第八十六話
※
輪廻。という言葉を想う。
生きとし生けるものは死と再生を繰り返し、あらゆる生き物に生まれ変わり、無限の時間を輪廻の輪の中で過ごすという考え方。
ふと思う。僕はどのぐらいの世界を巡っただろうか。
多くの世界を旅した。時には中世風の砦を、数千人を乗せて宇宙を渡る船を。
果ても知れない大砂漠を。
人跡未踏の密林を。
大都会の地下を走る水路を。
目もくらむような大金が飛び交う賭博場を。
峻厳なる雪山を、海底にある採掘所を、忘れ去られし寒村を、空に浮かぶ花園を、大芋虫の這う宮殿を、狂気の音楽が満ちる学園を、血に飢えた者たちの牢獄を、脳を吸う怪人のねぐらを、囁きの満ちる鳥葬の丘を、罠で埋め尽くされた廃ビルを、死出のバスが集まる停留所を、文字を奪われる関所を、滅びを知るものの幽庵を、五感を預かる銀行を、悪意と暗号に満ちた遺跡を、蜃気楼と迷夢の平原を、冷酷さに支配された屋敷を、谷底を這う鉱山の町を、大槌もつ刑吏たちの宴を、帰らざる者たちの橋を、未知を封じた墳墓を、七色に輝く魔法の塔を、柱と壁と床のない寺院を、人の足を奪う泥沼を、哲理を火にくべる鍛冶場を、舞踏に明け暮れる病院を、甘さが脳を溶かす船を、紅蓮を散らす氷洞を、人が電波に変わる国を、花火が絶え間なく上がる刑場を、沈み続ける港を、緑の水に浸る地下の家を、限りなく虚無に近い図書館を、蜘蛛たちの娼館を、泣き暮らす巨人の国を、目を失った数学者たちの円卓を、螺子だけを食らう暴食の街を、石炭が落ち来る滝の町を、獣臭に囲まれた霧の街を、死せる言葉たちの散策路を、才気を澱ませる水槽を、堕落の果てのサーカスを、鉄錆の王の領土を、心臓と水筒が釣り合う裁判所を、爛れた蝋燭の密室を、弔いを愛する公爵邸を、すべての悪徳を囲う城壁を、詩人の喉から生まれた極彩色の街を、ヒヅメの音が降り注ぐ禁足地を、水銀が鳥に変わる谷底を、罪と罰を結ぶ隧道を、絶叫の他には何もない孤島を、嘘が塗り込められたアトリエを、闇と黄昏の境界を、嗜虐心と等しき長さの迷路を、飢餓の行き着く塩田を、鎌を研ぐ音がやまぬ河原を、猜疑心が悪鬼となる議場を、追われ続ける階段室を、謀略を生み出す工場を、何もかもが半減する毒沼を、まばゆき悲劇の上映会を、絶望を連れ歩く隊商を、どこにも辿り着けぬ峠道を、狼たちが潜む麦畑を、重力の秘密を知る社を、残響が満ちる防空壕を、斧の女王の狩り場を、禁忌を見失う料理店を、叡智を貶めるための玄室を、時間を恐れる賢人の林を、鬼才群れなす機織り小屋を、金貨を積み上げる劇場を、稚拙さと脊髄の温室を、影だけを踏む舞踏会を、忘却の押し寄せる激流を、魔獣の眠る聖域を、美醜を弄ぶ暗室を、背徳と肉の庭園を――。
そのすべてに、吸血鬼と姫騎士の物語が。
己の手を見る。破壊と再生を無限に繰り返した手は岩の塊のようだ。ひび割れていて赤茶色で、爪がほとんど無くなっている。自傷だけを治すまじないを何度かけ直したのか。精神は摩耗し、時間の感覚が失われている。
携帯、機械……何と言ったっけ、そうだ、スマートフォンだ。それはもうボロボロに壊れて、ただ液晶部分のガラスだけを持っている。
数字は見えない、もう姫騎士さんとの繋がりは絶えてしまったのか。
なぜ、戦い続けるのか。
この世界にも吸血鬼と姫騎士がいるのだろうか。
僕は選択を否定して、世界のルールを破壊する。
それを永遠に繰り返す。
どちらも本人ではないのに。
本人の顔も思い出せないのに。
僕の心は今にも折れそうなのに。
そういった言葉が、僕の周りをふらふらと旋回している。耐えるとか踏ん張るという言葉も飛んでいるが、僕にはもう、それらがよく分からない。
――針金、が。
僕の足元で針金の人形が動いている。針金をこすり合わせるような声を出す。
「トウテツとはあなのようなもの」
「お前、は……」
「トウテツとはむさぼり食う怪物。財産を喰らい、食べ物を食らう、それは浪費の概念。地面に空いた穴に似ている。ひたすらにものを投げ込むだけの穴。失われて二度とは帰ってこない。果てしなく純粋で高貴なる喪失。それがトウテツ」
この話を聞くのは数年ぶりの気もするし、まだ数分も経ってないような気もする。かすんだ視界の中で針金の人形を見下ろす。
「お前……いくつ世界を用意したんだ、こんな、こと……」
「用意などしていない。トウテツは浪費そのもの。トウテツに近づいた人間は星の周りを巡る衛星のように、終点にたどり着けぬままに永遠に浪費し続ける。時間を浪費し、生命を浪費し、意志の力すら減り続ける」
「……トウテツを倒せば終わるのか」
「倒すことは不可能。トウテツそれ自体には肉体もなく魔力もない。城を食べてるように見えたのはただの幻像というもの」
伝説の妖怪……トウテツ。まさか、これほどの相手が。
だが……。
「姫騎士さんに、勝てるはずはない」
「修羅とトウテツは姫騎士と同格の存在。確実に勝てるとは思っていないが、時間を稼ぐには十分。その決着は、あなたの主観時間でどれほど先のことか」
これが、こいつの仕掛けた罠か。
恐ろしい。今ならばそう言える。
際限もなく終わりもない。限りなく永遠に近いほどの浪費が、衰退が、疲労が、虚無がここにある。
「吸血鬼の姫を選べ」
針金の人形が言う。ノイズのような声で。
「それで終わる」
「終わ……る」
もう、限界なのだろうか。
僕はこれ以上ないほど戦った。
戦い続けてきた。
すべての世界で二択を破壊し、選択を拒んできた。
これ、以上は、もう。
「黒、架……」
眼の前に、二人がいる。
どういう経緯でそうなったのか覚えていない。この世界でも二択が繰り返されたのだろう。
姫騎士さん、黒架、もう正確な顔が思い出せない。二人は僕の方に手を伸ばしている。
「昼中っち」
声を発するのは黒架だ。何千何万と出会ってきた数多くの黒架。眼の前の彼女は本物だったろうか、それとも関係のない誰かなのか、もう分からない。
「もう十分すよ、私を選んで。それですべて終わるっす。二人で夜の世界で生きていくっすよ」
「黒架……」
手に触れる、その肌はしっとりときめ細かく、わずかな温もりを秘めている。
――なぜ。
「……?」
いま、何かの思考が。
静電気がひらめくような極小の思考、わずかな疑問。
――なぜ、黒架、に、違和感。
「昼中っち、さあ私を」
「……違う」
この感覚。黒架の手から感じる温もり。
やはり違う。
「お前は……黒架じゃない」
「私は重奏の彼方の存在っすよ。本体とは違うっす」
違う。
そうじゃないんだ。
姫騎士さんは本人だ。重奏の彼方の存在だから実力は比べるべくもないが、本質的には同じ人物。
だが黒架は違う。この人物は。
そして、この気配は。
「黒架、そこか!」
僕は走り出す。二人をその場に残して。
あらゆる風景が千代紙のように重なり合った世界を走る。距離も時間も無視して。
「そこだ!」
虚空を掴む。僕の手には、白く細い腕が。
風景が。
あらゆる風景が消し飛ぶ。
岩山もビル群も田園も湖も、怪物も機械も絵画も刀剣も遠ざかって。
「黒架!」
「昼中っち、今どこから……」
彼女を抱きしめる。
ああ、間違いない。彼女こそ黒架だ。外見も匂いも声も体温も、触れ合っている心の形も。
「ようやく見つけた……闇の中で、黒架の気配を感じたんだ」
「ひ、昼中っち、恥ずかしいっすよ」
ごめん、と謝りつつ抱きしめるのを止められない。黒架も観念したのか身を委ねる。たっぷり百を数えるほどもそうしていた。
ようやく離れて、その顔をまじまじと見る。
「大丈夫だったか、黒架」
「妙な世界に飛ばされたっす。出る方法が分からなくて、しょうがないから助けを待ってたっすよ。その様子だと昼中っちも変なとこに飛ばされてたっすね」
僕は周囲を見る。僕たちは空に囲まれている。
360°に広がる青空のパノラマ。上も下も完全なる蒼の世界。
そして僕たちが立つのはコンクリートのプラットホーム、端的に言えば駅のホームだ。
「ここは……」
今までのすさんだ世界とは雰囲気が違う。
シンプルで小さな世界。いや、この青空を考慮すると無限に広いのかも。
「昼中っち、途中ではぐれたけど大丈夫だったっすか?」
「黒架、どのぐらいここで待ってた?」
「ええと、五分ぐらいっす」
五分、か。
自分の手を見る。ひび割れてはいない。少し前に見た手に比べれば赤子の手のよう。
服はぼろぼろになっていないし、装備していた武器や道具も……。まあいい、僕の主観時間がどれほど永くても、そんなことに何の意味もないのだ。
そして脳も真新しいままなのか、いろいろなことを思い出す。百浜上空の古びた城、修羅とトウテツ、姫騎士さんのことも。
黒架は最後に別れたときの姿、ツイードのジャケットを腰に巻き、スリップドレスという格好。翼は肩甲骨のあたりに畳んである。
「ここって駅みたいだな……線路はないけど」
「待ってたけど電車が来る気配もないっす」
黒架はここに封印されていたのだろうか。僕はそれに気づかないまま、無数の世界で姫騎士さんと黒架を……。
……。
「姫騎士さんは本物だった、だけど黒架は偽物……?」
「? 何の話っすか?」
「ミネギシの罠にかかってたと思うんだが、いくつかの重奏を渡り歩いてたんだ。そこで黒架の偽物に出会った」
「私に化けてたっすか、ミネギシもやることがセコいっす」
……。
僕を姫騎士さんから引き剥がすために、黒架を選択させる、そのために偽物を送り込む……。
それは分かるが、それだけだろうか。
何か、真相の周囲をかすめているような気がする。惑星の周りを巡る衛星のよう、とはどこで聞いた例えだったかな。
「少し駅舎を調べてみるか」
「そうっすね。私もまだどこも見てないっす」
この駅舎にプラットホームは一つきり。トタンの屋根がかぶさっていて、田舎の単線の駅のように見える。
ポスターもなく飾り気はない。駅名の看板と時刻表はあったが。
「……まったく読めないな」
「これ文字っすか? 記号と言うか……インクをこぼしただけみたいな」
ホームの端から下を覗き込むが、陸地も海も見えない。上にも何もない。ここには風の流れもなく、空気には何の匂いもない。
「何もない……やっぱり封印のための結界かな」
「でも破れないっす。ここはかなり完成度が高いというか、元の場所からとてつもなく遠いっすよ」
遠い、という感覚はさっきの旅の中で掴んだ。重奏には元の世界からの距離がある。
さっきの旅路の中ではどれも極端に遠い世界だったが、ここはそれよりさらに遠い。さっきの世界がビルの30階とか50階ぐらいだとすると、ここはまるで月面に思える。
「トイレはある……改札はない……」
「駅長さんの部屋とかもないっす。このまま出られなかったら飢え死にっすね」
「黒架、魔術で食べ物とか出せないのか」
「あ、出せるんだった」
「どないやねん」
よし、だんだん調子が戻ってきた。
そして思い出す。ポケットの中のスマホ。
壊れていない。まっさらなままだ。液晶では凄まじい速度で番号がスクロールしている。
「これが姫騎士さんとの命綱だ。これがあれば姫騎士さんがここを見つけるはず」
「よかった、じゃあ待機っすね」
……。
待機、確かに黒架でも結界を破れない以上はそうするしかないが。
この場所に、何かもっと調べることがあるような。
「……あれは何だろう?」
視線の先にあるのはロッカーだ。駅の隅っこにぽつんと存在している。
「掃除用具入れっすかね」
「……いちおう調べてみるか、中に何かあるかも」
なぜだろう、心がざわつく。
そのロッカーに近づくごとに足が重くなる。
何か……ただならぬ気配が。
「昼中くん」
はっしと、背後から腕を取られる。
「どうした黒架」
「今わかった、あのロッカーから、血の匂いが」
……。
調べないわけにはいかない。
僕は黒架をその場にとどめ、一人で近づく。
ごく平凡なスチール製のロッカー。高さは2メートルほど。扉が少し歪んで、全体にサビが浮いている。
鍵穴などは見当たらない。僕は意を決して、扉を引いた。
――倒れかかる。
「!」
身を引く、それは材木のように重々しく倒れた。
上等な生地を使った黒のスーツ、襟に装飾のないカットソーのインナー。
その胸部に、血の赤が。
「これは……!」
その目に生気はなく、体は冷えきっている。筋肉は固くこわばり、肌に水気はない。かつては美人だったと思われる顔は、無を体現したような表情で停止している。
死んでいる、それは疑いようがない。
長い旅の中で、あらゆる形の死を見てきた。これは仮死状態でも作り物でもない。
だが、こいつは。
「ミネギシ……なぜこいつが死んでいる……」




