第九十三話 【黒瞳点の果実駅】
跳躍する。
今はすべてが分かる。ねじれの城においては時間軸が平等に並んでいる。過去も未来もタイルを敷き詰めるように均一な世界。
僕はねじれの城の外周にいる。尖塔や城壁が複雑に入り乱れる。
僕は城壁の一部をむさぼる。空腹などではない、特に何の意味もない行為だ。
「トウテツ」
声がした。足元に天窓があり、その奥に修羅がいる。僕を胡乱げに見上げている。
「陰と陽に分かれざる色、孵らざるままに永遠を生きる卵、虚無を渡る橋」
それは僕のことか。
僕はトウテツなのか。
呼ばれてみれば何も違和感はない。そうだ、僕は遥かな昔からトウテツだった。実体もなく魔力もない。世界に空いた虚ろな穴。
トウテツは、あなた
そうか、修羅はそう言いたかったのか。今さらそんなことが分かっても、がらんどうの僕の中には響きはしない。
思考はまとまらない。思考の持つ価値はゼロに近づいている。この体には生理的な欲求もなく、何かを成したい衝動もないのだ。
天窓の下を二人の男女が駆けている。
あれは僕と、黒架という吸血鬼。
その認識も、夜の影のように薄らいでいる。
おぼろげに認識する。トウテツとは世界に空いた穴。それに近づきすぎると、最終的にはその人物もトウテツになる。
トウテツが二匹になると言うより、本来いたトウテツに僕が合流するような感覚だろうか。
本来の僕、何だかそれも空っぽな言葉だ。そんなものがどこにいたと言うのだろう。僕はただ流されてただけなのに。
そうだ、僕は望んでこの姿になった。
僕が望んだからだ。
姫騎士さんを止められる力を。
姫騎士さんを消滅させうる虚無の牙を。
僕はまた跳躍する。
僕に並ぶのは鎖を巻いた少年、修羅。
対峙するのは灰色の布を巻いたハンターと、木刀を構えた姫騎士さん。
僕は何をするべきだろうか。姫騎士さんを噛みちぎるにはハンターが邪魔だ。
修羅と姫騎士さんとの間には力の往還がある。穴である僕には何も感じられないが、不可視の力が行き交っている。
そして姫騎士さんは姿を消す、どこかにいる友人に気づいて助けに行ったか。
「人間よ、我らと戦うか」
「そうなるな」
ハンターが歩み出る。
「相手をしよう……猛炎にして白日の名にかけて」
そいつは数分間は戦ってみせた。驚愕すべきだろう。ただの人間に過ぎない男なのに。人生の厚みが僕なんかとは桁違いなのだ。
ボロ布のようになったハンターを一瞥して、僕はまた跳躍する。
広い空間。上も下も際限なく深い蒼。その中に浮かぶ駅が一つきり。
「姫騎士、遂にこの場所に至りましたね」
赤いドレスの吸血鬼。それに対峙するのは姫騎士さん。
「……昼中さん、あの獣は何でしょうか」
彼女は脇を向いて言う。聞かれた男は僕と、他の三体の獣を見て言う。
「饕餮だ。中国の四凶の一つ、伝説の妖怪らしい。あっちは渾沌、窮奇、そして檮杌」
「トウテツ……そうですか」
姫騎士さんは僕に気づいている。
そして、一幅の絵を眺めるように全てを察した、それが僕には分かる。
ああ、甘美だ。
姫騎士さんは僕の牙を受け入れる。この牙で姫騎士さんを引き裂ける。それが姫騎士さんの望みであり、僕たちが至るべき終着点なのだ。
姫騎士さんは自らの左腕を斬り飛ばし、巨大な駅舎の空間が爆発的な速度で広がっていく。
僕も一瞬だけ姫騎士さんを見失う。でも大丈夫だ。すでに位置の目星はついている。あの赤いドレスの吸血鬼が僕を導く。
どれほど広くても一瞬でたどり着く。今は距離の壁すら意味を持たない。
「饕餮、来ましたか」
吸血鬼、お前などどうでもいいんだ、姫騎士さんだけが望みなんだ。
彼女は広間の中央にいる。左腕がなく、だらだらと血が流れて苦しそうだ、早く楽にしてあげなくては。
「昼中さん……やはりあなたが饕餮になったのですね」
やはり姫騎士さんには分かっている。その昼中という名前も、ずいぶん遠いものに感じられるが。
彼女の持っていた木刀ががらんと落ち、その場に座り込む。僕は身を低くしながら彼女のもとへ。
「黒架カルミナさん、これがあなたの考えた策なのですか。昼中さんに私を」
「あなたは天の御座に登ることを厭うていたのでしょう?」
鼻先を姫騎士さんに寄せる。彼女は複雑な表情で僕の牙に触れた。
「私はどちらを選べとも言わない。ただ、滅びを選ぶなら今しかありませんよ」
吸血鬼カルミナ、その名前がわずかに意識をかすめる。
巧みなことだ、彼女自身は何もしていない。
ミネギシを殺したわけでもなく、四凶による結界を用意したわけでもない。どの部分にカルミナが関与したのか全く分からない。
だがそんなことも、もうどうでもいい。
牙に姫騎士さんが触れる。角笛のような立派な牙。先端は聖人を貫くように鋭く、姫騎士さんの肌は霞のようにもろく思える。きっと、たやすく食い込むだろう。
「昼中さん……私のところに来てどうするのです。あなたは黒架ジュノさんを守らないと」
黒架。
守りたかった。でも姫騎士さんを選んだんだ。
どちらかしか選べないのが当たり前なんだ。どちらも等しく捨てがたいものなんだ。
だから僕は、姫騎士さんをこの牙で。
「無駄なことです」
僕はカルミナの方など見ていないが、肩をすくめるような気配がある。
「もう人間らしい感情など残っていない。饕餮とは一切が無為である獣」
「昼中さん。分かっているのですか。あなたが私を食べるなら、私は消えて、黒架ジュノさんも殺される。昼中さんも二度と心を得ることはない。悪獣となって永遠を生きるのですよ」
それでも、いいんだ。
それは、僕がそういう存在だから。
そうだ、すべてのものは滅びへと堕ちていく。
誰も彼も死んで、意味を失って、無為となる。それが饕餮。
すべてを失うよりも恐ろしいこと。誰かがそう言っていた。
それはつまり、すべてを失い続けること、か。
でも姫騎士さん。それでもいいじゃないか。
少なくとも、姫騎士さんが代替わりをすることはない。
姫騎士さんが何かに成ることもない。
そうだ、喪失こそが救い。
失うことは恐ろしい、だが変化ではないんだ。
「姫騎士さん」
呼びかける。人間の声が出せたとは思えない。でも姫騎士さんになら通じると思えた。
「ここで終わろう」
姫騎士さんは悲しい目をする。目にいっぱいの涙を溜めている。彼女のそんな姿も美しいと思えた。
「……分かりました」
姫騎士さんが僕を抱きしめる。片腕で、血まみれの体で。
ああ、満足だ。
彼女に受け入れてもらえたことで、魂の隅々まで満たされる気がする。これから彼女を失うとしても、その一瞬の価値は変わらない。
「黒架カルミナさん」
姫騎士さんが言う。
「私は消えます。私はたくさんの力を得たけれど、誰かに選ばれることはなかった。今はただ、昼中さんに選ばれたことに満足して消えます」
「止めはしない。私は何にも関わっていません」
「でも」
声が固くなる。傷が痛むのか、喉の奥を震わせるように話す。
「選択とは何でしょう。右の道を選んだ、左の人を選んだ、そのために未来は変わっていく。それは本当に正しいのでしょうか」
「何が言いたいのです?」
「私たちは、本当に何かを選択できているのでしょうか。あるいは結末はずっと前から決まっているのかも知れませんよ。黒架カルミナさん。あなたと娘さんの結末も。もっとずっと前から、すでに」
黒架カルミナの返答はない。答える必要がないと感じた、そんな気配だ。
「昼中さん、目を閉じて」
目を閉じる。姫騎士さんの体温だけを感じる。
「体を重ねて、私の心臓の鼓動を感じてください」
姫騎士さんが体を寄せる。差し迫ったように早い鼓動。大きな傷を負っているからだ。
「心臓のリズムは互いに近づいていきます。私はプラスの鼓動、昼中さんはマイナスの鼓動。互いに打ち消しあってゼロに近づく」
「――何をしている」
カルミナの声など耳に入らない。
分かる。姫騎士さんの鼓動に近づこうとして、僕の鼓動も早くなる。
姫騎士さんは熱い息を吐く。痛みに懸命に耐えている。呼吸を整え、鼓動を抑えようとしている。僕のリズムは逆に早くなり、姫騎士さんの速度に近づく。
そしてある一瞬、ぴたりと同じリズムに。
「鼓動の音は消えて」
静寂、停滞、沈黙、静止、絶無――。
「そして、すべて消える」
無、が。
とてつもない距離を飛んだ感覚。無限の時間を経たような錯覚。
ここは無だ。
何もない、ということだけを感じる。
姫騎士さんは。
彼女はそこにいる。両腕を取り戻した姿で。ごく凡庸なセーラー服。
僕も四足獣ではない。学生服の姿になっている。直感的に分かったのはどちらも本当の姿じゃない。互いにこの姿で認識し合っているだけだ。
周囲には何もない。真っ白だとか真っ暗だとか、そういうこともない。この場所を視覚的に表現することは不可能だ。
「ここは……」
「黒瞳点の果実駅」
姫騎士さんは悲哀に満ちた顔をして、それでも僕の手を握って言う。
「ここは私が観測できるもっとも遠い場所です。どこにも繋がっていない。何とも関連しない、完全に自己完結した無の世界です」
姫騎士さんの声が、言葉の数以上の概念を僕に伝える。
そうか、ここは姫騎士さんにとっても世界の最果て。
立ち入ったならば二度と帰ることはできず、何も起こることなく、ただ在り続けるだけの世界か。
姫騎士さんは魔獣となった僕に引き裂かれるより、この無の世界に来ることを選んだのか。
「昼中さん、私を選んでくれてありがとうございます」
姫騎士さんが手を握る。僕はうなづく。
「ああ、ずっと、こうなりたかった」
これでいい。
他に何もない、でも姫騎士さんだけはいる。
この世界には時間もなく、広がりもなく、名前もなく、変化もなく、執着もなく、獲得もなく、喪失もなく、摂理もなく、道理もなく、強弱もなく、勝敗もなく、到達もなく、無為すらもない。
「これでいいんだ」
そう、何もなければ、姫騎士さんが特別であることもない。
何もない世界で、やっと姫騎士さんは安寧を得たのか。
ここで二人で過ごそう。時間の流れのないここでは、永遠とも刹那とも言えるけれど。
――ない。
「ああ、間違いない。君を選んだ」
僕も永遠の停滞に入ろう。
大丈夫、姫騎士さんとともにいる、な、ら。
――許さない。
……?
誰だ。
この完成された虚無に割って入ろうとするのは。
――絶対に許さない。
やめろ、声を投げないでくれ。
空間がきしむ。世界に色がつく。世界の広さが、温度が、時の流れが定まってしまう。
緋色の線。
緋色、赤だって。この世界にそんなものが。
世界を両断される。その隙間から莫大な意味が流れ込んでくる。虚無が虚無でなくなる。
それは星を切り裂くような衝撃。力と意思の本流。魔術の激流。ほとばしる生命の輝き。
とてつもない力が、思念が、情念がなだれ込んでくる。天変地異となって完成された世界を引き裂く。
僕の首に手がかかる。僕はトウテツではない、人間であった頃の僕の姿になっている。虚無であった僕は、どこに。
「姫騎士さんを選ぶなんて許さないっす!」
黒、架。
「やめてください!」
背中から僕を羽交い締めにするのは姫騎士さん。黒架は鬼気迫る目で僕の首を絞めている。握りつぶすほどではないが十分に苦しい。
「昼中さんは私を選んでくれたんです!」
「昼中くんに選ぶ権利があると思ってるっすか!! 私が先に告白したのに! デートだって重ねたのに!」
く、黒架、どうやってこの世界に。
いや、それに何だか、少し大人びたような……。
「く……黒架、どうやってここに、それにカルミナのことは……」
「それ! 守ってくれるって言ったのに! 一緒に吸血鬼のいない土地で暮らそうって言ってくれたのに! 裏切ったっすね!」
ここは。
ここは何処だ。
最果ての世界ではない、どこかに、引っ張り出され、て。
「黒架ジュノさん! 恋愛は自由です! それに私には昼中さんが必要なんです! 黒架ジュノさんは結局全部一人で解決できたじゃないですか!」
「姫騎士さんこそ何言ってるっすか! 昼中っちより遥かに格上の男どもが列をなしてるっすよ! 私から昼中っちを奪うなんてひどいと思わないっすか!」
「あ、あの、ごめんなさい、一言だけ、し、しぬ」
「黙ってて!!」
どことも知れない場所で、いつとも知れない時間で。
二人の声が、見事にハモった。




