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姫騎士さんは眠りたい  作者: MUMU
第十章 最果ての駅の姫騎士さん 
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第九十三話 【黒瞳点の果実駅】


跳躍する。


今はすべてが分かる。ねじれの城においては時間軸が平等に並んでいる。過去も未来もタイルを敷き詰めるように均一な世界。


僕はねじれの城の外周にいる。尖塔や城壁が複雑に入り乱れる。

僕は城壁の一部をむさぼる。空腹などではない、特に何の意味もない行為だ。


「トウテツ」


声がした。足元に天窓があり、その奥に修羅がいる。僕を胡乱げに見上げている。


「陰と陽に分かれざる色、かえらざるままに永遠を生きる卵、虚無を渡る橋」


それは僕のことか。

僕はトウテツなのか。


呼ばれてみれば何も違和感はない。そうだ、僕は遥かな昔からトウテツだった。実体もなく魔力もない。世界に空いた虚ろな穴。



トウテツは、あなた



そうか、修羅はそう言いたかったのか。今さらそんなことが分かっても、がらんどうの僕の中には響きはしない。


思考はまとまらない。思考の持つ価値はゼロに近づいている。この体には生理的な欲求もなく、何かを成したい衝動もないのだ。


天窓の下を二人の男女が駆けている。


あれは僕と、黒架という吸血鬼。


その認識も、夜の影のように薄らいでいる。


おぼろげに認識する。トウテツとは世界に空いた穴。それに近づきすぎると、最終的にはその人物もトウテツになる。

トウテツが二匹になると言うより、本来いたトウテツに僕が合流するような感覚だろうか。


本来の僕、何だかそれも空っぽな言葉だ。そんなものがどこにいたと言うのだろう。僕はただ流されてただけなのに。


そうだ、僕は望んでこの姿になった。

僕が望んだからだ。


姫騎士さんを止められる力を。


姫騎士さんを消滅させうる虚無の牙を。


僕はまた跳躍する。


僕に並ぶのは鎖を巻いた少年、修羅。


対峙するのは灰色の布を巻いたハンターと、木刀を構えた姫騎士さん。


僕は何をするべきだろうか。姫騎士さんを噛みちぎるにはハンターが邪魔だ。


修羅と姫騎士さんとの間には力の往還がある。穴である僕には何も感じられないが、不可視の力が行き交っている。


そして姫騎士さんは姿を消す、どこかにいる友人に気づいて助けに行ったか。


「人間よ、我らと戦うか」

「そうなるな」


ハンターが歩み出る。


「相手をしよう……猛炎にして白日の名にかけて」


そいつは数分間は戦ってみせた。驚愕すべきだろう。ただの人間に過ぎない男なのに。人生の厚みが僕なんかとは桁違いなのだ。


ボロ布のようになったハンターを一瞥して、僕はまた跳躍する。


広い空間。上も下も際限なく深い蒼。その中に浮かぶ駅が一つきり。


「姫騎士、遂にこの場所に至りましたね」


赤いドレスの吸血鬼。それに対峙するのは姫騎士さん。


「……昼中さん、あの獣は何でしょうか」


彼女は脇を向いて言う。聞かれた男は僕と、他の三体の獣を見て言う。


饕餮とうてつだ。中国の四凶の一つ、伝説の妖怪らしい。あっちは渾沌こんとん窮奇きゅうき、そして檮杌とうこつ

「トウテツ……そうですか」


姫騎士さんは僕に気づいている。


そして、一幅の絵を眺めるように全てを察した、それが僕には分かる。


ああ、甘美だ。


姫騎士さんは僕の牙を受け入れる。この牙で姫騎士さんを引き裂ける。それが姫騎士さんの望みであり、僕たちが至るべき終着点なのだ。


姫騎士さんは自らの左腕を斬り飛ばし、巨大な駅舎の空間が爆発的な速度で広がっていく。


僕も一瞬だけ姫騎士さんを見失う。でも大丈夫だ。すでに位置の目星はついている。あの赤いドレスの吸血鬼が僕を導く。

どれほど広くても一瞬でたどり着く。今は距離の壁すら意味を持たない。


「饕餮、来ましたか」


吸血鬼、お前などどうでもいいんだ、姫騎士さんだけが望みなんだ。


彼女は広間の中央にいる。左腕がなく、だらだらと血が流れて苦しそうだ、早く楽にしてあげなくては。


「昼中さん……やはりあなたが饕餮になったのですね」


やはり姫騎士さんには分かっている。その昼中という名前も、ずいぶん遠いものに感じられるが。

彼女の持っていた木刀ががらんと落ち、その場に座り込む。僕は身を低くしながら彼女のもとへ。


「黒架カルミナさん、これがあなたの考えた策なのですか。昼中さんに私を」

「あなたは天の御座に登ることをいとうていたのでしょう?」


鼻先を姫騎士さんに寄せる。彼女は複雑な表情で僕の牙に触れた。


「私はどちらを選べとも言わない。ただ、滅びを選ぶなら今しかありませんよ」


吸血鬼カルミナ、その名前がわずかに意識をかすめる。


巧みなことだ、彼女自身は何もしていない。

ミネギシを殺したわけでもなく、四凶による結界を用意したわけでもない。どの部分にカルミナが関与したのか全く分からない。


だがそんなことも、もうどうでもいい。

牙に姫騎士さんが触れる。角笛のような立派な牙。先端は聖人を貫くように鋭く、姫騎士さんの肌は霞のようにもろく思える。きっと、たやすく食い込むだろう。


「昼中さん……私のところに来てどうするのです。あなたは黒架ジュノさんを守らないと」


黒架。

守りたかった。でも姫騎士さんを選んだんだ。


どちらかしか選べないのが当たり前なんだ。どちらも等しく捨てがたいものなんだ。


だから僕は、姫騎士さんをこの牙で。


「無駄なことです」


僕はカルミナの方など見ていないが、肩をすくめるような気配がある。


「もう人間らしい感情など残っていない。饕餮とは一切が無為である獣」

「昼中さん。分かっているのですか。あなたが私を食べるなら、私は消えて、黒架ジュノさんも殺される。昼中さんも二度と心を得ることはない。悪獣となって永遠を生きるのですよ」


それでも、いいんだ。


それは、僕がそういう存在だから。


そうだ、すべてのものは滅びへと堕ちていく。


誰も彼も死んで、意味を失って、無為となる。それが饕餮。


すべてを失うよりも恐ろしいこと。誰かがそう言っていた。


それはつまり、すべてを失い続ける・・・・・こと、か。


でも姫騎士さん。それでもいいじゃないか。

少なくとも、姫騎士さんが代替わりをすることはない。


姫騎士さんが何かに成ることもない。


そうだ、喪失こそが救い。


失うことは恐ろしい、だが変化ではないんだ。


「姫騎士さん」


呼びかける。人間の声が出せたとは思えない。でも姫騎士さんになら通じると思えた。


「ここで終わろう」


姫騎士さんは悲しい目をする。目にいっぱいの涙を溜めている。彼女のそんな姿も美しいと思えた。


「……分かりました」


姫騎士さんが僕を抱きしめる。片腕で、血まみれの体で。


ああ、満足だ。


彼女に受け入れてもらえたことで、魂の隅々まで満たされる気がする。これから彼女を失うとしても、その一瞬の価値は変わらない。


「黒架カルミナさん」


姫騎士さんが言う。


「私は消えます。私はたくさんの力を得たけれど、誰かに選ばれることはなかった。今はただ、昼中さんに選ばれたことに満足して消えます」

「止めはしない。私は何にも関わっていません」

「でも」


声が固くなる。傷が痛むのか、喉の奥を震わせるように話す。


「選択とは何でしょう。右の道を選んだ、左の人を選んだ、そのために未来は変わっていく。それは本当に正しいのでしょうか」

「何が言いたいのです?」

「私たちは、本当に何かを選択できているのでしょうか。あるいは結末はずっと前から決まっているのかも知れませんよ。黒架カルミナさん。あなたと娘さんの結末も。もっとずっと前から、すでに」


黒架カルミナの返答はない。答える必要がないと感じた、そんな気配だ。


「昼中さん、目を閉じて」


目を閉じる。姫騎士さんの体温だけを感じる。


「体を重ねて、私の心臓の鼓動を感じてください」


姫騎士さんが体を寄せる。差し迫ったように早い鼓動。大きな傷を負っているからだ。


「心臓のリズムは互いに近づいていきます。私はプラスの鼓動、昼中さんはマイナスの鼓動。互いに打ち消しあってゼロに近づく」


「――何をしている」


カルミナの声など耳に入らない。


分かる。姫騎士さんの鼓動に近づこうとして、僕の鼓動も早くなる。


姫騎士さんは熱い息を吐く。痛みに懸命に耐えている。呼吸を整え、鼓動を抑えようとしている。僕のリズムは逆に早くなり、姫騎士さんの速度に近づく。


そしてある一瞬、ぴたりと同じリズムに。


「鼓動の音は消えて」


静寂、停滞、沈黙、静止、絶無――。


「そして、すべて消える」


無、が。


とてつもない距離を飛んだ感覚。無限の時間を経たような錯覚。


ここは無だ。


何もない、ということだけを感じる。


姫騎士さんは。


彼女はそこにいる。両腕を取り戻した姿で。ごく凡庸なセーラー服。


僕も四足獣ではない。学生服の姿になっている。直感的に分かったのはどちらも本当の姿じゃない。互いにこの姿で認識し合っているだけだ。


周囲には何もない。真っ白だとか真っ暗だとか、そういうこともない。この場所を視覚的に表現することは不可能だ。


「ここは……」

黒瞳点くろみてはて実駅みのりのえき


姫騎士さんは悲哀に満ちた顔をして、それでも僕の手を握って言う。


「ここは私が観測できるもっとも遠い場所です。どこにも繋がっていない。何とも関連しない、完全に自己完結した無の世界です」


姫騎士さんの声が、言葉の数以上の概念を僕に伝える。


そうか、ここは姫騎士さんにとっても世界の最果て。


立ち入ったならば二度と帰ることはできず、何も起こることなく、ただり続けるだけの世界か。

姫騎士さんは魔獣となった僕に引き裂かれるより、この無の世界に来ることを選んだのか。


「昼中さん、私を選んでくれてありがとうございます」


姫騎士さんが手を握る。僕はうなづく。


「ああ、ずっと、こうなりたかった」


これでいい。


他に何もない、でも姫騎士さんだけはいる。


この世界には時間もなく、広がりもなく、名前もなく、変化もなく、執着もなく、獲得もなく、喪失もなく、摂理もなく、道理もなく、強弱もなく、勝敗もなく、到達もなく、無為すらもない。


「これでいいんだ」


そう、何もなければ、姫騎士さんが特別であることもない。


何もない世界で、やっと姫騎士さんは安寧を得たのか。


ここで二人で過ごそう。時間の流れのないここでは、永遠とも刹那とも言えるけれど。



――ない。



「ああ、間違いない。君を選んだ」


僕も永遠の停滞に入ろう。

大丈夫、姫騎士さんとともにいる、な、ら。



――許さない。



……?


誰だ。

この完成された虚無に割って入ろうとするのは。



――絶対に許さない。



やめろ、声を投げないでくれ。


空間がきしむ。世界に色がつく。世界の広さが、温度が、時の流れが定まってしまう。


緋色の線。

緋色、赤だって。この世界にそんなものが。


世界を両断される。その隙間から莫大な意味が流れ込んでくる。虚無が虚無でなくなる。


それは星を切り裂くような衝撃。力と意思の本流。魔術の激流。ほとばしる生命の輝き。


とてつもない力が、思念が、情念がなだれ込んでくる。天変地異となって完成された世界を引き裂く。


僕の首に手がかかる。僕はトウテツではない、人間であった頃の僕の姿になっている。虚無であった僕は、どこに。


「姫騎士さんを選ぶなんて許さないっす!」


黒、架。


「やめてください!」


背中から僕を羽交い締めにするのは姫騎士さん。黒架は鬼気迫る目で僕の首を絞めている。握りつぶすほどではないが十分に苦しい。


「昼中さんは私を選んでくれたんです!」

「昼中くんに選ぶ権利があると思ってるっすか!! 私が先に告白したのに! デートだって重ねたのに!」


く、黒架、どうやってこの世界に。


いや、それに何だか、少し大人びたような……。


「く……黒架、どうやってここに、それにカルミナのことは……」

「それ! 守ってくれるって言ったのに! 一緒に吸血鬼のいない土地で暮らそうって言ってくれたのに! 裏切ったっすね!」


ここは。


ここは何処だ。


最果ての世界ではない、どこかに、引っ張り出され、て。


「黒架ジュノさん! 恋愛は自由です! それに私には昼中さんが必要なんです! 黒架ジュノさんは結局全部一人で解決できたじゃないですか!」

「姫騎士さんこそ何言ってるっすか! 昼中っちより遥かに格上の男どもが列をなしてるっすよ! 私から昼中っちを奪うなんてひどいと思わないっすか!」

「あ、あの、ごめんなさい、一言だけ、し、しぬ」


「黙ってて!!」


どことも知れない場所で、いつとも知れない時間で。


二人の声が、見事にハモった。


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