コペンハーゲンのコーラ
僕の最初の海外旅行は大学三年生だった一九八七年、夏の北欧だった。空港からリムジンバスでコペンハーゲン駅に到着すると喉の渇きを覚えたのでキオスクでコーラを買った。トラベラーズチェックから換金したばかりのお札を渡し、受け取ったお釣りを数えるとかなり少ない。拙い英語で値段を聞くと邦貨換算で四百円を超える答えが返ってきた。
近くにあるスーパーで同じコーラに百円程度の値札が貼られていることを確認すると、駅での驚きは深い後悔になった。日本でも高級ホテルや喫茶店で氷の入ったグラスに畏まって出てくるコーラが何百円もすることは知っていた。が、そんなものを注文する奴は余程の見栄っ張りか大馬鹿か、いずれにせよ自分には縁の無いことと決めていたというのに遠い異国の地とはいえ、自分がそれを実行するとは夢にも思わなかった。
一日の生活費の一割以上を何の変哲もないコーラ一本に費やした夜、ユースホステルで雑誌をパラパラとめくっているとある記事が目に飛び込んできた。それは生物にせよゲームにせよ全ての事象は進化する程バラツキの幅が無くなるというものだった。例としてチワワとゴールデンレトリバーの体高の差は三倍以上もあるが、人間の身長差は二割にも満たないことや、米国プロ野球において四割バッターが消滅したのはスライダーが発明されピッチャーのレベルが向上したためということが挙げられていた。
この記事を読んで僕は日本でキオスクにせよコンビニにせよコーラの値段にほとんど差がないのは日本という国の資本主義が高度に発達したからではという仮説を立てた。この後一ヶ月かけてスカンジナビア半島を一周したが、どこの都市でもキオスクや観光スポットのお店では三〜四倍の値段を付けている。僕は自分の考えに自信を深め、帰国すると大学の友人に対し鼻高々にこの仮説を披露した。が、その友人はあっさりと「そんな小難しいことでは無く、石を投げれば自販機にぶつかるようなこの国でそんなことをしたら商売にならないだけだろ」と切り捨てた。
口を開けたままの僕に、「土地の値段ひとつ考えてみろ。東京都の土地を売ったらアメリカ全土の土地が買えてしかもおつりが来るそうだ。こんな値段を付ける国が果たして高度な資本主義なのかね」と彼は言い、学食テラスから見下ろせる空き地を顎でしゃくった。
そこは老いた気の良い夫婦が営んでいた中華料理屋の跡地だった。ご飯が無料でお代わり可という貧乏学生にはとても有り難いお店だったが、地上げ屋に土地を売り故郷の台湾に帰ったという噂だった。一言の反論も出来ない僕の頭上に蝉の鳴き声が降り注いだ。
あれから三十年以上の時が流れ、バブルは崩壊し、いつの間にか日本は物価の安い国と言われるようになった。その友人とは行き来が絶え、訪れた国は五十を超えた。けれども海外のキオスクを覗きコーラの値札を見るたびに、あの夏の終わりの会話と蝉の鳴き声を僕は思い出す。