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姫騎士さんは眠りたい  作者: MUMU
第九章 静止した夜と姫騎士さん
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第七十四話 【十理遺されし白墨の街】1



今回のそりは前にも後ろにも、上にも下にも進まなかった。


ただ、方向性のない加速度だけが全身にかかる感覚。景色は万華鏡のような虹色になって、内臓の位置が入れ替わるような不快感。それが数秒。


「ぐっ……」


全身に力を入れて耐える。そして視界が開けるような一瞬。橇が前方にがくんと傾き、雪に覆われた斜面を滑り始める。


「えっ!?」


屋根だ。雪の積もった屋根。反応する間もなく数メートルの滑走を終え、ひさしから空中に投げ出される。


どぼおっ、と分厚い雪に突っ込む瞬間。先生の体を抱えて脇に飛ぶ。我ながら素晴らしい体術。筋トレの賜物だ、たぶん。


だが大差はなかった。左半身が雪に沈み込んですごく冷たい。まあ橇のまま突っ込むよりはマシだろうか。


「あいててて……うわ、冷た……」


なんという積雪量。屋根しか見えないならかるく3メートルはある。まばらに屋根が露出しているから住宅街だと分かるが、町並みが丸ごと雪に埋まってしまっている。何となくポスト・アポカリプスな眺め。


「雪国か……すごく降ってるな」

「ここは新潟の豪雪地帯。私の生まれた町だね……」


先生はヒールの高い靴で器用に雪の上に立つ。いや違う。ヒールの底面に金属製の小さな船のようなものが装着されている。あれはスノーシューだろうか。いつの間に。


「桜姫、広域探索」

「たんさく!」


雪ははらはらと降り落ちている。日本は世界有数の豪雪地帯というのは知っているが、あらためて見ると壮大な眺めだ。屋根の頭頂だけを出している家々は、頭だけを出して眠っている巨人のようだ。


先生は箱型端末を取り出し、そこに同心円状のレーダー画面が浮かぶ。


「人間がいないね……小動物も鳥もいない。やはりここは本当の過去じゃない。重奏アンサンブルの一種だ」

「ここに橘姫が?」

「私の家に行こう」


僕の問いかけが聞こえているのかいないのか、先生は雪の上を歩き出す。僕もなるべく片足に体重をかけすぎないように歩く。この雪はかなり柔らかい、上で立ち回るなら注意が必要だな……。


しかしこの眺め……道路まで完全に雪に埋まった眺め、これはさすがに不自然だ。いくら雪国でも、これでは家に空気が取り込めない。


現実の眺めとは少しズレている。ではこの重奏アンサンブルを作り出している主観とは誰の……。


「あそこだ」


二階建ての家だ。町並みの中でその建物だけ二階部分が露出している。この街に二階屋がこれ一つということはないだろう。やはり現実とは違うのか。


その二階屋の屋根にも分厚く雪が積もっており、それがどさりと落ちる。そのため二階部分の周囲がすこし階段状になっていた。


明かりが見える。あそこが先生の家らしいけど、ここが過去ということは……。


「私がいるね……5歳ぐらいの頃の私だ」


先生はおもむろに覗き込む。僕も少しためらったものの後に続いた。


そこにいたのは黒水晶のような少女。


艶やかな黒髪は床に流れるほど長く、大きな瞳はやはり黒。つまんだ画鋲で床にがりがりと文字を刻んでいる。シャツはぼろぼろにすり切れて、周囲にがらくたが積みあがっている。

そこには強い理性の光がある。凄まじい集中力で、脇目も振らず文字を刻み続ける。


「……先生、あの子ってもしかして」

「気にしなくていいよ。昔のことは何とも思ってないんだ」


少女はこちらには気づいていないようだ。というより、向こうからは僕たちが見えないような気がする。ここは過去ではあるけど、一方的に眺めるだけの世界なのか。


「私は部屋の外に出られなかった」


先生は言う。


「赤ん坊の頃に大きな病気をして、外では生きていけないと言われた。でも私は、その言葉が嘘だと分かっていた」

「え……」

「0歳の頃からの一貫した記憶があったからね。入院したこともないし手術を受けたこともない。体に手術痕もなかった。父はどこかに蒸発していたし、母には年下の恋人がいた。母は私の存在を知られたくなかったようだ。2階は物置だから上がらないで欲しいと恋人に告げ、恋人が来る日には階段に荷物をいっぱいに置いていた」


物悲しいという印象ではない。他人のことを話すように淡々と語る。


「別に母のことは恨んでない。母には母の人生があるのだから好きにすればいいと思っていた。食事も寝るところもある。何より思索ができた。それだけで十分だったよ。幼稚園は私に向かないと分かってたからね」


やがて少女は立ち上がると、窓辺に立って雪の世界をじっと眺める。僕たち三人を透かして、その向こうの景色を。


息を吹きかけ、指で文字を刻む。それは数式のようだが何か違う。見たことのない記号が山ほど出てくる。


「これは……」

「漸化式だよ。こっちのは応力計算。構造材の耐久値は適当にあてはめた。これらの式は独特すぎて、私にももう分からない」


先生が天才児だったのは理解できるが、その芽生えはこんな閉ざされた二階から始まっていたのか。自分でゼロから「数学」を作り、妄想の中で計算していたのか。


「人間のピークというのは胎児期なんだ」


曇り窓に刻まれる奇妙な数字、先生はそれを眺めながら言う。


「私は何となく分かっていた。このひらめきの世界は今だけのものだと。数年も経てば私は私の考えていたことが理解できなくなる。私には今、この時しかないと考えていた。窓の外に無限の王国を夢想して、頭の中で建物を組み上げていた。あらゆる文化をゼロから想像し、新しい技術でビルを建てていった」


背後が。


振り返ると景色が一変している。四角柱がねじれたような斬新なビルディング。


傾いたもの、穴だらけなもの、ねじれているもの、雪雲を二つに裂くほど高いもの。


複数のビルの中で球体が浮いていた。崩れる直前のだるま落としのように階層がズレていた。樹木が枝を伸ばすようにビルが枝を伸ばしていた。


どれ一つとっても現実とは思えない。

しかしどことなく機能美が感じられる。あのビル群は力学的にきっちり成立しているように思えた。


十理遺とりのこされし白墨はくぼくまち


口をついて言葉が出た。先生がこちらを見る。


「何それ?」

「この場所の名前です。いま心に浮かびました」

「ふうん」


まだ姫騎士さんの真似だが、わかる。これが世界に名前をつけるという感覚。

僕の直感が世界に仮の名前を与え、僕はその名前に従って世界を認識しようとする。その中で世界は安定化していく。いまは一つ一つのビルがくっきり見える。美しいもの、絶妙なバランスで成立しているもの、見るものに不安を与えるような危ういもの。


先生は二階家から離れ、雪の上を歩きだす。アーチ状のビルの下をくぐり、巨大なリングがはまっているビルを眺める。


「私には、私を理解してくれる人が必要だった。私に潤沢な思考成果物、つまり既存の書籍と情報を与えてくれる環境が必要だった」


以前に聞いたことがある。先生はどこかの大学で、選りすぐりの研究者を集めた国家的なプロジェクトに参加していたという。その才能はこの後に見出されるのだろうか。


「だから無線を作ったのさ。階段に積まれたがらくたから材料を集めてね」


がらくたから……先生ならそのぐらいやるだろうか。


そしてこの環境から脱出したというわけか。先生はいろいろ並外れた人だけど、あの環境からよく今の状態まで……。


「ひるなか」


ぐいぐい、と裾を引かれた、桜姫だ。


「どうしたんだ?」

「たちばな」


はっと、先生が振り向く。


「橘姫か! 広域レーダーを展開!」


周囲には冷気の霧が立ち込めている。僕らの頭上に光輪が浮かび、赤い輝点が示される。


それは高速でこちらに向かっている。来るか、橘姫。


「きた!」


桜姫が駆け出す。その真上から矢のような影。衝突と金属音、何かが激しく触れ合う音と雪の下で建物が崩壊する音。


現れる。


雪原に立つその姿はやはりメイド服。橘姫だ。


「ノーグッド、ユーたちまでこんなところに来ましたか」

「橘姫! 何のつもりだ! なぜこんな時代に逃げてきた!」


先生が激しく言う前で、橘姫は肩をすくめる仕草をする。


つまらないボーリン、そんなことは自明のはず。私はアルティメイトな技術テクニカルが欲しい」


究極の技術だと? ここは僕のいた時代より十数年前のはず。そんな技術が。


――いや、違う、あのビル群か。


「あのビル群は私の妄想が重奏アンサンブル化したもの……あの中から技術を拾うというのか」

「すでにピックアップしている。あのビルは形状だけでアンビリーバブルなテクニック。だが問題はそんなことではない」

「……」


先生は歯がゆい気配をにじませる。何か思い当たることがあるのか。


「あのビル群のインサイド。私のエレガンテなセンサーが見つけたのです。究極の技術が」

「桜姫! 攻撃を!」

「まっぷた!」


いつの間にか桜姫が両手剣を握っている。彼女の身長より大きい大剣。メイド服の背面からジェットノズルが突き出し、爆発的な噴射とともに橘姫をかすめる。


「うわっ!?」


雪が舞い上がる。高速で吹きつける雪風に踏ん張って耐える。


あの二人はジェット噴射による高速機動を戦いの核としている。二人が斬り結ぶと、その余波で大量の雪が巻き上げられる。


「先生! ここにいて!」


大丈夫、できるはず。


僕は雪から露出している屋根に行き、その材木の一部を掴む、背後に背負うのは巨人、あらゆる暴威ですべてを支配する概念。


指先が屋根に食い込み。構造体の隅々に根を張るようなイメージを。この木材から繋がるすべてを力の支配下に。


屋根を剥がす・・・・・・


「うおっ……」


先生の驚愕の声が聞こえる。大丈夫だ、イメージのままに力を振るえている。人間を超えるほどの力。今の僕の腕は太さ1メートル以上。大型トラックすら持ち上げる。


そして体をひねり、勢いを腕に伝えて――投げる。


「ノウ……!?」


回転しながら飛ぶ屋根、およそ見たことのない光景だろう。回避が遅れた橘姫にぶち当たり、その体を弾き飛ばすところへ、桜姫が。


「たてぎり!」


回転からの縦斬り、橘姫を雪に突っ込ませる。


「桜姫! あれを使え!」


先生の指示が飛ぶ。桜姫はジェットをコンマ数秒ふかして数十メートル上方へ。宙に浮いたままで腕を後方に引く。

すると腕の質感が変わる。体内から染み出すような青い金属が腕を覆い、その腕の表面を放電が走る。


背後のビル群が歪む。

桜姫を中心に空間が捻じ曲げられる眺め。次の瞬間、手首から先が離断、拳が真っ赤に光りつつ加速。って、この技は!


「えぐぜく!」


空中で水平に広がる白いリング。形成された一瞬後に衝撃波の波が襲う。


降下しながら加速する拳、音速を一瞬で超え、地面に突き刺さると同時に大噴火のような水蒸気が上がる。


あれはエグゼキューション・コメットパンチ。電磁波を拳の中で循環させ、超高熱と超加速を得るパンチ。


「ジャスティスマスクの技……桜姫が」

「桜姫は前回の戦いのデータを吸収してる。あのジャスティスマスクの技も安全な範囲で再現できてるよ」


いや安全な範囲って、1トン爆弾なみの爆発が。


僕がそう言いかける時、雪原のあちこちで小爆発が。


中から飛び出してくるのはメイド服の女性。橘姫。


「なっ……分身した!? い、いや、本体は一人だけか?」

「つかまえ!」


桜姫がジェットをふかす。背中からの大噴気、そして手足から、脚部からジェットの火を放ち、空間の一点で自分を固定する。そして背負ったジェットはどんどん大きくなっていく。


「桜姫、追うんだ!」

「ん!」


答えとともに急激な加速。体を弓なりに反らしつつ、空中で立て直してビル群へと向かう。


「桜姫……」


橘姫と桜姫、二人の進化はどんどんと高みに近づいている。



果たしてこの戦い、あの二人に決着をつけるものになるのか……。

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