第七十九話
まさしく姫騎士さんだ。
記憶にあるより少しだけ髪が短く、寒さのために頬が赤くなっている。セーラー服の上から厚手の手袋とマフラーで固めたスタイル。僕たちに柔らかい視線を向ける。
まだ僕と姫騎士さんは他人であり、姫騎士さんが他人に向ける自然な笑みというのを体験できた。実に貴重な体験である。
「あなた方は、未来から来たのですね」
「……何を言い出すの急に、私たちはただのカップルだよ、クリスマス限定の」
なぜか先生はとぼけようとする。姫騎士さんを巻き込みたくないというより、介入されたくないという気配。
「先ほどから、上空にとても大きなものがあります」
姫騎士さんは真上を見る。はらはらと雪がちらついている。
「クリスマスの歌が聞こえます。あれはサンタクロースの工場ですね。どうやら乗っ取られてしまったようです。皆さんはそれに関係していますね」
工場の存在に気づいている?
「今は何かを複製しているようです。工場の持てるすべての能力を絞り尽くしています。複製しているのはロボットでしょうか。高度400キロ付近、熱圏中層を霧のように埋め尽くしています」
「姫騎士さん、上空の工場が見えるの? いくら大きいと言っても数百キロ上空にあるのに」
「はい、見えるようです」
姫騎士さんは白い息を吐きつつ笑みを見せる。
先生はあきらめたように頭を掻き、吐息をついてから言う。
「姫騎士さん、君はいつからそんな力を持っていたの? いつから自分の体質が普通ではないと」
「違います。私もそれに気づいたのはたった今です。どうやらこの私と、いま見えている西都の町は、数分前に認識されたようですね」
? どういうことだ。確かにここは重奏だから、たった今生まれたと考えても不思議じゃないけど。
「私は、時間を巻き戻しても力が劣化しないようです。私は未熟だった時代というものは持たない。常に成長し続けているようですね」
「それってどういう……」
「姫騎士さんは世界に一人しかいない、ということかな」
先生の言葉を受けて、はっと気づく。
そうか、姫騎士さんはあくまで基本の世界にいる一人だけ。ここにいる姫騎士さんは別人ではなく、まぎれもない姫騎士さん本人なのだ。
言い換えるならこの重奏が生まれた瞬間、この世界の姫騎士さんも基本世界と同じ力を得たのか。
「お二人は、何をしに来られたのでしょう」
姫騎士さんの問いに、僕たちはとりあえず自己紹介をして、橘姫を追っていることを伝える。先生は口が重かったため、僕がほとんど説明した。
「橘姫ですか、確かにすごく性能のいいロボットのようです」
「私は橘姫が求めるものに心当たりがある」
先生が言う。
「それを先に押さえて、時間を渡る乗り物で元の時代に帰る。すぐに終わるさ」
「先生、それは何ですか?」
「泰歳数理系記文」
先生は奇妙な言葉を放つ。
「私は橘姫を追って旅をしながら、桜姫の開発を続けていた。私が賢者たちと過ごしていた頃に開発した唯一無二の数理系、それを記したノートこそが最大の宝のはずだ」
前に聞いた話だ。先生は研究所を出る頃には天才性を失っており、自分の記したノートを解読するのに10年かかってしまったという。
「私は桜姫を開発した後にノートを焼き捨てた。だからこれ以降の時代には存在しない」
「分かりました、じゃあそのノートを押さえてしまえば」
『ノーグッド』
橘姫の声が。
声の方を素早く見る。それは西都の町にある町内放送用のスピーカーだ。割れた音が響いている。
『レジストは無意味。もしノートを持ち去るなら、このプラネッツのすべてを破壊します』
何だって……。
橘姫はこちらに気づいているのか。広範囲の電波ジャックまで行ってメッセージを。
『これは脅しではない。すでに私のコピーは50億オーバー、この重奏だけでなく。このプラネッツのすべては私のもの』
50億……それほどの複製を。
僕はふと思い浮かべる。世界が終わるという言葉を。
これまでも何度か世界は滅びかけていて、そのたびに何とか切り抜けてきたけれど、そうそう何度もやり過ごせるものではない。
今回こそ本当に終わりなのか?
何とかしようにも、50億の橘姫という圧倒的な現実をどう覆す? ノートを守っただけでは……。
「ええと、亜久里さん」
姫騎士さんがそう呼びかける。やや青ざめていた先生は、せめてもの矜持を保って顔を向ける。
「どうしたの」
「ここにノートがあります」
と、姫騎士さんは二冊のノートを取り出していた。それを左右に一つずつ持って、重ね合わせるように水平に振る。
これは10円玉などで行える手品だ。平たいものを重ね合わせるように動かすと、残像効果で3枚あるように見えるのだ。
「亜久里さん、真ん中のノートを抜き取ってもらえますか」
「……? いや、真ん中もなにも、ノートは2冊しかないの見えてたし」
「お願いします」
「……」
先生はノートに視線を下ろす。
その目にはある種の困惑と、少しの躊躇いがある。
先生にも姫騎士さんの力は分かっている。ノートを引き抜けば何が起きるか。もはや誰もがその結果を思い描き、そして疑えない。東の空に打ち上がった太陽は必ず西に沈む。そんな約束されたダイナミズム。
引き抜く。
果たして、先生の手にあったのは黒いノート。表紙の紙はすりきれてボロボロになった、古びたノートが。
「……私のノートだね、こんなに簡単に」
姫騎士さん。一度も見たことのないノートをあっさりと引き寄せてみせるとは。やはりその力は凄まじい。
「では行きましょう」
姫騎士さんはスポーツバッグにノートをしまう。もう冬休みだし授業はないはず。剣道部の空き時間に自習でもするためのノートかな、と何となく思う。
「行くって?」
「真上です」
姫騎士さんが指差す。
空は暗く陰っている。それは雪雲のためばかりではない。明らかに、数分前より空が暗くなっているのだ。
「サンタクロースのおもちゃ工場、こちらから乗り込みましょう」
※
姫騎士さんは世界で一人だけ。
その概念を飲み込むのは難しい。
もし、ここにいる姫騎士さんを連れて元の時代に戻ったらどうなるのだろう。桜姫を通して通信を試みたら?
どちらかが偽物になるのか、それとも何かしらの力が働いて呼びかけも帰還もできなくなるのか。
一つ言えることは、おそらく姫騎士さんは重奏という概念のさらに上位にいるのだ。
僕たちがどんな場所で、どんな時間で姫騎士さんに会っても、それはまったく同じ人物なのだろう。たとえ赤ん坊の頃であっても。
それはつまり、過去に戻ったとしても姫騎士さんの力を弱められないということ。
どこかの呪われた家の悪霊のように、霊媒師が生まれた頃に遡って攻撃してくる、そんな手段すら拒絶するのだ。それが姫騎士さんの凄さか。
その姫騎士さんは僕の後ろに乗っている。桜姫や先生もいるので四人乗りだが、まあサンタクロースがいないので何とか乗れる。
「先生、操縦の方は」
「もう解析できた。不確定な量子の挙動を制御して飛ぶらしい。なかなかハイテクだね」
というか橇が単体で飛べるならトナカイの役割は何なのだろう。馬車が自動車に変わったように内燃駆動に置き換わったのかな。
先生は首だけで振り返る。
「姫騎士さん。あなたの力を疑う気はもうないけど、橘姫の群れはかなりの火力だよ、戦えるの?」
「何とかします」
すでに高度150キロ以上。姫騎士さんは物珍しそうに星空を見ている。
スポーツバッグはコインロッカーに置いてきて、今の装備は背負った竹刀袋だけだ。これから死地に赴くにしては緊張感がないけど、まあ姫騎士さんにそのへんの心配は無用か。
ところで何となく新鮮な印象があるのはなぜだろう?
冬服だからだろうか。いつもより清楚と言うか純朴と言うか、野に咲く花のような素朴な美しさがある。
そうか、目元の印象が違うんだ。いつもより目が小さくてシャープな印象。肌の色も艶がなくて淡い。
もしかして「化粧っ気がない」というものかな? マスカラとかアイシャドウとか、あまり意識してなかったけど姫騎士さんもそういうものをしてたのか? そしてこの頃はつけてなかった……。
「どうかしましたか?」
「いや別に」
姫騎士さんはきょとんとしている。
姫騎士さんの自己認識はどうなってるのだろう? 僕たちの記憶はないみたいだけど、これまで切り抜けてきた戦いの経験値は持ってないのかな。
「来たよ、データを投影する」
箱型端末から光が伸び、橇の周囲に映像が浮かぶ。
接近するのは橘姫の群れだ。どれも均一なメイド服。剣を帯びている者や、重火器を構えている者もいる。
「桜姫! 最大火力で穴を開けろ!」
「れざ!」
がしゃこん、と桜姫の髪から突き出すのはロングバレル。
一切の間をおかず発射。前方を光が埋め尽くす。とっさに目を覆わなければ視力を失いかねない光量。
「めいちゅ!」
「出力が400%ほど増してる……光学励起体と収束系が組み変わってるな。ロブのバグフィックスの効果か」
桜姫の内燃機関がどうなってるのか知らないが凄まじい威力だ。橘姫の群れに穴が空いた。だが規模としては砂浜に空き缶を刺した程度の穴。
反撃が来る。無数の橘姫たちが砲門を向け、質量弾、レーザー、電磁波など一斉に放つ。
「ばりや!」
橇を光が包む。
だがそれは壁ではない、右から来たものは左へ、左から来たものは右へと突き抜けていく。数千万もの集中砲火の中を橇が進む。
「よし、桜姫の性能のほうが上だ、乗り込める」
先生は少しハイになってると感じる。
それは意図的なものだ。無理やり自分を高ぶらせている。
まともに考えれば億を超える橘姫の中に突っ込むなど正気の沙汰ではない。僕がついていけるのは姫騎士さんがいるからだが、先生は姫騎士さんをあてにしていない。桜姫だけで戦い抜くつもりなのか。
「姫騎士さん、でも何でついてきてくれたの? 直接は関係ないはずなのに」
「サンタクロースの工場ですよ?」
…………
……
あ、会話が終わった、久々だなこの感覚。
そうか、サンタクロースの工場に行くのは命をかけられるぐらいの冒険なのか。そうだな僕の感覚のほうが間違ってるな絶対に。
「世界中の子供に夢を届ける工場です。そこを乗っ取る悪い人は懲らしめないと」
「そうだな」
おそらく、橘姫は過去の世界を探ると同時に、おもちゃ工場の乗っ取りを進めていたのか。
十数年前、あの雪の世界の時代から別働隊を出し、十年以上かけて乗っ取ったのかも知れない。
そして見えてきた。サンタクロースのおもちゃ工場。ほんの数時間前に見たばかりのドーナツ型のビルだ。
周囲には星の海を渡るレール。とてつもなく長いレールが何千本も飛ばされ、蜘蛛の巣のように見える。
「……? 何か、質感が」
印象が違っている。前は大きさを除けば無機質なビルだったが、今は表面がウロコのようにささくれて見える。
「不死の雛形だ」
目を凝らす。なるほど表面に羽根のようなものが突き出ている。何億、何十億という数だ。あれは不死を生み出す構造体。おもちゃ工場を丸ごと造り変えたのか。
「つまり不死身のビルになったってことですか、じゃあ、外壁に穴を開けて入るってわけには」
「違いますよ、昼中さん」
「?」
「あれも橘姫です」
は……!?
背後からは数億の橘姫が迫る。
ビルの周囲には攻撃衛星。各部のスラスターをミリ秒ほどふかして砲門を向ける。
「全員、しっかり橇に捕まって」
「先生、どうするんですか。あのビルはもう不死です。穴は開けられないはず」
「何とかするよ。こちらには泰歳数理系記文がある」
そして不死のビルは。
無限を象徴するかのような巨大なリングは。
サンタクロースのおもちゃ工場であったものは。星界の支配者のように鎮座していた。




