第八十四話
重力の反転、この現象には覚えがある。
「黒架、ガラスを割って外に出てみよう。飛べるか?」
「う、うん」
黒架はツイードのジャケットを腰のあたりまで下ろす。そうすると腰に巻き付けるスタイルになって、肩を出すスリップドレスのようなものが現れた。
腰でジャケットを巻くのはカジュアルなスタイルなのに、袖口が腰のラインに沿って張り付いて、折り目も布地の質感に溶けて、ファーを巻くような優雅な印象を残している。なるほど6000スイスフランの仕事か。
周囲では悲鳴も上がっている。何かが激しく割れる音や、警報のブザー音も。そちらも対応したいが、原因を止めることが先決だろう。
「やっ」
黒架が爪をはじく、果たして夜景を映すガラスが粉々に砕ける。割れた破片は遥か上空に上がっていくが、地上に落ちなくて幸いと見るべきか。
黒架に両わきを持たれて、ホテル上空へ。
僕の主観では足元の方向。浮かぶのは城だ。
やはり、以前に見た黒架の城と似ている。四方八方に尖塔が突き出し、布のように城壁が全体に巻き付いている。栗のいがのような構造。見ているだけで上下の混乱を起こす眺めだ。
「吸血鬼の城……」
「私たちの城と同じぐらい大きいっす、でも何か、ずいぶん古びてるような……」
尖塔の1つに着地する。着地するとそこが下であることに違和感が無くなる。二度目となると慣れたもので、窓の一枚を踏み抜き、蛇のようにするりと中へ。中の壁から床へと、重力の変化を意識しながら侵入する。
「黒架、これはどこかの氏族の城なのか?」
「うーん、見たことないっす。というより、城を浮かせる結界はラインゼンケルン独自のもので、門外不出のはず……」
……似ていることを偶然と片付けるべきではないだろう。何か理由があるはずだ。
城内を進む。人の気配はまったくない。コウモリやネズミもいない。花瓶や石膏像などは割れており、絵は額だけが残っている。布張りの人形もあるが、これは鎧か何かを着せて飾るためのものだろうか。
「何だか……略奪にでも遭ったみたいだな」
「でもやっぱり吸血鬼の城っす。羽が生えてないと住めない構造になってるっす」
それにやはり、黒架の城に似ている。内壁の色使い、鉛ガラスのはまった窓。扉のノブの形……。
「外に何かいるっすよ」
見てみる。
そして驚いた。巨大な獅子舞のような獣だ。
般若のように口を歪めた四足獣。それが城の外壁を歩き回り、尖塔のひとつにかじりつく。角笛のようにねじれた円錐型の牙、それが煉瓦の壁に食い込み、むしり取り、石片を散らしながら噛み砕く。
「何だ、あれ……」
「野良の魔獣っすかね。でもなんか、あまり魔物の気配を感じないっすよ」
魔物の気配がどんなものかは分からないが、確かに僕も何も感じない。以前に見たバクは皮膚がちりちりするような気配があったのに。
「放っとくっすよ」
「そうだな、今はこの城が出現した原因を……」
視界の奥。
それを見た瞬間、うなじに鳥肌が立つ。すかさず黒架を背後に回して構える。
その人物。
小柄にも見える立ち姿はボロ布のようなもので覆われ、大量の鎖が巻き付いている。鎖の隙間から見える顔は少年のもの、澄んだ瞳と、疲れたような印象の口元を見せる人物。
「修羅……」
見えない手に押されるようだ。この威圧感。20メートルは離れているのに無意識に足を引きそうになる。
その姿は白銀に輝いている。以前は焼き締めたような黒い鎖を纏っていたが、今は鏡のように磨かれた銀色の鎖である。洗練されたと言うべきか、澱みのない清冽さがある。
だが修羅は僕たちから視線を外し、回廊の奥に歩み去ってしまった。
「昼中っち、修羅は倒したはずじゃ」
「……ああ、姫騎士さんが倒した。でも、あれは本体の万分の一の分身のようなものだったらしい。あれは別の分身なのか、それとも分身だから何度でも蘇るのか」
修羅はあの鎖によってミネギシに操られている。
つまり、あの鎖とは封印の道具であり、あの鎖を用意できたぶんだけミネギシが分身を使役できる、そういう理屈のようだ。ミネギシがどれほど高位の魔法使いでも、使役には限界があるらしい。
「追ってみるっすよ」
「そうだな……何だか消え方が不自然だった、ついてこいと言ってるような」
罠の可能性はあるだろうか。それはあるまい、修羅が物理罠を頼ったり、群れて戦うとは思えない。
やがて追いつく。修羅は広間の中心にいた。
この広間からはいくつもの窓が見える。その中にさっきの四足獣も見えて、外壁をばりばりと食らっていた。
「私は万象の雛型である」
「私は金無垢の鐘が鳴り響く一瞬、私は大洋からすくいとった一握の水、私は降り積もる雪のひとひら」
修羅はぶつぶつと独り言のように話している。僕たちに聞かせてるつもりなのかも分からない。
「修羅……この城は何なんだ。あんたはミネギシに使役されているのか。彼女はどこにいる」
修羅は眼球だけを動かして僕を見る。数万人から一度に見つめられたような緊張が走る。
「トウテツ」
「? とうてつ? 何だそれは」
「尾を喰らう蛇、あやかしを喰らうあやかし、陰であり陽であるもの、根源であり末節のすべて」
「昼中っち、もしかして饕餮のことじゃないっすか、中国の妖怪っすよ」
中国の……そういえば聞いたことがある気がする、かなりの大物だったような。
「どういう妖怪なのかな」
「えーっと、確か大量の食料とか財宝をむさぼる妖怪っす。饕は財産をむさぼる、餮は食べ物をむさぼるという意味っすね。神話的と言うか象徴的な存在で、実際に見たって人は聞いたことないっす」
財産と食料をむさぼる妖怪……それだけ聞くと大したことなさそうだけど。
大きいとはいっても10トントラック程度。城を食べるという行為にしても、見慣れてしまえばそこまで奇抜なものとは思えない。
修羅の方を見る。あらぬ方を向いてぶつぶつと独り言を言っている。
「修羅、ミネギシはどこに」
答えない。だが反応はあった。胡乱げな目で僕を見たのだ。
「あの城の外にいるのがトウテツなのか」
「我が身と等しき混沌である」
関係ないようなことを言う。
「陰と陽に分かれざる色、孵らざるままに永遠を生きる卵、虚無を渡る橋」
「修羅、僕たちはあなたと敵対するつもりはない。トウテツをどうすればいいんだ? 倒せばいいのかな」
「トウテツは、あ――」
ぎしり、と鎖がきしむ音がする。
修羅の、肩から胸にかけての鎖が首に上がってきて、修羅の生白い首をぎりぎりと締め上げる。鎖の隙間からのぞく少年の顔は感情を見せない。鎖だけが食い込みを深める。
「昼中っち、鎖が」
「……ミネギシだな。余計なことを喋らないように術をかけられてる」
修羅は感情や肉体の変化を表情に出さない、だが言葉は止めざるを得ないようだ。
そしてこれで複数のことが分かる。修羅は僕たちに渡せる情報を持っており、それはミネギシにとって都合が悪いこと。
重力の反転と巨大な城の出現、この現象の背後にミネギシがいることも間違いないだろう。僕はそのあたりまで言葉にする。
「でもここは百浜っすよ。なんでこんな場所で」
「僕たちが狙われたんだろうな」
僕か黒架が西都を離れた時に手を出してくる、起きてしまえば違和感はない。
邪魔者を排除したいのか、それとも僕たちをエサに、姫騎士さんを罠に誘い込もうというのか。
「黒架、どうすればいいと思う? あのトウテツを倒せばいいんだろうか」
「うーん、ちょっと結界の規模が大きいのも気になるっすよ。現実世界にまで影響が出てる。この結界、見た目以上に凄まじく大きい気がするっす」
確かに。城に着地する前から重力の異常が起きていた。
やはり、重力の反転は巨大な質量によるものなのか? この結界に地球と釣り合うほどの質量が?
「……いつも通りなら、事態の収束と同時にそういう現象も無かったことになるはずなんだが」
修羅は僕たちの方を見ない、ただ立ち尽くすのみ。
これがミネギシの罠だとしたら、修羅は何をしてるのだろう。トウテツと修羅は両方ともミネギシに使役されているのか?
スマホが鳴る。
確認すると……ナンバーディスプレイが自動でスクロールしている。何百か、何千桁という数字が高速で流れているのだ。
「……」
今さらその程度で驚いてられない、僕は電話に出た。
「もしもし」
「もしもし、昼中さんですか」
姫騎士さんだ。僕は内心のため息を止められない。
連絡するまいと思っていたのに、すでに姫騎士さんは事態に気づいている。もちろん、重力反転が現実に起きてるなら当たり前だが。
「姫騎士さん……こっちの状況に気付いたんだね」
「はい。そこに修羅さんもいますね? それと……何かとても大きな、怪物のようなものも」
トウテツのことも気づいている。さすがだ。
「僕たちで何とかしようと思っていたけど」
「その怪物はとても大きなものです。うかつに手を出さないでください」
そうなのか。トウテツがかなりの大物だという知識も記憶の隅にあるし、バクと同じに考えないほうがいいな。
「それと昼中さん……今どこにおられますか?」
「今? 黒架と一緒に百浜だ。行くって姫騎士さんにも言ってたと思うけど」
「そうではありません……その、言葉で言い表すのは難しいのですが、昼中さんと黒架さん、とても遠い場所にいます。どんどん……遠ざかっているんです」
……何だって?
はっと気付いてスマホの画面を見る。長大な番号のスクロールはまだ続いている。その速度を増すかに思える。
「黒架! 脱出だ!」
「わ、わかったっす」
迂闊だった。結界がどんどん深い階層に落ちているんだ。
重奏から別の重奏へ、結界から結界へ。
何もしていなくても内部の人間を遠くに連れ去る。そういう仕掛けか。
スマホを見る。まだ文字の流れは目で追える。この通話は命綱になるだろうか。
「昼中さん、スマホの電源はけして落とさないように。充電は十分ありますか?」
満タンにしてきてる。こんなこともあろうかと鞄の中にはモバイルバッテリーも入れてる。
「大丈夫、まる二日は持つと思う」
「私もすぐ……追いかけます……でも……そらく、昼中さん……のほうが……通話は、無理……」
声が遠くなる。姫騎士さんですら声を届けられない。即座にここに来ることもできないのか。かなり高度な罠にかかったと見るべきだろう。
ふと脇を見る。黒架がいない。
ぴったりと寄り添っていた感覚はあった。三次元的に離れたわけではなく、おそらく重奏に送り込まれたか。
「上等だ、必ず脱出してやるぞ、ミネギシ……」
光を感じる。
太陽が中天にあり、低く構えていた僕の足が「着地」を認識する。
素早く周囲を警戒。大勢の人がいる。みな何かに注目しているようで、急に現れた僕には目もくれない。僕は素知らぬ顔で群衆に紛れ込む。
どうやら皆、木の演台にいる人物に注目してるようだ。
「静まれ!」
ここはレンガと石で作られた町。看板には達筆な外国語が並び、町全体にすえた匂いがする。人々は簡素な麻の服を着て、農具を担いだり木桶を背負った者もいる。
「ここウォーツミールの町において、かねてより巷間を騒がせし吸血鬼は捕らえられた!」
話しているのは、銀の鎧に身を包んだ騎士風の人物。長剣を提げ、羊皮紙の巻物を捧げ持つ。それは美しい黒髪女性、で……。
「姫騎士さん……?」
「騎士の名において! 今宵、月の南中をもって吸血鬼の処刑を執り行う! 白木の杭を心臓に打ち、必ずやその穢れた心臓を消し去らんことを!」




