第六十八話 【極大深度骨喰蛇】
天守の屋根づたいに飛ぶ。
アニメの中の忍者は軽々とやっているが、かなり命がけの技だ。一呼吸ごとに全身全霊で集中し、一跳びごとに人間を超えるほどの脚力を絞り出す。
なぜ魔法使いが来たのかを考える。
あいつは明らかにイレギュラーな事態に襲われている。色々と言葉を駆使していたが、最初に裸で現れたことが証拠と考えていいだろう。
本来なら最初から最後まで姿を表すはずはなかった。だが何かしら予期せぬことが起き、姿を見せざるを得なかったのだ。
予期せぬこととは何だろう? あいつが姫騎士さんの捕獲を目指しているとして、その力を読み違えた? あるいは幽閉しておいたはずの黒架が脱出を果たした? それとも僕だろうか。
イレギュラーの正体を突き止める必要はない、要は三人の中の誰かなのだ。姫騎士さんに合流すればいいだけのことだ。
僕は跳躍する。飛び降りてきた勢いを維持したまま次の屋根に飛ぶ。よし、問題なく出来るようになってきた。
「ひるなか!」
声がする。上だ。
上空から雲を曵いて降りてくる影。メイド服を着た小柄な少女。
「えっ、桜姫!?」
地上15メートルで体を反転。スカートから一瞬の噴気。逆噴射を効かせてから瓦を粉砕しつつ着地する。桜姫は誰かを抱えて……。
「姫騎士さん!」
左肩のあたりから出血している。青地に白のだんだら模様、新選組の羽織の左半分が真っ赤に染まっている。
「昼中くん、聞こえる?」
え? 亜久里先生の声? 桜姫から聞こえる。
「先生、近くに来てるんですか?」
「いや、西都にいる。遠隔操作だよ。それはどうでもいい、修羅とかいう存在に姫騎士さんがやられた。銃弾を肩に受けたんだ」
姫騎士さんが……。彼女を傷つけられるほどの存在なのか。
「昼中くん、姫騎士さんって自分で傷を治したりできないの?」
「分かりません……少なくともそんな力を使ったのは見たことがない」
「そうか……あの修羅も傷ついてたけど、いつまた追ってくるか」
姫騎士さんは呼吸が荒い。苦痛を噛みしめるように歯を食いしばっている。その彼女が、か細い声を。
「亜久里先生、銃弾を取り除いてください」
脂汗を浮かべ、顔面が蒼白になっている。姫騎士さんのそんな様子は初めて見た。
「この銃弾は修羅の血が付着しています、それが悪さをしていて集中できないんです、銃弾さえ除けば何とかします」
「わかった、でも……」
桜姫の体を借りてる先生は、ためらいがちに言う。
「見たところ肩から腋の下あたりに食い込んでる。神経系が複雑に入り組んでる部分だ。桜姫なら手術は可能だけど……」
桜姫の指先が変形する。鋭利なメスに縫い針、ピンセットに血管鉗子、注射器も。
「局所麻酔でできる手術じゃない。全身麻酔が必要になる」
桜姫の機構は重奏を織り込んである。そのぐらいの変形や薬剤の合成は可能なのだろう。
麻酔、全身麻酔をやるのか……。
「姫騎士さん、念のため聞くけど全身麻酔を受けたことはないよね?」
「はい」
姫騎士さんは瓦の上にへたり込む。左肩の出血はどんどん広がっており、傍目にも危険なのは明らかだ。
考えてこなかったわけじゃない。姫騎士さんは全身麻酔で眠るのか否か。
直感で言えば眠らない。姫騎士さんが薬物でどうにかなるとは思えない。
ではどうなる。意識が混濁するぐらいは起きるのか、それとも注射した瞬間に薬を分解してしまうのか。
「大丈夫です、耐えられます。たとえ麻酔が効かなくても構わず続けてください」
「……分かった。開いてみないと分からないけど、なるべく神経系に触れずに、最速で終わらせる」
すると桜姫の目が青く光り、瓦の一部に照射される。姫騎士さんの肩にも。何らかの殺菌処理だろうか。
姫騎士さんは新選組の羽織を脱ぐ。姫騎士さんは右腕だけで羽織りの一部を丸め、口にくわえる。
「姫騎士さん、いったん重奏の外に出たっていいんだ、西都まで戻っても……」
「私は、覚悟が足りなかったのです」
姫騎士さんが唾液を吐きつつ言う。
「あの修羅には何かの仕掛けがあります。それが分からないから強く出られなかった。でも、それは間違いなのです。たとえ誰が何を仕掛けても、その企みごと塗り潰さなければ。この私が、昼中さんを守れる強さを、私が持たなければ」
「姫騎士さん……」
姫騎士さんは羽織を脱ぎ、その一部を口にくわえる。荒々しい息が漏れる。
「いくよ」
桜姫が注射を行う。どんな薬剤なのかは知らないが、点滴での全身麻酔の話なら何かで聞いたことがある。
半数以上の患者は点滴開始と同時に意識を失う。5秒持つのが更に半数、最大でも12秒でほぼ全員が眠るという。
10秒……15秒、姫騎士さんに変化はない。ただ脂汗を流して蒼白になっているだけだ。
「だめか……仕方ない、局所麻酔を同時にやったけど、痛みはまだある?」
「はい、変わっていません」
つまり、姫騎士さんは薬剤を無効化する。
本来なら傷の痛みのほうを何とかできるはず。それ以前に外科手術が必要なほどの怪我でも自力で何とかするはずだ。
治癒もできず麻酔も効かない、そして気絶もできない、なんという最悪な状況なんだ。
桜姫はメスを入れている。指先が変化した刃物で皮膚を裂き、筋肉をよけながら切り進む。
「う、う……」
想像を絶するほどの痛みだろう。
だけど、僕の足元を這い登ってくる、どうしようもない疑問が。
姫騎士さんに、気絶はあるのか。
死は。
あるに決まっている。眠らないこととは次元が違う。
だが、なぜだろう。
姫騎士さんが死んだり眠ったりすることそれ自体が、何か大きな矛盾をはらむような、感覚が……。
「! 広域レーダーに感知、やばい!」
ぴぴ、と電子音を立てて桜姫が振り向く。機械少女の瞳が遥か遠くを観測する。
「修羅だ! 見つかった!」
何だって――。
上空から黒い影。
修羅が15メートルほど離れて着地する。黒装束の上から全身を鎖に包んだ姿。いくつかの鎖は砕けている。
「先生、手術はあと何分?」
「まだ3分はかかる! この状態では移動もできない!」
3分か、本来なら数時間はかかる大手術だろうに、さすが亜久里先生。
そして3分はちょうどいい、全身の力を振り絞れる限界だろう。
「僕がやります、先生は手術を続けて」
刀を構える。
大丈夫、やれるはず。一度は鎖を砕いた相手だ。僕の刀は修羅に届く。
修羅が踏み込む。速い、クロスボウで打ち出されるような加速。
間合いが触れ合う刹那に血潮が散る。やつの貫き手を半身でかわして刀を上に。僕の胸が1センチほど斬られる。
乗せろ、全身の力を、怪物の力を示せ、這い回る巨人の腕を我が物としろ。
腕から肩、肩から背中、背中から五臓六腑すべて動員するような上段斬り、やつは寸毫でかわすが、いくつかの鎖を断ち切る。
距離を取らんとする瞬間に追いすがる。どんな斬撃を出すか考える間も惜しい、力を一気に放出しての横薙ぎ。
見える、やつの動きが。
数度の交錯。やつの手刀は僕の肉を削ぐけれど、動きの後に刀を叩き込める。その身を鎧う鎖はやっかいだが、すでにいくつも砕いている。
「……」
修羅が砕けた鎖を拾う。やつの手の中でそれは水銀の粘土のように変形し、一つの腕輪に。
「させない!」
足を振り上げ、やつの手から腕輪を蹴り飛ばす。けして腕輪は見ない、心を空としてその形状を、模様を意識にも入れない。
「よし……やはり見なければ影響はない。あの鎖は一つ一つが超常の芸術品、重奏に送り込む道具らしいが、もう通用しないぞ」
修羅は語らない。
だんだん分かってきた。あの鎖はおそらく魔法使いの女が用意したもの。
この世界にいた退魔の存在、修羅を鎖の力で強化し、手駒にしていたのか。それならば姫騎士さんが手傷を負うのも分かる。
つまり僕は、姫騎士さんが治るまでに少しでも鎖を砕くのみ!
修羅が防戦に回る。鎖を巻いた腕で僕の斬撃をいなしつつ左右に回り込もうとする。僕はぴたりと食らいつき、ひたすらに刀を振り下ろす。
いなそうとしても関係ない。僕の刀が次々と鎖を砕く。すでに10以上。
「よし、これが銃弾だ。姫騎士さん、すまないけど乱暴に引っこ抜くよ」
桜姫が摘出するのは、丸めた紙のような形状の鉛玉。取り出した瞬間、姫騎士さんが術野を手で押さえる。
「姫騎士さん、まだ縫合が」
「大丈夫です」
声が落ち着きを取り戻している。痛覚をどうにかできたのか。
そして世界が。
霧が立ち込める。いや、これは湯気か?
そして硫黄臭。西都の匂いとは違うが、温泉の匂いだ。
いつの間にか、ここは神社だ。開けた参拝路の真ん中に温泉があり、砲弾湖のように円形をしている。そこを満たすのは緑色の湯。
「神社……」
びしゅ、と液体が飛ぶ。温泉から一筋の湯が飛び、姫騎士さんの肩を直撃した。
そしてあろうことか、湯が流れ落ちたあとには傷跡がなかった。大量の出血はもちろん、傷そのものすら洗い流したかのように。袴にシャツだけという姿になって姫騎士さんは、ゆっくりと立ち上がる。
「これは……重奏だね、でも一体どんな世界に」
「この湯は神体そのもの」
姫騎士さんが言い、湯は修羅にも飛ぶ、修羅は一瞬、防ごうとしたが、何かに気づいて身をかわした。
僕の胸にも来る。一瞬だけむず痒いような感覚がして、やつの貫き手でつけられた傷が消える。
つまり、あの湯は治癒の力がある。そして湯は傷をめがけて飛んでくるというわけか……。
「あらゆる傷を治す生命の水。かつては神と祀られていたけれど、この世界を滅ぼした荒御魂でもあるのです」
え……。
地揺れが。
一瞬で最大まで高まる地震。そして複数の場所から吹き出してくる水柱。
それは蛇に似ている。鎌首をもたげた蛇に見える液体生物。体は緑色に透き通っており、修羅を目掛けて食らいつく。
修羅が飛びのく。瞬間、最初に食らいついた頭部が爆散する。火薬玉を投げたか。
だが相手は液体。瞬時に再生して襲いかかる。蛇は数を増し、それぞれの首が絡み合い、あるいは溶け合って修羅を追う。
「あの蛇は……ただの癒やしの水じゃない。腐食作用がある」
桜姫の目が何かを見て取ったのか、亜久里先生の声でそう言う。
「どういうことですか?」
「見てくれ、あの水を調べようとして金属温度計で触れたら」
先端が溶けてなくなっている。それだけではない。水は地面に散らばっていた鎖の破片まで溶かしている。僕はシャツとジャージという姿だったので影響はない。
つまり、あの蛇にまともに食らいつかれれば。すべての金属製のものを溶かされる。
修羅が動く。砕けた鎖を手でこねて、白い球体を。
「メルロゼオ・シルカの白夜水晶」
白い波。
そう見えたのは冷気の波紋だ。修羅を中心として広がる3次元的な波動。それに触れた蛇が瞬時に凍りついて白く染まる。
「あれは……重奏を生み出す美術品、そんな使い方もするのか」
「それは悪手ですよ、修羅さん……」
ばきん、と氷が割れて、内部から湯が吹き出す。修羅は氷を足場に飛んでさらに逃げる。
「……? おかしいな、あの蛇は零下180度近くまで冷えている。あの液体がどんな組成をしていても凍るはず……」
「あの蛇はあらゆる固体を食らいます。それは氷でも例外ではありません」
水晶が白い波動を放つ。だが凍らせるのは一瞬だけ、すぐに緑の粘性を取り戻す。
「氷すら腐食する、だって……?」
「そうです。あの蛇の本質は固体相を奪うこと。あらゆる金属を、石を、氷すらも奪う流体の具現。この世の全てを取り込んで、完全無欠な流動体となって世界に君臨する。その名は」
「極大深度骨喰蛇」
蛇が、修羅の両手両足に食らいつく。
すべての鎖が溶け消え、あらゆる形状の美術品も消失して。零下180度という極寒が修羅を襲い。
ぱちん、と姫騎士さんが指を鳴らす。
全身を凍りつかせた修羅、あるいは蛇は修羅そのものすら溶かしただろうか。その寸前で蛇が消える。
そしてぼろ切れのようになった忍者は、力なく地に落ちてきた。




