第九話
※
彼女を見かけたのは、僕がまだ夜の底を這いずっていた頃。
西都の町に物悲しい夜風が流れていた。僕は家にいる気になれず、ぶらぶらと緩慢な足取りでゲームセンターに迷い込む。この頃の僕は自分の眠気に振り回されていた。何度も短い眠りに襲われるかと思えば、深夜に急に目が冴えて、ふらふらと町をうろつく。そんな不安定な夜が日常だった。
そこに彼女はいた。紫のヘアゴムでまとめた長い髪。細腕に工芸品のような白い指。その指でボタンをしなやかに打つ。
僕は何となく彼女の向かいに座り、対戦ゲームでの勝負を行う。
彼女は強く、ほとんど勝てたためしはない。何戦も、何十戦も挑む。日を改めてまた挑む。
母の置いていった預金通帳に手はつけない。休日の短期バイトでゲーム代を稼ぎ、それをすべて電子音に変換するような日々だった。虚無的で刹那的で、飽きることもなく繰り返される対戦。
「ねえ昼中くん。どうして乱入してくるっすか?」
ある時、彼女がそのように話しかける。それまでに何ヶ月が経過しただろうか。くん付けで呼ばれたのは最初の一度だけだった。
「迷惑だったか」
「いや別に、嫌なら乱入不可の設定にもできるっすから。でも100円もったいないっすよ」
「ちゃんと100円ぶんはプレイしてる」
「そりゃまあ、負けてもいいならそうっすけど」
どうでもいいような返しをしながら、僕自身、自分の数ヶ月について考えていた。
同じクラスの黒架、それは分かる。だが別に親しかったわけでもないし、話をしたこともない。なぜ僕はここで対戦してたのだろう。話しかけもせず、数ヶ月も。
「心配だったからかな、女子が一人でゲーセンにいるなんて、ぶっそうだろ」
「私けっこう強いっすよ、心配いらないっす」
「じゃあ、黒架と仲良くなりたかったからかな」
「なんすか、ナンパっすか? 時間かけすぎっすよ」
「そうだな、どれも違う」
黒架は軽くコケる。
「わけわかんないっすよー」
「ううん……」
そもそも理由などあったのだろうか。数ヶ月前にゲーセンで黒架を見つけて、何となくずっと対戦してただけだ。
何か理由はあったのだろうか。目的は。狙っていたことは。期待していたことは。
「理由はないんだ。本当にないんだよ。きっと、それが理由だ」
「へ?」
「何もないんだ。家に帰れば眠るだけ。夕方から夜まで何度も寝ては起きて、休日も寝てるし、学校でも時間を見つけて寝てるんだ。やるべきことが何もないんだ。でも肉体は何かをしろとせっつく。少しぐらい動けと外に連れ出す。脳に刺激を与えろとゲームをさせる。だからきっと、僕はここに流れ着いただけなんだ」
それは夢うつつの言葉だったように思う。ひどく厭世的で、みじめったらしくて、救いようがない。姫騎士さんに出会う前の僕は、何度思い出しても理解が及ばない。そのぐらいひどかった。
「なんだ、じゃあ私といっしょっすね」
黒架がにこりと笑う。その反応は意外だった。
「黒架さんも?」
「黒架でいいっすよ。私も昼中っちといっしょっす」
少し親しみのこもった感じで僕を呼び、黒架は自分のことを話す。
「運のいいことに裕福な家で、将来もそこそこ安泰なルートがあるんす。でも何をしてもいいって退屈なんすよ。うちの家訓は、何もするな、なんす」
「何も……するな?」
「そう、地位も財産もあるから、余計なことをせずにそれを受け継いで守れって教え。クズみたいな話っす。どんだけ勉強したって学者さんにはなれないし、思い切って起業なんてことも許されないっす。だからゲームしかやれないんすよ」
「今どき珍しい話だな。家業を継がせるにしても、例えば留学させるとか、習い事させるとか、子供には投資するべきだと思うが」
「ほんとっすよね。うちの親は頭が固いっす。自分が知らないことを娘にやらせたくないんす。せめてゲームでは一流になってやろうと思ってるんすけどね」
古風というか保守的の極みというか、とにかく黒架も悩みを抱えてるってことだろう。
「じゃあ、また対戦するか」
「またっすか?」
「やること無い者同士だ、せめて夜遊びでもして時間を捨てよう。男女で遊ぶなんて有意義なことさ。死ぬまでの暇つぶしには十分だ」
詩的なようでもあるが、我ながらひどい台詞だと思う。人生を放棄してるような言葉だ。
黒架はまた笑って、対戦筐体の向かいに座った。
「お互い、確実な予定といえば死ぬことだけっすね」
「そうだな」
退廃的で、自暴自棄で、長大な時間の中で砂粒のような快感を拾い集める日々。
しかしそれでも、確かに。
黒架は、笑っていたのだ。
※
映画を見た翌日。黒架は学校を休んでいた。
理由は先生も聞いていないらしく、あとで電話してみるつもりだと語って、授業は始まる。
だが僕は気が気でなかった。理由を言わずに休むとは、もう理由を告げる必要もない、ということではないか?
やはり黒架は僕の前から消えて、西都の町からも消えるのだろうか。
放課後、姫騎士さんが部活のない日であることを確認すると、僕はまず黒架の家に向かう。三丁目のアパートだ。砂煙が立つほどの速度で走る。
結果としては不在だった。中に人がいるのかも知れないが、電気メーターは動いておらず、中に明かりも見えない。
そもそも、二階建ての安アパートが吸血鬼の家なのだろうか、という疑問がある。
次に姫騎士さんの家だ。曲がりくねった道を2キロほど。汗が吹き出るのも構わず駆けて石段を登り、重い桐の門を押し開ける。
そして大声で呼ばわる。
「姫騎士さん! どこ!?」
「こっちですよ、昼中さん」
声に従って屋敷を回り込むと、二本の庭木の間に布地が渡されている。そこから両足をだらんと出して、ゆらゆらと揺れる姫騎士さん。セーラー服のままだが、靴下を脱いでいるので目に危うい光景だ。
「な……何してるの?」
「これですか? ハンモックというものです」
「それは知ってるけど」
姫騎士さんはゆらゆらと揺られたまま、急に両腕を上に突き上げる。
「昼中さん! ハンモックについて本当に知ってると言えるのですか! じゃあこれは何ハンモックですか! ブラジリアンとかメキシカンとかあるんですよ!」
「ごめんなさい本当はよく知りません」
どうやら姫騎士さん肝いりの事業だったらしい。立腹させてしまった。
「ちなみにこれはブラジリアンハンモックです。自作したのは良いんですけど、今日は少し肌寒いですね。夏の楽しみにとっておきましょう」
と、姫騎士さんはハンモックを降りて、手際よく片付け始める。
「姫騎士さん、実は大変なんだ、クラスメートの黒架のことで」
「黒架ジュノさんですね。今日はお休みされていたようですね」
「彼女が吸血鬼だったんだ。それで、お別れだって、この町を出るとか何とか」
姫騎士さんが僕を見る。
「落ち着いてください昼中さん、黒架さんとは親しいのですか?」
「ああ……僕にとっては唯一の友人だった。高校一年の頃に知り合ったゲーム仲間だよ」
「よければ話していただけませんか。出会いの頃から、黒架さんについて知っていることを」
庭には保温ポットとお茶菓子も用意してあり、姫騎士さんはコーヒーを淹れてくれた。庭は花壇も作られてるし、掃き清められていてとても一人暮らしとは思えない。姫騎士さんは庭木に背中を預けて自分のカップを持つ。
僕は黒架との出会いから説明する。夜のゲームセンターで対戦していたこと。ゲーム仲間になったこと。黒架はどんなゲームをやらせても一流だったこと。
そして昨日の映画館でのことを、細大漏らさず、ありのままに伝える。
「黒架さんのご自宅は、三丁目のアパートだったはずですが」
ここに来る前に寄った場所だ。何度か遊びに行ったこともある。古いゲーム機がずらりと並んでいた雑然とした家だ。
「……でも、そういえば不自然だった。偏見ではあるけど、あんな安アパートに住んでるのに最新ゲームが網羅されていて、しかもゲームセンターで毎日のように遊んでたんだ。黒架はバイトしてる様子もなかったし」
やはり吸血鬼だったのだろうか。
本来の身分を隠し、人間の世界で仮の生活を送っていたのか。
何という偶然だろうか。僕の身近に。
それは何を意味する?
「……ッ!?」
何だろう。今なにか、眼の奥に鋭い痛みが走ったような。
昔のトラウマを思い出しかけた時のような……。
「黒架さんは、なぜ対戦ゲームを辞めると言い出したのでしょうね」
姫騎士さんが言う。黒地に金で図案の描かれた上品なカップ。姫騎士さんに調和している。
僕は浮かびかけた正体不明の思考を端に追いやり、ゆっくりと口を開く。
「分からない……でもそんなことより黒架がどこに行ったのかを探さないと、探せるとしてだけど……」
「違いますよ昼中さん。考えるべきことは一つだけです。なぜ黒架さんがゲームを辞めるのか、です」
「え……?」
「お話を聞いていると、その決断にだけ苦悩が感じられます。黒架さんにとっての悩みは三つ、重い順番にゲームを辞めること、この土地を去ること、そしてハンターのことです。そして昼中さんに一番近いのはゲームについての悩みです。黒架さんの悩みに寄り添うなら、自分にできることから近づくべきです」
なるほど……そうかも知れない。
ハンターという存在が何なのかも知らないし、そっちの方向から関わるべきではないのか。しかしゲームのことと言っても……。
「土地を去るというのは今までの自分から決別する、という意味かもしれませんね。この土地にはゲームセンターと、昼中さんとの思い出が詰まってますから」
思い出……それは、あの不思議なビルのような概念か。
思い出の場所は風景として消えても、誰かの心の中に残っている、何かのきっかけで浮上してくるのか。
黒架にはこの町が耐えがたい場所になっていたのか? いったい何に悩んでいたのか、何を思っていたのか……。
「……いや、推測はしたくない」
「……」
「黒架に直接会って聞く。それ以外で真相になんか近づきたくない。姫騎士さん、黒架に会う方法はあるだろうか」
「ご自宅を訪ねるべきと思います」
「でも……」
姫騎士さんはふいにカップを置くと、垂直跳びをして頭上の枝に掴まる。そしてえいと逆上がりをしてその上に座った。
「大丈夫ですよ、きっとまだこの町にいます。吸血鬼にはハンターの討伐が期待されていたのでしょう? ハンターを放置したまま引っ越すとは思えません」
「でも……確かこうも言ってた。城の位置までバレてるから、と。やはりハンターに追われてて、それから逃げるつもりなんじゃないかな」
「ねじれてますね」
姫騎士さんが言う。すたりと枝の上に立って、西都の町を眺め渡す。スカートでその行為はたいへん危ないので、僕は目をそらす。
「ねじれ……?」
「ハンターを倒せるはずなのに、ハンターから逃げる。矛盾です。位置がバレると都合の悪いことでもあるのか、個人ならともかく組織レベルで狙われるのは避けたいのか、はっきりしませんね。やはり乗り込むしかありません」
「乗り込む……わかった、どこでも行くよ」
「ですが……」
と、姫騎士さんが僕に意識を向けるのが分かる。その数秒の無言に流れる、あるかなしかの申しわけ無さそうな感情。何かを危ぶむような緊張。
「僕なら大丈夫だ」
精一杯の虚勢を張って言う。
「自分の身は自分で守る。吸血鬼だろうとハンターだろうと切り抜けてみせる。それに黒架を連れ戻せるのは僕だけ、彼女の悩みに踏み込めるのは僕だけだ。そうなんだろう?」
「そうですね……では、本日深夜0時に、黒架さんのアパートで集合しましょう」
「分かった……。でも城があるんじゃないの? 西都の町は山に囲まれてるし、その山地のどこかにあるんじゃ……」
「いいえ、城は町にあります。ですが……まだよく見えません。形も曖昧ですし、細部が常に変化してます。夜ならもっとはっきり見えそうです」
姫騎士さんが言うならそうなのだろう。もう何も疑ったりしない。姫騎士さんの判断に従い、姫騎士さんの見ているものを見るように務めなければ。
姫騎士さん。眠らない彼女は西都の町のどこを見ているのか。
それはあるいは、この世界ではない場所を。