第九十二話 【極大深度無天十王駅】4
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跳躍と疾走、時に破壊。
駅舎が折り重なった世界を駆ける。あらゆるバリエーションの駅と、駅舎と、商業施設と、車庫と、そして線路を踏み越えていく。
自分の体が加速していくのが分かる。どんな物理的障害も物ともしない。どんな地形も乗り越える。
そして見えた。空に浮かぶ城。
かのノイシュバンシュタイン城のような西洋風の城。左右天地全方位に尖塔が伸び、それに城壁が巻き付くように伸びる城。ラインゼンケルンの城に似ているが、少し古びている。そのことに意味があるのかどうか、僕が考えるべきことではない。
今走っている大きめのプラットホーム、ここを超えれば。
眼の前に降り立つ影。
鎖の鳴る音。白銀の鎖を全身に巻いた少年、修羅。
「どくんだ、修羅」
「私の意思は私のものではない」
陶片を転がすような少年の声。やはり操られているのか、かつてはミネギシに、今は黒架カルミナに。
「あんたは分身なんだろう? 悪く思うな、実力で排除させてもらう」
「饕餮は」
ぎゅり、と修羅の口元に鎖が上がってきて、ぎりぎりと首を締め上げる。
修羅はやはり目の表情を変えないが、言葉は中断せざるをえないようだ。
「もう喋るな。どうしたって戦わなければならないし、僕に助言でもくれるつもりなら、申し訳ないが迂闊に信じるわけにはいかない、だから言葉なんか意味がない」
「……」
修羅は感情を示さない。おそらく精神性が人間とは大きく異なるのか。ほとんど表情も変えず汗をかくこともない。
だが、今の一瞬。
僕を見る目に感情の色がにじんだ気がする。
それは何だろう。助けを求めているのか。僕にこれ以上進むなと警告しているのか。それとも戦闘のために気持ちを昂らせているのか。
……いや、どれとも違う。今の眼差し、慈悲あふれるように見えて物寂しい色を宿した目は。
憐れみ、か。
「こいよ、神さま」
もはや問答無用だ。僕はただ押し通るだけ。
修羅が駆ける。そう知覚した瞬間には右拳が迫っている。防御の腕と激突してすさまじい衝撃が、空間を歪める波動がプラットホームを破壊する。
一歩後退するところへ下段の回し蹴り、空中に跳ぶ瞬間には一回転からの上段蹴りに派生して顔面を狙ってくる。天井についた僕の腕を支点に右へ飛ぶ。高層ビルのガラスに背中をつけた瞬間に真上に駆け上がる。ガラスを連続的に砕きながら修羅が追いすがる。僕は一瞬先に屋上へ。
やつが屋上に飛び出た瞬間に横っ腹に直蹴り。
だが飛ばない、足を持たれている。ぞっとする刹那に折りにかかる修羅。僕は持たれた脚を軸に回転、もう片方の足で顔面を蹴り飛ばす。
修羅は吹き飛びかけるが、屋上のへりを掴んで中央の方向に跳ぶ。天板に突きを一撃、易々と砕いてビルの中へ。
「逃がさない!」
僕も追う。中はオフィスビルのような眺め。降り立った瞬間に迫る超高速の机。力の流れは見えている。天板の中央に指を当てて回転させながら後方にいなす。
後方に気配。
気づいた瞬間に背中に膝が。
「がっ……」
体を突き抜ける死の衝撃。書類の束が巻き上がる。紙吹雪の起こる一瞬で砕けた脊髄を意識し、治して前に転がる。
5分の一秒と間を置かず立ち上がって修羅と対峙、高速の打ち合いが始まる。
一撃ごとに周囲のものが砕け、蹴りの一閃は数メートル離れた壁を割る。
(もっと速く)
修羅に立ち会いの優位を握られている。鎖があるとはいえ修羅の方が身軽だ。僕は直線的にしか動けないが、修羅はいくつものフェイントを入れてくる。
僕が放つ致命的な一撃を鎖でいなし、数発のカウンターが僕の手足を削る。
床を砕きながらビルの中層あたりまで降りる。飛び回りながらバズーカを打ち合うような攻防。
修羅が20手ほど打ってくるのを防御を固めて耐え、力をためた一撃をやつの胴体に打ち込んでいく。
修羅は手数が多いだけじゃない、一つ一つがおそろしく重い。僕の肉を裂いて骨を砕いてなお打ち付ける杭打ち機の雨。
僕は全身に力を循環させる。身体の恒常性を極限まで高める。ちぎれた筋繊維をすかさず結び直し、砕けた骨は肉で抑えつつ再接続。肉は固く、骨は太く頑健に作り変えていく。
(もっと速く!)
目では追えている。だが体がついていかない。
すでに靴はちぎれ飛んでいるが、足裏のグリップが効かないのだ。
姿勢を低く。重心を落として体幹のぶれを抑える。修羅の踏み込みをぎりぎりで回避。
点ではなく面で床を捉えろ、体をぶん回せ。修羅を超える速度で動け。
脳が沸騰する感覚。高速の世界に脳が順応しようとしている。視界では全てのものがめまぐるしく動く。修羅の影を追う。やつの背後を取ろうと動く。床に火花が散る。体が触れた石柱が豆腐のようにえぐれる。
追えている。
追いついている。
修羅は僕の一撃から逃れようと速度を上げる。
逃さない、確実に仕留める。
折り重なる音、巻き上がる紙吹雪。星座の軌跡を描くように飛び回る修羅、僕はそれにぴたりと並走。
両手両足、すべてを動員しろ。
砕けた肉体を組み直せ。
やつに肉薄しろ。
見えた、修羅の背中。
移動に両手両足を使っている。どんな一撃を繰り出せば。
決まっている。この速度を維持しつつやつを仕留めるには。
がぱ、と口腔を開く。僕の歯が修羅の首元に吸い付く。一瞬。
世界が両断されるような衝撃。修羅の首が飛ぶ。鮮血が散る。
ぎいい、とブレーキをきかせて止まる。四足歩行での最高速度は完全に修羅を凌駕できていた。首を失った修羅は再生することもなく、その場に倒れる。
そしてその体は一瞬で真っ白になり、灰のようなものに変わっていく。
「……さようなら、修羅」
やつを縛っていた鎖もすべてサビの塊に変じている。僕はもうそれらに目もくれなかった。やつの首を噛みちぎった時、やつがこの世界から退場したことが理解できたから。
「あとは……」
発声が人間のそれではなくなっている。関節の形も筋肉のつき方も変わっていて、今は四足で歩くほうが楽だ。
だがそんなことはどうでもいい。まだ体が動き、戦えることだけが重要だ。
「……と、いけない、白木の杭」
さっき作ったばかりなのに忘れては意味がない。
それはフロアの真ん中あたりに落ちていた。四足歩行を崩したくないので口でくわえようか。
……いや、もう僕には肉体の損傷など大した意味がない、体に刺して運ぶか。
くわえた白木の杭を鎖骨のあたりからずぶずぶと突き刺す。肋骨の隙間を縫ってうまい具合に収まった。
ビルを飛び出し、空中を走る線路を使って、空の城へ。
強い魔力を感じる。
四足にて大きく跳躍。城壁に触れると城壁の側が「下」になる。下階に落ちるように動けば城の中心に近づける。
窓を破って入り、回廊を抜け、大広間へと。
姫騎士さんの気配がない。鼻をひくつかせるが、匂いも感じない。
「来ましたか」
大広間の中央、黒架カルミナがいる。体に吸い付くような赤のロングドレス。病的なまでに白い肌。爪は短剣のように長い。
「姫騎士さんはどこだ」
「すでに消えました」
咆哮。胴体で増幅させた声を大砲のように打ち出す。
「そんなはずはない!」
「偽りではない。姫騎士は饕餮に引き裂かれて消えました」
饕餮、あの狛犬のような四足獣か。
「ありえない。僕ですら四凶に勝てた。饕餮が魔力も肉体もない穴のようなものだとしても、姫騎士さんを脅かす存在とは思えない」
「姫騎士は消滅を望んでいた。饕餮ならば己を滅しうると考えていたのですよ。だからその牙に己を委ねた」
「ふざけるな!」
再度の咆哮、今度のには濃厚な魔力が混ざっている。並の吸血鬼なら浴びただけで砕ける威力。
黒架カルミナは動じない。魔力はやつの体を滑るかのように後方に流れていく。
「私はずっと考えていたのです」
その青白い唇が動く。
「何の話だ」
「かの姫騎士を利用するのはいいとして、最後には滅せねばならない。その方法を考えていたのです。悪に堕ちたバクでは到底足りない。姫騎士の力によって深みに引きずられた存在、蒼き機械の戦士では理屈として姫騎士より深みには行けない。極めて巨大な概念の産物、サンタクロースはそもそも敵に回らない。プリミティブな攻撃性を持つ、菌類などは」
「ハッタリだ」
僕は鋭く言う。
「西都に起きたことを裏から操っていたとでも言いたいのか。そんなことを証明する手段なんか何もない。あんたはただ観測してただけだ」
「真偽は問題ではない」
黒架カルミナは冷淡な目をしている。義務的に説明しているだけだと言いたげに。
「修羅ならば滅せられる可能性はあった。ミネギシは危険因子でしたが、修羅を捕らえたその手腕に期待をかけて放置した。姫騎士は修羅すらも凌駕しましたが、事ここにおいて、姫騎士を滅しうる因子を見つけたのです」
「勿体つけるじゃないか、いったい何だと言うんだ」
「それは、姫騎士自らの意思」
はっ、と僕は濁った声で嗤う。
「何となく成立したように見えるだけの言葉だ。姫騎士さんはすべての世界にたった一人、重奏で見つけられるのは似ても似つかない遠い個体ばかりだ」
「姫騎士は自らを止める方法を模索していた。それを自分ではない第三者に仮託した」
……? こいつは何を言っているんだ。
そもそも、こいつの話に付き合うべきか疑問に思えてきた。鎖骨からずぶりと白木の杭を引き抜く。
こいつでカルミナの心臓を貫けば、それで終わる話じゃないのか。
「自己を制動しうる個人が外部にいると定義し、友人の一人にそれを委ねた。完全なる個である姫騎士の唯一の瑕疵。本来は端役にも値しない愚鈍なる個が」
何を言っているか分からない、説明する気などハナから無いのだろう。
「私はそこに急所があると見た。因果の果てより流れ着きたるねじれの城。時の流れを淀ませる錬金術の秘奥に封じようと」
何を、言っ……。
何だ、急にめまいが。
四つ足で立ってるのに体が揺らぐ、四肢から力が抜ける、何も考えられなくなる。
――饕餮は世界に空いた穴。
――それは魂と肉体の状態であり魔術の最奥。
――恒星の周りを巡る惑星のように、捉えられれば二度とは離れられない蟻地獄。
頭に声が響く。何を言ってるのだろう。やつの言葉は難しくてよく分からない。
――しかるに愚者よ、あなたはすべてを貪欲に喰らってきた。形あるものを砕き、あなたを慕うものを振り切ってきた。
――饕餮という重力に引かれ続けた者は、最後には何になるのか。
分からない。もう思考ができない。
今はただ餓えている。
何かを破壊しなければ、台無しにしなければ。
何かを見つければ、たちどころに壊し方が分かるという確信。
息をするようにすべてを蹂躙できる全能感。
気配を追う。強い魔力。気づいたときにはその場所に到達している。
その女は、僕を見て困惑する。
「お前は……なんだ、魔力を感じない、お前のような魔獣を喚んだ覚えは」
召喚術士、魔獣使い。だが分かる。やつ自身も霊獣。この世のあらゆる罵言と魔術に精通した人面の獣。
壊さなければ。
僕は鎖骨から白木の杭を引き抜く。その女は後じさる。だが抵抗など無駄だ。逃がしはしない。
「やめろ……何なのだお前は、野生の獣ですら些少の魔力はある、完全にゼロなどありえるわけが」
やつは何かを言っているが、構いはしない。僕は一気にふところに飛び込み、白木の杭で胸を打つ。
絶叫。
聞くに耐えない断末魔の叫び。この世の怨嗟をすべて練り込んだような声。
この女は見覚えがあるが、いったい何者だったろうか。
どうでもいい。
僕はただ壊すだけ。
姫騎士さんに害なすものを、姫騎士さんにあらざるすべてを砕くだけ。
――大いなる無為、果てしなく純粋で高貴なる喪失。
――それが饕餮。放蕩者の晩餐。
声が響く。意味は分からない。
だが、行くべきところは分かっている。
壊さなければ、姫騎士さんに連なるすべてを。
あるいは、姫騎士さんをも――。




