第七話 【酔い闇貪爛の花の籠】
西都の町にも歓楽街はある。それは温泉が大きな娯楽であり、浮世の憂さを忘れるべき桃源郷だった時代から続く花街の賑わい。それは栄枯盛衰を繰り返し、数え切れないほどの看板と人間が入れ替わりながら続いてきた。
何しろ西都の町は歴史だけは古い。風土記に温泉の名が出てくるのは8世紀ごろ。江戸時代には街道の宿場町として栄え、歴史上の人物も数多く訪れている。美肌の湯だとかヘルシーな名産品だとかで、知名度はそれなりに高いだろう。
黄金期と比べれば客足はだいぶ落ち着き、観光地からのんびりとした湯治場に推移しているとも言われるが、そんな町でも切っても切れないのが酒の香りと猥雑さ。街道筋から一本逸れれば古びた風俗案内所があり、スカートの短い女性がバッグを片手に練り歩く。
黒のワンピース姿の姫騎士さんも夜の気配をまとい、そこを闊歩している。僕もおっかなびっくりついていく。
「姫騎士さん、アテはあるのか……?」
地元なので大して怖くはない。土産物屋の店主も、ゴミを出している飲み屋のボーイもよく見る顔だ。
そして短い。10分も歩けば盛り場を抜けてしまうのだ。
「おかしいですね。吸血鬼さんが襲ってきません」
「襲われたら世界的ニュースだと思うが」
僕という連れがいなかったらナンパぐらいはされてただろうか。姫騎士さんはくるりと反転して、いま歩いてきた盛り場のほうを見る。静かに佇む西都の遠景、そこを東西に横切る20店ほどの大人の社交場だ。だがもちろん、そこに妖怪だとか怪物が潜んでいる気配はない。そこまで深淵な世界ではない。
まだ夕方であり、それなりに人も出ている。足湯を楽しむ観光客の女性連れ、角打ちの店頭でだべるお年寄りたち。ゲームセンターの電子音も遠く響く。そういえば黒架は今日も遊びに来てるのだろうか。
「おかしいです」
姫騎士さんが繰り返す。腕を軽く組んで、夜風にドレスの裾がなびく。
「な、なにが?」
「夜の町と言えばギャングの抗争ですとか、荷物を受け渡すスパイですとか、妖怪と戦うお坊さんとかがいるものでしょう?」
「……そ、そうかな」
「もう一度歩いてみましょう」
姫騎士さんはやや大股で歩き出す。背筋は定規を当てたように伸びており、ドレスからのぞくくるぶしの白さが目を引く。肩で風を切るとはこのことか。無限に見てられそうな立ち姿だ。だけど目立ちすぎて人目が怖い。
「この歓楽街も……もっとお店が多いはずです。この規模だと深いところに何か隠れてる気がしません」
「そんなこと言われても」
バブル時代には百店以上あったとも聞くけど、それは輝かしき昔の話だ。
歓楽街の端まで歩ききった姫騎士さんは、またきびすを返す。
「もう一度です」
「……」
不思議な感覚だ。
明らかにおかしな行為なのに、姫騎士さんが行うと何かしらの必然性を感じる。その一歩は重要な儀式の所作であり、語る言葉は呪文のよう。何かが起こらないことの方が信じられない。
とにかく僕に止める権利はないし、そのつもりもない、何度でも付き合おう。
三度目、四度目ともなるとさすがに奇妙な目を向ける人もいるだろうか。だが街角に立つ人も入れ替わっているのか、注目されてる様子はない。
何度も歩くと町の細部がくっきり見えてくる気がする。さっきまで気づかなかった赤ちょうちんだとか、風俗店のピンク色の看板とか、一部が点滅しているネオンサインだとか。
「もう一度」
何度も繰り返す。不思議なことに歩くたびに町の印象が変わる。それが夜の町の玄妙さというものか。看板の集合体は見るたびに店名が変わる気がして、町を歩く女性はよりスリットがきわどくなり、体のラインがぴしりと浮き出るような色気を出し始め。そしてスパンコールのきらめきが目の端をよぎる。
七色のネオンが、立て看板の料理の写真が、電話ボックスを埋め尽くす広告のシールが、そしてそびえたつ七色の巨塔、が。
「――え」
それは、あらゆる種類の電飾に覆われた立方体。
古い看板の上に看板を増設したようなパッチワークの眺めか。数え切れないほどの看板とネオンがビルを埋め尽くしている。とてつもない色彩の洪水。1キロ先からでも見えそうだ。
それはいわゆる風俗ビルに見える。しかし異様な大きさだ。町のひと区画を使い切るほどもあり、看板の下からのぞく窓にもあかあかと灯がともっている。
それは輝く何かを大量の鎖で封じたようにも見えた。深淵なる夜の秘密を、夜を焦がすかがり火を封じているかのようだ。
「何だこれ……こんなビルが西都にあるはずが」
「入りましょう」
姫騎士さんはずかずかと入っていく。僕も慌てて後を追う。
入った瞬間、五感が上方に拡張されるような感覚。
吹き抜けのせいだ。内部はフローリング調の床に大理石風の円柱。中央部分がぽっかりと吹き抜けになっており、大きなスロープ状の道があって、その周囲を店舗が取り巻く構造である。
歴史ある喫茶店、格式のあるオーセンティック・バー、そして蜜色の気配を放つ大人のお店が。
スロープの手すりには植物のツタのようなものが垂れ下がっている。それははるか上空から降りてきているようだ。中央の吹き抜けから上を見れば、一体何階建てなのかもわからない。
「酔い闇貪爛の花の籠」
「え?」
「ここの名前です。そのように呼びましょう。ここは西都の歴史の集まりです。そこで働いていた人たち、かつて存在したお店、語られた言葉、お洒落な飾りや美しい人たち。そんなものが集まっているんです」
あちこちには造花が飾り付けられており、照明の薄暗い明りの中でほのかに咲く。これといった光源は見えないが、空間全体がぼんやりと明るい。
振り返ればやはり入り口は見えない。僕たちはどこから入ったのか、ここは何階なのか、あるいは入り口とか出口が存在するのかも分からない。
僕の時と同じだ。姫騎士さんは何らかの方法でこの空間を見つけ出した。そして名前を呼んだことで、それを確固たるものとして定着させた、そんな気がする。
スロープを上る。上るほどに店の外装が淫猥の色を帯びる。ほとんど下着のような服で手すりに腰掛ける女性。ぞくりとするような流し目を寄越す女性。ピンク色の看板と紫のスポットライト。どこからか聞こえる怪しげな音楽。
どれほど登っただろうか。疲労の感覚も曖昧な道のりの中で、ふと聞こえる電子音。
「ん……あれは、ゲームセンターか」
西都にあるゲームセンターによく似ている。いや、同じものに見える。なぜビルの中にあのお店が。
その奥、人影が見える。
すらりと高い上背、細い首筋は白磁器のように白い。
濃密なレースで飾られたナイトドレス。ヒールの高い黒の靴。
そして背中に流れる、眼にも鮮やかな黄金色の髪が。
「あの方に聞いてみましょう」
視線を姫騎士さんの方に戻す。
スロープの先、道の端にちょこんと座った占い師である。黒いヴェールのようなもので顔を隠しているが、かなり高齢の女性だ。小さなテーブルの上にはタロットカードが置かれている。
「占いごとかい」
顔を伏せたまま、意外によく響く声でそう言う。姫騎士さんは占い師の向かいに座った。
「吸血鬼さんを探してるんです」
「はっ、若いのに豪胆なこったね。ありゃあ夜を統べなさる貴族だよ。若い人間の血が大好物。いちど血を吸われりゃあ、身も心もぞっこんになっちまう、知ってんだろう?」
ややぶっきらぼうだが、淀みない語り方だ。まるで、本当に吸血鬼を知ってるかのような。
「それに、今はやめといた方がいいねえ。あの方たちも気が立ってんだよ」
「どうしてですか? おばあさま」
「ハンターが出たのさ」
老婆は左右を見て、スロープに誰もいないことを確認してから言う。
「この界隈で何人もやられてんだよ。もちろんハンターなんぞに貴族が負けるわきゃないがね。かのラインゼンケルンの家はどうも混乱してて、対処が遅れてんのさ」
ラインゼンケルン……何語なのかもよく分からないが、それが吸血鬼の家名? になるのだろうか。
「なぜ混乱してるのでしょう」
「さあね。まあ貴族様が出陣なされりゃ一瞬でカタがつく話さ。遅くとも数日のうちってとこだろうさ」
貴族様か……。確かにその伝説においては、ごく最初期から造形に貴族的な部分があるらしいが。
「吸血鬼に会ってどうすんだい。噛んでもらうつもりかね。お嬢さんなら御目に止まるかもねえ」
「いえ、どういう風に眠ってるのか聞こうと思ってるんです」
占い師はヴェールを後方に下ろし、枯れ井戸のように落ちくぼんだ目で姫騎士さんを見る。
「命を粗末にすんじゃないよ」
「はい」
からん。
と、足元に空き缶が転がる。
「!」
気づけば、西都の町の裏路地。意図せず生まれてしまった荷物の隙間のような、ごく狭い空間にいる。
目の前では厚手のジャンパーを羽織った女性がいた。まるまると脂肪のついた体に濃い目の化粧。薄紫に染めてパーマをあてた髪。
その足元には缶ビールが置かれ、ほろ酔いの赤ら顔のまま船を漕いでいる。
「もしもし、こんな場所で眠ると風邪をひきますよ」
「ん、ああ……」
女性は薄目を開けて、のっそりと立ち上がると、どこかの店の勝手口らしきドアを通って消えてしまった。
あのビルもどこにも見えない、見覚えのある西都の町があるだけだ。
「今のは……」
今、店の中に消えた女性。あの占い師と同じ顔に思えた。
この現象は何なのだろう。僕は何を見て、そして姫騎士さんには何が見えていたのだろう。
「タイミングが良くないようですね、日を改めましょう」
「ああ、そうだね……」
一つだけ、僕が確信すべきことがある。
あの現象は幻覚や絵空事ではない、ということだ。
あれは真実の一つの形。姫騎士さんというレンズを通して見る現実なのだ。
そして僕は、あの世界で見たことを心に留めておかねばならない。
「貴族、ラインゼンケルンの一族、ハンター……」
そして、あのゲームセンターの奥にいた女性。
この世のものではないかのような存在感。美しさ、立ちのぼる気配。
「もしかして……あれが吸血鬼?」
しかし、あの横顔。
どこかで見た、ような……。