第六十九話
「倒した……のかな?」
修羅はぼろ切れになった黒装束だけの姿で倒れている。もはや鎖はひとかけらも残ってない。
「固体相を奪う液体かあ、超臨界みたいなものかな。それとも原子間の引力を無効化する液体なのかな、興味深いなあ」
桜姫の姿をした先生は液体に夢中のようだ。サンプルを採取しようとしているが、あの水は持っていけないだろうな。
「う……」
修羅が起き上がる。その体から腐食した布が剥がれ落ちて裸体になる。精悍な青年の体だが、あらゆる古傷に覆われている。
しかし何てタフさなんだ、全身がマイナス百度以上に凍てついたはずなのに、気絶もせずすぐに立つとは。
「あなたは……」
姫騎士さんが正対する。
妖怪や怪物を討つことだけに執着する無敵の修羅、すべての武器を失っても油断はできない。
「私は、すべての存在を奪われた空の躯」
訥々と、独り言のようにつぶやく。
「私は大いなる龍から剥がれ落ちた一枚の鱗、私は西から東に届く大木から落ちた一枚の葉、私は万象を記述する辞書から落ちた文字のかけら、私は石塊の雛形、私は形なきものの断片、私は一度きりの虫のささやき」
何だか安定しない。何かを語るというより、何かを探しているような言葉だ。
ひとしきりつぶやいた後に、ふと姫騎士さんを見る。
「あなたは、眠らざる者か」
! なぜ、修羅がその言葉を。
「……わかりません」
姫騎士さんはためらいがちに答える。
「私は眠ったことがないだけです。これから眠るのかも知れません」
「あなたは起きながら夢を見るか」
「矛盾しています。夢とは眠っている間に見るもの」
「あなたの思索と現実は常に等しいか」
奇妙な会話だ、二人しか分からない符号をやり取りしているようでもあるし、機械のように一方通行な問いかけにも見える。
「わが身はとらわれの龍である」
語る前で、修羅の形象が崩れていく。肉は垂れ下がり、体毛はどろりと流れていく。
いや、違う、修羅の中に何かが。
人間がいる、少年のような、小柄な。
美しい顔立ち、染みひとつない白い肌、そしてかすかに笑うようなアルカイックな表情。
落下の感覚。
「うわっ……」
落ちていく、いや、落下ではなく世界が拡大している。僕たちは球体の中にいて、その球体は凄まじく大きい、天体に近いほどに。
「我が身はすべての物事の雛形である」
「我が夢は全ての詩情の最果てである」
「我が指先は滅びをしめす矛先である」
球体の内側はなにかの回路に思える。幾何学模様が走行している。円と直線、人影のようなシルエット、不可思議な文字、複層的に刻まれる文様。
もしかしてこれは曼荼羅だろうか。とてつもなく規模が大きい。もし人力で描けば果てしない年月がかかるほどの。
桜姫と僕は棒立ちである。
あるいは宙に浮いているのか、何も能動的な行動が取れない。この世界の名前が脳裏に浮かぶが、それは百万字でも足りないほど長く、とても意識できない。
「どうか、私を眠らせてくれ」
そしてすべてが溶け消えて。
吹き付ける風に気付く、僕たちは天守閣の屋根にいた。
「皆の者、無事であったか!」
屋根の上を走ってくる影がある、藤十郎さんだ。
「皆さん、目を閉じて」
姫騎士さんが言い、僕は命じられるままに目を閉じて。
「帰る時間です」
そして急に世界に音が増える。大勢の人の話し声と、行き交う足音だ。
目を開ければ、そこは富前霧街道。葉隠の国に比べればチープな江戸の街並み、行きかう着物姿のスタッフ、普通に観光客もいる。僕たちは団子屋の前に集まっている。
「はれ?」
黒架もいた。さすが姫騎士さん、重奏に散らばっていた僕たちを一瞬で集めたか。
「あ、姫騎士さん、戻ってきたということは解決したっすか?」
「はい、修羅は消えました。あとはあちらの世界に任せましょう」
「ねえ姫騎士さん」
亜久里先生の声だ、桜姫が割って入る。僕たちは全員で道の端に移動。
「姫騎士さん、あいつは何者だったんだろう、修羅じゃないよね」
「あの方は、おそらく神様です」
神様……。
ついに、その名前が出てしまったという感覚。やはり姫騎士さんの力はそこに行き着くのか。逃れがたい運命なのか。
しかし神と言ってもいろいろある、唯一神もあれば八百万もいる中の一人だったりもするだろう。
「正確に言えば神様と呼ばれる存在の力のかけら、大河の一滴のような、この世界に現れるための端末のようなものです。修羅という存在に植え付けられていました。その上で鎖で操られていたようです」
「ふーむ、つまり重奏の中の怪物を強化できるのか、それはやっかいな存在だね……」
……つまり、修羅という存在を強化していたのは、あの少年のような中身だったのか。
ではあの鎖は、武器や防具であると同時に神様を操る手綱でもあるのか。
誰がそんなことを、決まっている、あの魔法使いの女だ。
「黒架、そっちはどうだった、魔法使いの女と戦ってたんだろ」
「なかなか強かったっす。魔法使いというよりたぶん幻獣使い、高位の霊体を操るタイプの術者っすね。なんだか本気で戦う気がないみたいで、防戦一方だったっすよ」
そうか……。
「あいつは何だったんすかね」
「たぶん、修羅を使って姫騎士さんを捕獲しようとしてたんだ、でも失敗した」
実際、かなり危なかった、姫騎士さんに手傷を負わせるところまで行ったのだから。
「ともかく西都に戻ろう、人は戻ってるみたいだけど、バスは動いてるかな」
「おい」
と、現れるのは白髪の男。詰め襟のシャツとカーキ色のズボンという姿のソワレだ。
あ、やばい。
ソワレはつかつかと歩いてきて、いきなり僕をぶん殴る。
「あっ! 何するっすか!」
と、黒架が倒れた僕に駆け寄り、頭を抱えあげる。
「このガキ、うちの店で集団食中毒が出たと保健所に通報した!」
「えっ」
ごん、と僕の頭を落っことす。
「メッセージだよ、来てもらう必要があったから」
頭を押さえつつ立ち上がる。
ひねくれ者のこいつのことだ。普通に呼んだのでは来ない可能性がある。だから僕をぶん殴りたくなるような電話をかけた。まあ少し遅かったが。
「昼中! お前は私のことをひねくれ者だと思ってるだろ! お前のほうが大概ひどいからな!」
「それはそうかもっす」
黒架そこはかばって欲しい。
「まあ何でもいいじゃないか。ソワレ、車で来てるんだろ、みんなを送ってくれ」
「ええい、仕方ない、だが車は四人乗りだぞ」
姫騎士さん絡みだと割と要求が通る、ソワレに関するトリセツである。
ええと、となると乗るのはソワレと……。姫騎士さんと、黒架と僕と、桜姫か。
「桜姫は後部トランク……はかわいそうか」
「いいよ、桜姫は自分で帰れるから、じゃあまたね」
先生の声で言い、桜姫はとてとて走ってどこかへ行ってしまう。
「じゃあこれで4人っす、早く帰るっす」
「……? 吸血鬼の姫君、君も乗るのか?」
「はれ? 送ってくれるんすよね?」
「まあ、そうだが」
ソワレは少し小首を傾げつつ、霧街道の出口へ向けて歩き出す。
さて、どうやら今回の騒動も決着のようだ。
あと一件だけ、用件を片付ければ。
※
どこにでもあるような市民病院の四階。
何の変哲もないドアがある。ドアノブ側の隙間をよく見れば、側面に閂が見えている。
じゃかっ、とナイフが突き入れられる。太さ2センチの閂をあっさり斬り裂き、ドアを蹴り開けるのはソワレ。
灰色の装束に布を巻いて顔を隠した姿、こいつの戦闘スタイルだ。僕はその後に続く。
「いないな」
ここは西都病院の院長室。最近経営者が変わったと聞いていたが、その院長があの魔法使いだった。
だがいない。執務机の上には書類が散らばり、応接用の椅子には脱ぎ捨てられた服が散らばっている。なぜか下着の上下もある。
ソワレはその下着を手に取る。
「脱ぎ捨てられたばかりだ、我々の接近を察知して逃げたか」
着替える必要があったのだろうか。それとも魔女は裸がユニフォームとかそんなノリなのだろうか。
「なんで下着まで脱いだんだろう?」
「ありそうなのは人間形態以外に化けるという場合だ。高位の術師に稀にそういうのが居る。吸血鬼の姫が言うには幻獣使いとのことだったが、使役する幻獣が化学繊維を嫌う場合もある」
「単なる露出好きの可能性もあるのか?」
「ある。術師は精神が振り切ってるものだ。裸を晒すという背徳を魔力の根源にしているやつもいる」
うーむなるほど、奥が深い。
一例として推測すると、やつは急ぎ富前霧街道に来る必要があって、何か人間ではない姿に変身した。だから裸だった。
まあ説明はつくけど、単にケレンを利かせたかった、という方が正解かも知れない。
僕とソワレは西都に戻ると、すぐさま魔法使いを追跡した。
やはりと言うべきかソワレの情報網は鋭く、翌日には西都に渡った魔法使いの情報をもたらした。
名はミネギシ。
高位の幻獣使いとして知られているが、ここ数年はまったくの音信不通状態だった、死んだと思われていたらしい。
日系人なのかも不明、魔法使いとしての経歴も不明、実年齢は術師にはあまり意味を持たないらしいが、それも不明である。
やつは自宅やホテルなどは持たず、病院にある私室で寝泊まりしていたらしい。それでこうやって乗り込んだわけだが。
「失礼ね」
声がする。ソワレは腰に吊ったナイフを抜きかけたが、すぐに手を収めた。
話しているのは人形である。ねじった針金で編まれて、布切れで頭部と手足を作られた簡素な人形。
執務机の上にあったそれが、動きだして声を発している。
「人を露出狂みたいに」
「実際そうだろ。いくら身分がバレたくないからって、裸で僕の前に現れるのはイカれてる」
どこかで遠隔操作しているのか、あるいは僕たちを目視できる位置にいるのか、僕は窓に寄って周囲の建物に目を凝らす。
「しかも素性もすぐにバレてる」
「必要な措置を取っただけよ。あの場合は脱ぐ必然性があった。そしてバレたときの用意はすでに済ませていた」
「そんなことはどうでもいい」
ソワレが言い、針金人形のそばにナイフを突き立てる。
「ミネギシ、姫騎士どのから手を引け、手を出すなら西方の静謐なる炎で焼かれ続けることになる」
「あら怖いこと、何が怖いって、ロートルが不器用な脅しをかけてくることね」
「西方魔法協会を敵に回す気か」
「あなた達、姫騎士さんのことどれだけ知ってるって言うの?」
話をそらす気か。
もう説得など諦めて、見つけ出す方向で取り組んだほうがいい気もするが、ソワレはもうすこし会話する気のようだ。
「天の御座を継ぐもの」
ソワレはそのように表現する。
この世界には神がいて、それは眠りを欲している。
空白となる天の御座を埋めるため、姫騎士さんが選ばれる、と……。
「私の考えは違う」
針金人形はぎしぎしと音を立てつつ、椅子に座るポーズになる。別に椅子はない、どこかにいる本体の動きをトレースしてるように見えた。
「姫騎士さんがその器だとしても、代替わりなどするべきではない。世界は今の状態で安定している。私が捕獲しているあれも、あと千年は余裕で生き続けるでしょう」
「世継ぎをさせぬ気か」
「させてどうなるの。人生など生まれ落ちて死ぬまでの寸劇。人の寿命を超える範囲で世界を考えるなどそれこそ不遜。私は姫騎士さんを捕らえてその力を奪う。そして私自身の幸福のために「消費」する。不用意な代替わりなど危険そのもの。姫騎士さんは私が消費するべきなの、それが世界の安寧」
「お前ごときに何ができる」
「実際にできてる。修羅の中身は私の手にあり、姫騎士さんを捕らえる術式もある。それに、私に言わせればあなたたちは誤解している。姫騎士さんとは超越者ではなく」
ばきん、と針金人形が断ち切られる。ソワレは憤慨した様子で息を吐いた。
「魔法使い風情が吹き上がるものだ」
「ソワレ、やつは姫騎士さんと同格の何かを捕えてる」
あの少年、あれはまさに姫騎士さんと同格の存在。いや、力のひとかけらだけで同格だった。きっと想像もできない怪物だ。
やつが姫騎士さんを捕らえられるかはともかく、警戒はしなければならない。
「あの存在は危険だ、魔法使いがあいつの力を利用できるなら、姫騎士さんも危ない」
「つまり……「当代」を捕らえることに成功したと言うのか。とても信じられぬが、それだけ「当代」が弱まってるということか? それとも禁じられた術式に手を出したか、よほどの組織をバックにつけたか……。まあ警戒はしておこう」
ソワレが部屋を出ようとするので、僕はその背中に言う。
「僕はもう少し調べる」
「何もないと思うが、好きにしろ」
そしてソワレが去って。
僕は机の上にある針金のかけらをじっと見て。そっと手を伸ばす。人の形に組み直す。
「あら、チャンネルが繋がった」
針金が言う、一度斬られたためか、さっきより声が小さい。
「ミネギシ、お前に用がある」
「あら昼中くんね、何かしら」
「姫騎士さんを、それにさせない方法はあるのか」




