし、アインは威圧の力で魔物を討伐したものの、怒りに呑まれて制御ができない力の余波が彼女らにも及びます。幸いにもその場を後にすることはできますが、彼女は姿を消してしまいました。

 必死に探すも虚しく、彼女はアインへの恐怖心や青年を失ったことにより精神に異常を来し、衰弱の末、亡くなったことを知りました。


 こうしてアインは約束を守れなかった己を恨み、もう二度と人と関わってはならないと店主の前から姿を消し、フックス家を継ぎます。


 対して、店主は数年後、彼女が亡くなった街で灰色の髪の青年や彼女の生き写しのような少年に出会います。それがヨシカです。

 店主はヨシカを仲間の代わりに自分が育てるんだと決心しますが、独りで生きてきたヨシカにとってそれは施し以外の何者でもありません。与えられるということを嫌うヨシカに店主はさぞ苦労したでしょうね。


 以降は、この物語にある通りです。誰か自身を恐れずに接してくれる者にもう一度出会いたいと願ったアインは淡い期待を胸に従者を募集し、ヨシカが現れます。

 アインはかつての仲間の子が生きているなど知らないのですが、生き写しのようなヨシカを見て気付いたのか否か……それは皆さんの想像におまかせします。

 

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[良い点] 紳士と少年の組み合わせが良い……!と思っていたら後書きの設定の尊さに召されました……!無事昇天。ご馳走さまです!!
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