第八十九話 【極大深度無天十王駅】1
立体的な構造物が高速で生まれていく。世界が広がって風景が高速で流れる。距離感の乱れ、平衡感覚の喪失。プラットホームに立ってるだけなのに三半規管が悲鳴を上げる。
やがて空間の拡大は止まる。僕は黒架を脇に抱えたままで低く構える。
「この世界は……駅を拡大したのか」
概念的に言うなら、一つの駅に数千本ものレールが流れ込む感覚。
それはどんな駅となるのか。水平方向のみならず上や下にも拡大して、構内図は血管走行のように複雑になるだろう。
数え切れないほどの列車が行き来して、何百万、何千万という人々が行き交うのか。人の流れのキャパシティを限界まで高めた機能美。計算し尽くされた編み物細工のカタルシス。そんなものを感じる。
遠くは見通せない。異なる階層の線路やプラットホームが視界を遮るためだ。見える範囲では、プラットホームにもいろいろな様式があるようだが。
「ひ、昼中っち」
黒架が僕にしがみついて言う。
「この場所って……」
「姫騎士さんが生み出した。木刀で腕を切り飛ばしたんだ」
姫騎士さんなら木刀を真剣のように扱うことも可能だろう。そんなことは問題じゃない。
僕は不安になる。いくら姫騎士さんでも腕を斬り飛ばして平気なのか。姫騎士さんは他の四凶から逃げられただろうか。もし遭遇したら戦えるのだろうか。
「昼中っち、線路があるっすよ……」
確かに、変化する前の場所には線路がなかったが、今はある。くすんだ鉄色だったり赤錆が浮いてたり、金色に近くて見事に磨き抜かれていたりと様々だ。
「おそらく……変化する前の世界は意図的に他の世界との繋がりを絶たれていた。だから線路がなかったんだ」
電車の走る音がする。線路の隙間から下層の空間が見えるようだ。覗き込んでみると、無骨な緑の車体がプラットホームに入ってきたところだ。
いや、よく見ればあちこちに電車が。レールに逆さまに張り付いてるものや、縦方向に走行するものもある。世界に喧騒が満ちてくる。
「黒架、ひとまず移動しよう。身を隠せる場所を探して、できれば脱出するための方策を練らないと」
「う、うん……」
もう姫騎士さんのいる方向も分からない。何しろこのプラットホーム自体がゆっくりと横に移動しているのだ。
線路はまさに縦横無尽であり、階段やエレベーターも無数にある。
階段を下っていく。どこにも人はいないが、駅には内部構造が生まれている。コンビニエンスストア、飲食店、コインロッカーなども。
商店街のような並びの中央にもレールが走っており、時おりそこを高速鉄道が突っ切っていく。非常に危なっかしい。
「黒架、向こうは黒架の魔力を辿るはずだ、抑えててくれ」
「うん……」
さて、僕たちはどこへ向かうべきか。
改札横の車掌室に時刻表があった。見てみると秒刻みでびっしりと書き込んである。
「「るおにあ」のホームから西都行きの電車が出るみたいだ、行ってみよう」
ホームの名前は数字だったりアルファベットだったり平仮名だったり、構内の様子も開けたアーケード風だったり周囲を囲われた地下鉄風だったり、小洒落たレンガの壁だったりする。僕たちは目的のホームに向けて歩く。
黒架は何も言わない。僕は彼女の手を引く。誰もいない駅を下っていく。
街路樹のある道を通れば四季が次々と変化し、喫茶店が数百も並ぶ通りもある。ゆっくりと走る新幹線と並走するような場所も。
長い時間だった。実際の距離のためばかりではない、黒架がずっと沈んでいるからだ。
やがて「るおにあ」のホームに辿り着く。電車は数十分後だったので、休憩所のようなスペースで待機。周囲には子供が描いたような絵が飾られていた。
「黒架、疲れてないか?」
「ううん」
黒架は僕より遥かに体力があるはず、それなのに疲弊して見えるのは、やはり心から来るものか。
「私、は」
その黒架の唇、空気に溶けそうなほどか細い言葉が。
「どうしたら、いい、のかな」
「……」
「もう、ラインゼンケルンの氏族では、ない、のかな。ママは。わ、私に」
「黒架、いま考えなくてもいい、とにかく西都に戻って」
それは欺瞞だ。
この問題はそんなに長くは保留できない。どうしても今、向き合わねばならない。
「わ、私、もう、逃げられない、のかな。どこに、いても、吸血鬼に、見つかる」
答えなら一つ浮かぶ。黒架が生きていくための方策。
黒架カルミナを打倒し、黒架自身がラインゼンケルンの当主となればいい。
不可能ではないはず。反カルミナ派は粛清されているのだ。人間の血の混ざった吸血鬼が当主となることに、表立って反対する吸血鬼は多くないはず。
だが、今の黒架にそれを言えるだろうか。この上さらに母親と戦えだなんて。
「黒架、大丈夫だ。僕たちはきっと逃げられる。吸血鬼が一人もいない国へ行けるはず。つつましく暮らしていこう」
「う、うん……」
黒架の答えは曖昧だった。急にそんなことを提案されても実感が沸かないのだろう。逃亡者として生きていくこともまた、想像が及ばないに違いない。
黒架はきっとら群れからはぐれた羊のような心境だろう。何もかも1から建て直さねばならず……。
「……」
では、姫騎士さんは。
彼女もまた世界からはぐれた存在。今はどこかで戦っているのだろうか。自分と同格か、それ以上の怪物たちを相手に。
勝ったとして、それからどうなる。
もし勝ったなら、それは姫騎士さんという存在の到達を意味する。
彼女はきっと、西都には戻らない。
俗世を離れて代替わりの時を待つのか、あるいは代替わりを拒んで神の一柱となるのか。今日がまさにその時なのか。
「昼中くんは」
黒架の言葉に意識が引き戻される。ふと壁の時計を見あげた。電車が来るまではあと数分のようだ。
「どうして、私に付き合ってくれるの。昼中くんだけなら、もっと確実に逃げられるかも知れないのに」
「水臭いな、長い付き合いだろ」
「そうでもないよ……」
黒架は苦笑するように笑う、涙に濡れた赤い目で、多少むりやりな笑いではあったけれど、彼女の笑顔にほっとする。
「放っておけないんだ、危なっかしいから」
彼女はいつも一人だった。夜の底に佇んでいた。
「僕と似てたから。だから好きになったのかも知れない」
誰とも分かりあえず、愚痴も言わず、眠ることもなく。
「だからずっとそばにいたい。僕がいなかったら、今度こそ一人ぼっちになってしまうから」
それは。
それは、誰のこと。
僕は何を喋っているんだ。
「きっとそれは、最初から決まっていたことなんだ。似た者同士だからとか、共感したとかじゃなくて。ただすれ違っただけでも惹かれる。理由なんか何でもいいんだ」
僕もまた極限状態にあったのか。ねじった輪ゴムが戻るように、とめどなく言葉が。
「決断する時なんだ。その決断がどれほど厳しい道でも、大勢に謗られようと、それでも選ばなければならない。選ぶことが人生だから、人間が人間であることの証明だから」
それは、最初から決まっていた、こと――。
「世界は無限に枝分かれして。正解なんかどこにもなくて。それでもなお、選び続けることが……」
「昼中くん……」
黒架が僕を見ている。
赤い目が潤んだようなにじみを見せる。
「うん……そうっすね」
黒架が自分の口調を取り戻す。立ち上がり、ドレスの裾を少し直す。
僕は自分が何を言ったか分かってなかった。無意識だった。そしてそれを振り返ることもできなかった。
「何か聞こえるっす」
その音は僕にも聞こえた。はっと音の方向を見れば、連鎖する崩壊音。
「何か来る!」
休憩所を飛び出して線路の果てを見る。
銀色の電車がこちらに向かってくる。あれは西都から少し離れた土地を通る南方線の車両。西都には電車が通ってないが、東西方面に遠出するときには選択肢になる。
そして車両の上に何かが、目を凝らせばそれは翼の生えた虎。
「あいつは確か……檮杌!」
肌が粟立つ。強烈な魔力が渦巻いている。やつがひと睨みするだけで周囲の駅舎が崩壊し、線路が断ち切られて蒼穹の中に落下していく。あらゆるものを破壊しながら迫る。
「あいつまさか! 僕たちが西都行きの電車に乗ると読んだのか!」
獣とはいえ神格だ、そのぐらいの知恵は使って当たり前か。
迫るごとに破壊の規模がまざまざと見える。荒れ狂う竜巻が迫るような眺めか。煉瓦であろうと鉄筋であろうと紙細工のように切り刻んでいる。そして下方へと落下。
「昼中っち! 逃げるっす!」
逃げる。
しかし逃げてどうする。西都方面への電車がまた見つかるとは限らない。
それに抑えているとはいえ、黒架の魔力に気づかれるおそれがある。あるいは僕の匂い、僕たちが逃げる足音。
あと二百メートル。そいつはまさに神獣か。黒い猛禽の翼は帯電するかのようにばちばちと鳴り、黄金の毛並みには激流のように魔力が循環する。
「――戦おう」
そう決断する。これは逃避を諦めたからじゃない。ここで攻勢に出るべきだと踏んだからだ。
「戦うって、でも」
「今の僕たちならやれる! 相手が神獣であっても!」
黒架は姫騎士さんの対立構造として生まれた。その力は無限に成長を続けているはず。あのジャスティスマスクのように。
「やれるはずだ黒架。自分の力を信じるんだ。君は強い。運命を変えるほどの力を持ってるはずなんだ」
「……。うん、わかったっす」
黒架が翼を広げる。
檮杌の反応は早い。やつの口が開き、空間が歪むように見える。
「飛んでくれ!」
黒架の手が僕に触れ、二人を力場が包む。瞬時に上昇。いくつものプラットホームの隙間を抜けていく。
そして下方では破壊。
見たことがある。核実験の映像。コンクリートの建造物が瞬時に砕ける様子。
強風なのか斬撃なのか、とにかく駅舎とプラットホームが一瞬で形を失って押し流される。内部にある多数の商店も、自販機やフェンスも粉微塵になって虚空へと落下していく。
「すごい威力っす……私の斬撃の技に似てるけど」
「こちらに気づいたはずだが、向かってこないな」
車両の上に構えたままだ。おそらくあの路線を失えば僕らが帰還できないことを分かっている。だから車両は破壊せずに乗っているのだ。あれでは黒架の遠距離攻撃を当てることもできない。
檮杌は首を振り上げて僕たちを見た。そして鼻腔を広げて口元を緩める様子が。
「……建物や線路は破壊すると下方に落下していく。そう、この世界には上下の概念があるんだ。陸地も海も見えないのに」
「昼中っち?」
「一つだけ試せる作戦がある。黒架は」
ふつふつと湧き上がる感情。
あいつ、檮杌は、僕たちを見て笑った。羽虫に過ぎないと甘く見たのか。それに怒りを覚える。
なめるなよ、神様ごときが。
お前たちもすべて、人間が想像できる範囲の怪物に過ぎないじゃないか。
姫騎士さんと同格だと?
想像を超えた存在に、神の上位概念に迫る姫騎士さんと並ぶものか。
僕は黒架に作戦を告げ。彼女をぐいと上に押し上げて反動をつける。
そのまま僕は、数百メートル下方の電車へと落下していった。




