第七十一話
時の流れを想う。
日々は何事もなく過ぎてゆき、季節はゆっくりと移り変わり、学生は学びに浴し、社会人は労働に汗を流し、西都を訪れる観光客は湯に火照った顔で笑いあう。
いくつもの朝、矢のように軽やかに、あるいは鋼鉄の扉が開くように重々しく、何度も確実に訪れる。
一日が終わり、次の日が来る。
それはこの星での最大の自然現象のはずなのに、誰もそれを意識しない。
世界は今日にも終わるかもしれない。
まったく違うものに変わるかもしれない。
あるいはそんな変化は何度も起きているのだろうか。誰も気づかぬままに世界は変わり続けるのか。
その分岐点に立った時の気構えはあるか。
今この時がその分岐点でないと、いったい誰が言えるのか……。
※
九月も下旬。山あいの西都は少し肌寒くなってくる。
吹き下ろす山風は木の葉を薙ぎ散らし、氷売りの屋台が暖かい甘味を扱いだす。まだ本格的な秋というほどではないが、季節感を少しずつ前倒しにするのが温泉街というものだ。
夏休みが明けてから、大きな事件は起きていない。
細かなことはある。幽霊騒ぎだとか泥棒騒ぎだとか。僕と黒架がそれに関わることもあった。
重奏が関与した事件もあったが、大した規模ではなかった。姫騎士さんの力を借りるまでもなく解決する。
重奏の存在は何となく知覚できるようになってきた。いつぞや、亜久里先生は人の情念が渦巻くところにあると言っていたが、それを頼りに見当をつけ、黒架が結界破りの術で見つけ出す。
事件の当事者は誰も認識できないが、僕たちは重奏を通して事件の本質に接近し、これを解決する。そんなことが何度か繰り返された。
そんなある日のこと、僕は商店街に来ていた。
10月になれば黒架と百浜行きの予定があるのだ。少しは身だしなみにも力を入れたい。
「うーん……ちょっと高いけどこっちのジャケット……。いや帽子だけにしようかな。靴も買わないとだし……」
だが、いざ服を買うとなるとうまく決められない。30分ほど悩んだが、結局決まらずに店を出てしまった。
いっそバスで浮葉モールまで行こうかな。黒架と映画を見に行って以来だ。あそこのフードコートで牛丼が食べたい気分もあるし。
ん?
この音楽は。
ジングルベルの曲だ。しゃんしゃんという鈴の音を混ぜつつ響いている。
この近くに玩具店もあったけど、さすがに9月からクリスマスモードは早くないかな。
その店の前を通りかかる。
早稲玩具店。ここも子供の頃には何度か来たお店だ。
母に連れられて買い物に出た時など、和菓子の無限堂でくずもちを買って、玩具店を覗いて帰るのが定番だった。まだ両親が同居していた頃の懐かしい記憶だ。僕は何となく立ち入り、古びたおもちゃが店の隅にあるのを見て、旧友を見かけたときのように穏やかな気持ちになる。
奥にメイドさんがいた。
「あ、せん……」
外では先生と呼ばない方がいいのかなと思い、源氏名を思い出そうとする。
「ティラミスさん、買い物ですか」
「おや昼中くん。外では先生でいいよ」
くだけた口調で返される。そうだった、どうやら先生がメイドとして振る舞うのは「はんど☆メイド」の店内。それも一階の店舗スペースだけらしい。
「じゃあメイド服でうろうろしない方がいいんじゃ……」
「これは宣伝活動。メイド喫茶を町に定着させるために必要なことなの」
確かに歴史の長い温泉町でメイド喫茶というのもすごい取り合わせだ。特に噂は聞かないけど、町内会と摩擦が起きてもおかしくない。
しかし先生の一分の隙もないメイド姿を見ていると、コスプレではなくそういう人種なのだと認識させられる。この人はメイドであり、現代日本には日常にメイドがいるのだという常識が植え付けられるような。
まあ単に脚を見せたいだけかも知れない。パニエの入っているスカートはごく短く、浅い角度で広がっている。街を歩くと外国人がついて回るシロモノだ。
「かいじゅ!」
桜姫もいた。試遊品のブロックで怪獣を作っている。
「桜姫に何か買ってあげるんですか?」
「んー? そういうわけじゃないよ。インスピレーションを得ようとしてるの」
先生は次から次へと箱を取って、すべての面を確認する。
「発明品のですか?」
「そう、発明って技術だけじゃないからね、発想も大事。日本のおもちゃはアイデアが詰まってて面白いよ」
そういえば先生って海外の大学にいたんだっけ。その辺のことはあまり聞いてない。
「ところで昼中くんも何か買うの?」
「いえ、なんかジングルベルの曲が聞こえたんで、もうクリスマスの飾り付けしてるのかと思って覗いただけです」
「? そんなの聞こえなかったよ。それに9月はさすがに早すぎるでしょ」
あれ、と思って店内を見渡す。ハロウィンのパーティグッズが少しあるぐらいで、クリスマスの要素はまったくない。
というか店内にBGMは流れていない。ゲーム機のコーナーで宣伝用PVが垂れ流しになってるぐらいだ。
「気のせいかな……」
「おひめさ!」
桜姫はドレスを着たフィギュアの箱を持っていた。お姫様と言いたいらしい。
「桜姫、それ欲しいのか?」
「しぬほど!」
「そんなにか」
先生の方を見る。まだおもちゃの観察を続けている。
「先生、買ってあげたらどうです?」
「んー? 必要ないよ。桜姫はロボットだよ」
数秒、空白の時間が流れる。
常識的な、当たり前のことのように言われたので、少し混乱が起きる。
「桜姫って先生の子供みたいなものかと思ってましたが……」
「違うよ。桜姫はロボット。あとは私の助手とかボディガードかな」
「じゃあ、プレゼントとかあげたこと無いんですか?」
「え、どうして……?」
疑問のこもった目で振り返る先生。僕をからかっているわけではない、本当に意味がわからないという目だ。
認知の混乱がある。先生は割と常識人で、時に僕を諭すようなことを言ったこともあるけど、そんな先生と僕の間に常識の隔たりがあるのだろうか。それとも僕のほうがおかしいのか?
「その……桜姫は情緒を育ててるんでしょう? じゃあ普通の人間が経験するようなイベントを与えたほうが良くないですか。親からプレゼントをもらうとか。子供っぽいおもちゃで遊ぶとか」
「桜姫は自己学習を繰り返してる。戦闘を見たことがあるでしょ。リアルタイムの物理演算と姿勢制御はスパコンでも勝てないよ。ちゃんと成長してる」
「知識とかは?」
「知識? 内蔵メモリに蓄えておく情報という意味? 必要ないと言うかメモリの無駄遣いだよ。何か知りたい情報があれば検索すればいい。桜姫はエベレストの山頂でもネットワークにアクセスできる。例のハッカー騒ぎからセキュリティも強化した。中央演算系はスタンドアローンを維持しつつネットの情報を取り出せる」
「……」
どうも話が噛み合わない。
もしかして、先生は桜姫をただの戦闘機械としか見てないのか? あのメイド……橘姫を倒すための兵器だと。
だから愛情も要らない。思い出も要らない。家族でもないと……。
まさか、そんなことは。
「さてそろそろ帰ろうかな、桜姫、おいで」
「きたく!」
桜姫はとてとてと歩いてきて、先生と手を繋いで店を出ていく。
……そういう仕草はごく自然だ。
ちょっと先生の外見が若すぎるので親子には見えないが、年の離れた姉妹には見える。家族のように見えるのに。
……ん?
あれ、また聞こえる。かすかにジングルベルの音が。
「先生」
「今度は私も聞こえた」
先生は銀色の板を取り出す。それは変形して半透明の箱となり、箱の内側に図形が浮かぶ。
「音が存在しない。可聴領域のすべてで楽曲のそれが見つからない。桜姫、何か音楽が聞こえる?」
「くえっと!」
「聞こえないのね、なんでイタリア語で言ったの?」
桜姫には聞こえないのか。
だが僕には聞こえている。かすかに、細くたなびく煙草の煙のように届くジングルベル。
「どういうことでしょう?」
「脳内に直接響いてる……こんな表現はあまり使いたくないなあ。あえて言うなら条件反射に近いのかも」
「条件反射?」
「例えば町が完全にクリスマスモードになってる時期だと、何も鳴ってないのにジングルベルの曲が聞こえるような気がする。そんな状態になってるのかも知れない。我々の肉体が、今がクリスマスだと認識している……」
「脳内ハッキングでしょうか。クリスマスだという認識を電波で脳に流し込んでる?」
「電波で脳をクラックするなんて無理でしょ……そうだなあ、ナノサイズ分子を空気に混ぜて、鼻梁血管から流し込んで脳に影響を与えるとか、何らかの図形パターンによって脳内に虚構の認知を生む、あるいは後催眠のようなもの……」
先生はあまりSF的表現を使いたくないらしいが、そのせいで余計に意味不明になってる。
まあ要するに。
「局所的にクリスマスを生み出す怪異ですね」
「うぐぐぐ、そのトンデモな言い方すっごくイヤ……」
先生は歯ぎしりをして箱型端末を操作。
「重奏概念を探索……ううん、見つからない」
「無いんですか?」
「姫騎士さんのようにはいかない。重奏は確実に見つけられるものじゃないんだ。私は重奏が通常空間と触れ合う時のノイズをもとに探索してる。古くからあったり精度が高かったりすると見つけられない」
なるほど。つまり仮に重奏があるとすると、かなり完成度の高いものの可能性が高い……。
「あっち!」
え?
桜姫が両手を上げて走っていく。通行人はメイド服を着た少女を見てほほえましい顔。外国人はカメラを向ける。
「追いかけよう」
先生は後を追う。桜姫は普通に走っているだけなのでそこまで早くない。商店街の中ほどを右に折れ、足湯の脇を抜け、観光案内所と駐車場の脇を抜けてしばらく進む。
「先生、もしかして桜姫はジングルベルの歌を知らないんじゃないですか?」
「え? まあ、学習させた覚えはないし、楽曲のデータなんか保持しとく意味もないし」
「だからですよ。桜姫はジングルベルの歌を知らない。だから体がクリスマスになってても聞こえてないんです」
「体がクリスマスになるって何……」
つまり、桜姫もしっかりと影響を受けている。このクリスマス化現象とでも言うべきものに。
けっこうな距離を走るけど、このところ走り込みをしてるので体力は十分ある。先生も余裕でついていく。あの脚線美を得るためにはかなりスポーティな日々を送っているのだろう。
やがてたどり着くのは、ゴミ捨て場だ。
西都にあるゴミ集積所、観光地であるため焼却炉の煙突は虹色に塗られ、敷地の塀には江戸時代の西都の町並みが描かれている。何年か前に西都の中学生が卒業制作で描いたものだ。
有料でゴミを持ち込むこともできるが、今日は休みらしい。休業の張り紙が正門に出ている。
桜姫は当然のごとく張り紙を無視し、2メートルほど跳躍して塀を飛び越える。
「でも、じゃあ桜姫は何に反応してるの? クリスマスの知識なんて保持してないはず」
「重奏それ自体に反応してるとか……とにかく追いましょう」
僕が先に塀によじのぼり、先生を引き上げて敷地内へ。
内部にはトラックが何台か。そしていったん山積みにされ、休日明けに焼却処理されることを待つだけのゴミの山、が……。
人がいる。
ゴミの山を寝床にして倒れているのだ。
ふとっちょで、見事な白髭をたくわえた老人。真っ赤な服を着て、同じく赤の三角帽子。
近くには木製の橇もある。
老人は意識がないが、胸はわずかに上下している。桜姫はまず心拍と呼吸を確認したようだ。
「おねむ!」
寝てるだけか。しかし、この人物は。
「まさか……」
僕はわななく。どんな怪物でも、失われた美術品でも存在する重奏であっても、さすがにその人物に出会うとは思わなかった。世界で最も有名な老人。
「昼中くん、この人って」
「ええ、そうですね」
僕はごくりと息を呑み、恐ろしく巨大なものに触れるかのように、その人物の名を呼んだ。
「あわてんぼうのサンタクロース!」
「9月はあわてすぎてない……?」




