第七十八話
亀裂は一気に広がり、書き割りが砕けるかのように神殿が崩壊していく。
頭がふらつくような感覚。気づけば石の床は草地に変わり、柱の列は海原を望む眺めとなって。
僕たちは数十体の橘姫に囲まれている。
「数的領域を力技で破壊したか。まったく不格好なことだ。落第点だな」
「ミスターロブ、手帳を渡しなさい」
正面に立つ個体は距離を詰めてこない。こいつが本体なのかも分からないが、どうする、飛びかかって破壊できるか――。
「この手帳にどれほどの価値がある」
ばさばさと、タバコの箱ほどの手帳を振るロブ。
「余白はほんの数行ぶんだ。SF的な技術が一つか二つ、現実のものとなるだけ。その程度のことが重要なのか」
「その数行の価値が分からないユーではないはず。むしろ、あなたの文字がほとんどを埋め尽くしているからこそ意味がある」
「ここで破壊することも可能だ」
ロブが指を一本立てると、その先端にロウソクのような火がともる。いわゆるセントエルモの火かと思ったが、炎は一瞬で赤から青に変わり、光度を上げて白に近い閃光を放つ。
「やめなさい、阻止するはイージー」
「どうかな」
言ったのは僕だ、ロブの前に出る。
「ミスター昼中、死にたいのですか」
「甘く見るなよ橘姫。分かっているぞ、分身体は本体よりは弱い。今の僕ならお前たちの5人や6人を鉄くずに変える力はある。そして、すべてを破壊する黒い橘姫では手帳に触れられない」
「……」
橘姫たちは半信半疑という顔だ。この僕に自分たちをどうにかできるだろうか、と考えている。機械の目で僕の体を透視しているかも知れない。
だが僕の力が見極められるか。巨人を背負ったこの力を。
「……手帳を渡さないなら、桜姫をシュートします」
橘姫たちが指先を向ける。僕ではなく、亜久里先生の抱いた桜姫に。
「無駄だぞ橘姫。桜姫は簡単には破壊できない。それに第一、お前たちが半壊させたんだろう」
「ミスターロブのデータは得ています。これが最善のネゴシエート」
何を馬鹿な、と言いかけて。
ぱさり。と。
手帳が落ちる。橘姫の足元に。
「なっ……」
「もういい、持っていけ」
ロブの投げやりともとれる言葉。橘姫は手帳を拾い、中身を確認すると、にやりと笑って踵を返す。
そして足のジェットをふかして飛び去っていく。上空の雲霞のような個体群も。
「あ、あんた……渡せないって言ってたはずじゃ」
「全員が殺された上に手帳を奪われることが最悪のシナリオ。それを回避できたのだから良しとするべきだな」
指先の炎が消える。おそらくロブはまだまだ戦う手段を持っていた。橘姫たちが僕たちを始末せず離脱したのがその証拠だ。
なぜみすみす渡したんだ。世界を変えうるほどの手帳のはずじゃ……。
「ここ百年ほど、我々科学者を悩ませている問題がある」
「……?」
「人の命を数値化できない。それは無限として扱うしかないんだ。だから時おり、奇妙な選択肢を選んでしまう」
つまり、人質に対して何もできない? そんなことが……。
「私を徹底的にドライな人間とでも思ったのか? どちらかと言えば無責任な人間だ。君たちの命までは背負えないし、私だって命は惜しい」
「だが、あの手帳が橘姫に渡れば何が起きるか」
「心配ないだろう。あの手帳はそこまで万能なものでもない」
……。
どうも妙だ。
何となく、ロブはすべて計算づくで手帳を渡した、そんな気がする。
何か、渡しても良い理由でもあったのか? そして、なぜそれを僕たちに説明しない……?
「さあ、君たちがこの時代にいる理由はもうない。また時間の旅を続ければいい」
近くに橇がある。あれは無事だったか。
「ロブ……」
先生はロブを見つめる。先生はそうとは意識してないだろうが、離れがたい気配が流れている。先生は縄を振りほどくように歩き出す。
「もう行こう昼中くん、橘姫を止めないと」
「先生、戻るという選択肢もあります」
僕の提案に、先生は表情を固くする。
「何か危険な予感がします。橘姫がいくら強くなったとしても姫騎士さんを超えられるとは思えない。必ずしも追う必要はない」
「尻尾を巻いて逃げろって言うの」
「重奏は本来は別離の手段。だとすればここもそうです。サンタクロースの用意したタイムマシンという名の重奏、これは何の旅ですか? あるいは、先生がどこかに消えてしまう旅かもしれない。僕はこの旅を続けることに不安がある」
「……私は行く」
先生は頑なに言う。僕の言葉が浸透していないのは明らかだった。
「この橇はだいたい理解した。昼中くんが帰りたいなら元の時代に送ってもいい」
「……いえ、僕も行きます」
危うい気配がある。
物語の傾斜、あらゆるものが結末という一点に向けて坂を下っている。
僕たちは橇に乗り込み、周囲の景色がゆっくりと歪むように見えて。
「――あ」
草原の彼方。僕たちに目もくれずに歩み去ろうとするロブの、その向こう。
10歳ほどの少女、冥府の川のように美しい黒髪と、幻想の世界を見ているような黒の瞳。
幼い亜久里先生は笑っていた。
ロブの無事を喜ぶかのように飛びつき、ロブも彼女を抱えあげる。
「先生、ロブさんって」
「私をあの家から連れ出した男。何でもできるような顔をして、何一つ残さずに私の前から消えた男、それだけだよ」
二人は親密に抱き合っていると思えた。ロブはもう手帳を持っていない。あるいはこの過去では、重奏の彼方に消えたのは九人ではなく八人ではないのか。
ロブと先生は、この世界に残って生き続けるのではないか。そんな想像が頭をかすめる。
そして酩酊に襲われる。感傷がかき消されるような内臓のうねり。五感の混乱の中で先生の肩を掴む。
そして重力が戻る。数秒は身動きが取れない。
意識されるのは肌寒い風。どこからともなく流れるクリスマスソング。
そして――硫黄の匂い。
「ここは……」
間違いない、西都だ。
商店街の端にある路地のような場所。ほんの数時間前、覗いていたおもちゃ屋にほど近い。
「ここは……去年のクリスマスか」
見覚えがある。西都の商店街は毎年イルミネーションで飾られるが、この年は青と銀色だった。街路樹を銀のLEDランプが飾り、商店は青で飾っている。万国旗なども道を横断するように渡されているが、これはほぼ一年中のことだ。
「じんぐる!」
声がして、桜姫が先生の腕から降りた。
「桜姫、もう回復したのか?」
「ばんかい!」
「万全に回復したんだな、それだけは略さず言おうな」
まあとにかく目が覚めてよかった。頭の傷もいつの間にか元通りである。どうやって補修したのか謎だが、虚空から武器を取り出せる桜姫にそのへんの理屈は無用か。
「ここはどうやら去年の12月24日、午後6時ぐらいだね」
先生が言う。冬至を過ぎてすぐの頃だ、すでに西都の街は暗くなっている。
だがピークを過ぎて30年とはいえ、そこはやはり温泉地。クリスマス旅行に来たカップルや、商店街で遊ぶ女子高生たち、ケーキを持って家路を急ぐサラリーマン等でごった返している。
「先生はまだ街に来てなかったはずじゃ……」
僕の視点では、亜久里先生が養護教諭として赴任してきたのは高2の春だ。まだ西都の町にはメイドカフェはないし、怪しい白人男性が営むケーキ屋もない。
付け加えるなら、僕の母が失踪したのは高1の秋、このクリスマスはその直後にあたる。
過去の世界……。この町には和菓子の無限堂はあるのだろうか。
堕落したバクに支配された団地は。バブルの徒花のような旅館は。吸血鬼の城は――。
「私は町に来てるよ」
先生はアーケードの中を歩きだす。
「前に言ったと思うけど、私はネットワーク上の情報を分析して、西都の町に滅びの予言があることを見つけた」
――西都の町から、世界が崩れる。
確かそんな予言だった。だが先生の本来の目的はそれではない。
先生は橘姫を追っていたのだ。橘姫が西都に現れると踏んで、この町に来たわけだ。
「私はこの町に重奏の余波を見つけた。この頃はメイドカフェを建てるために土地を探してた頃だよ。タウン誌に求人広告なんかも出してた」
「オープンは5月の下旬だったでしょう?」
「女の子の研修に3ヶ月かけたからね」
なんという本気度。というかメイドカフェのメイドさんってそこまで長期の研修が要るのか……。
西都にいるとなると、この時代の先生が狙われるのだろうか。
「あ、昼中っち」
え、と顔を上げる。青白い肌にかなりの痩せ型、健康面が心配になるような女子が。
「黒架……」
「クリスマスだってのにゲーセンっすか? いいっすよ、相手になるっす」
この頃の黒架はまだ黒髪のウィッグをかぶって、カラコンを入れて赤い目を隠している。僕とはまだ付き合っておらず、ゲームセンターで格闘ゲームの対戦を付き合う仲だ。勝てたことはほとんどないが。
「黒架、今日は町に出るのは危ないかも知れない、アパートに戻っててくれ」
「ほえ?」
きょとんとしている。それはそうだろう。
「事情を説明してるヒマはないんだ、とにかく危険なんだ、できれば城へ」
言った直後にしまったと思った。この時期には西都の町に吸血鬼の城があるはずだが、当時の僕が知るわけはない。
「城……って」
「もー、昼中くんってば、まだ酔っ払ってるの?」
と、頭を小突かれる。見れば先生が腕を組んで体を密着させていた。
「お城に戻るのは私達でしょ、商店街のはずれのおっきなお城」
「え、いや、あの」
確かに西都の町には城がある。あまり意識しないが、中世のお城のような建物が三つ四つ。大人のお店の並びに。
黒架を見る。その表情を何といえばいいだろう。奥歯をぎしぎしと噛んで目を三角に吊り上げて、ガラスを近づけたらパリンと割れそうな迫力がある。
「……昼中っち、お酒飲んでるっすか。しかもそのメイドさん、どういう関係っすか」
「いや、違うんだ、その、あの」
「あら、あなたこの子の彼女さん?」
先生は微妙に声音を変えている。甘ったるいティラミスちゃんモードの声だ。
「かっ……彼女、では、ないっすけど」
彼女ではない。僕が黒架からの告白を受けたのはやはり5月下旬。半年後のことだ。
「大丈夫ですよー、私も恋人じゃないから」
「え、そうなんすか?」
「ええ」
先生は人差し指を口に当てて、秘密めかして片目をつぶる。
「雇われただけですから。クリスマスの間だけ、三泊四日で28万円」
考えうる限り最悪のこと言い出した。
どん。
黒架が地面を踏む。その足元でアーケードの敷石が割れ、電柱が揺れ、電線がぶわんぶわんとたわむ音を鳴らす。というか完全に吸血鬼としてのパワーが出てるけど……。
「不潔」
黒架は背中を向けて去ってしまう。その歩く先で通行人が無意識に左右に避けて、黒架は紅海を渡るモーゼのごとく。
と思ったらぴたりと足を止めぐるりと振り返って大股で歩いてきて僕が身構える前に平手が飛んできてクレーンで吊った鉄球がぶつかるような衝撃。
「ほぶっ!?」
「大不潔」
そして今度こそ立ち去ってしまった。
「すごい平手……鍛えてなかったら首が飛んでたんじゃないの」
「せ、先生……」
「まあごまかせたからいいじゃない。巻き込みたくないんでしょ」
基本的にここは過去ではなく重奏、未来には影響しないと思われる。
だが、それにしても言い抜けがひどすぎる。この世界の僕がどこかにいるとして、将来ちゃんと黒架と付き合えるのだろうか。姫騎士さんと出会えるのか……。
「そうだ、姫騎士さんもいるんでしょうか……」
高校1年の頃は姫騎士さんと違うクラスだった。だが剣道部に天才がいること。その美しさと優秀さ、あだ名が姫騎士さんであることなどは伝わっていた。この時期の僕は厭世観にとらわれていて、そんな話も右から左だったが。
「姫騎士さんはとりあえずどうでもいいよ。橘姫が何を狙っているのか突き止めないと」
確かに、まだ姫騎士さんは不思議な力に目覚めてないかも知れない。そうなればただの一般人だ。
橘姫は何を狙う気なのだろう。やはり町に来ている過去の先生だろうか。
「先生、この日の正確なスケジュールって覚えてます?」
「端末が記憶してるはず、呼び出してみよう」
先生は箱型端末を両手でいじる。キーボードを叩くだとか、音声を吹き込むわけではない、外見はいじってるとしか表現できないが、箱内部ではスケジュール表らしきものが現れる。
「この日は西都のホテルに泊まってた。午前中は建設業者との打ち合わせに出かけて、午後は街をぶらついてたみたいだ」
「桜姫は連れてたんですか?」
「連れてない。というより、桜姫が生まれるのは……」
「もしもし、そちらのお二人」
僕たちを呼び止める声。
僕は瞬時に振り向く。聞き違えるはずがない、この声は。
「――姫騎士さん」




