第六十七話
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どこかで水滴が落ちている。
とても遠い、だかはっきりと聞こえる。神経はこの手の刀のように研ぎ澄まされている。
燭台にて灯芯のはぜるじりじりという音。どこかの牢で怪物が漏らす唸り声。せわしなく牢内を歩き回っている者もいる。感覚はどこまでも肥大していく。
「昼中くん……」
黒架が僕に体重を預ける。不安な声だ。黒架の体は人よりも冷たいと聞くが、今は火のように熱く思える。
「黒架、大丈夫か。落ち着いたか」
「うん……昼中くん。さっき修羅と戦ったときのあれは」
「大したことじゃない。背中に怪物を降ろす感覚だ。僕の中に潜んでいる怪物だよ」
這いずり回る巨人。僕にとっての不安のイメージであり、ずっと僕の中に巣食っていたもの。
皮肉なものだ、それが今は武器になっている。
「昼中くんは強いね……」
黒架は震えていた。牢の中は肌寒く思えるが、凍えるほどではない。震えは心理的なものだろう。僕は彼女の腰を引き寄せる。
「わ、私は、恐ろしかった。あの修羅は形容できない怪物。いえ、強さじゃないの。あの殺気が。皮膚を剥がされるようなざらついた殺気が怖かった。動けなかった」
金縛りにあったという程ではないが、少なくとも反応は遅れていた。実戦ではそれが命取りになる。
僕が見る限りは黒架のほうが強い。この僕にすら破壊できた鎖を、黒架の爪が斬れないはずはないのだ。
つまりこれは心の問題。妖怪を狩り、怪物を屠ってきたという修羅の息吹。皮膚の奥に届くような殺気が黒架を戦慄させた。あと一歩の踏み込みを躊躇させた。
「大丈夫だ黒架。僕が戦う」
黒架を落ち着かせるためというより、世界にそれを事実として刻むかのように、はっきりと告げる。
「黒架は無理をするな。僕はもう戦える。怪物が相手なら僕が怪物になる。魔物が相手なら僕の中の魔物を引き出す」
――人間が相手なら。
決まっている。黒架のために何人でも殺す。
だがさすがにそれは言葉には出さない。黒架が悲しむことぐらいは分かる。
「怖いよ、昼中くん……」
「安心しろ、あの修羅はけして倒せない相手じゃない。別の世界に引き込む力を使うようだが、注意していれば」
「違うの」
ふいに、黒架が僕にすべての体重をかけ、僕は石の床に倒れる。黒架は僕の上で、僕の上着を握りしめてわななく。
「怖いのは修羅じゃないの。でも言葉にできない。言い表せない何かに押しつぶされそうになる。すごく高い場所で下を覗き込んだ時みたいな恐ろしさなの」
「僕が怖いのか? 黒架」
それは違う、という意思を示すためか、黒架が僕の口を塞ぐ。
闇がざわめく。どこかの牢からの甲高い叫び。鉄格子をかんかんと打ち鳴らす音。火の息がどこかの牢から吹き出し、周囲のいくつかの区画をあぶる。囃し立てているのか。
まあいい、勝手に騒いでろ。
僕は黒架と深く求め合い、繋がり合って、鼓動を一つに重ねようとする。
何分そうしていたのか、黒架は僕から顔を上げて言う。
「昼中っちが、怖いわけじゃないっすよ……。言葉にするのは難しいっす。でも、あえて言うなら不安定さ」
「不安定……」
「分かってきたっす。吸血鬼は永遠という言葉に近づく。だから死を恐れる。変化を恐れる。昼中っちが別の何かに変わるのが怖い、変わることそれ自体が怖いっす……」
「……」
永遠の血族。
完全なる不死の体現者。
しかし人はそうではない。変わり続ける存在。大きく成長したり、また歪んだりもする。完全と非完全、それが吸血鬼とそれ以外を分ける国境線なのか。
黒架はおそらく吸血鬼としての完成に近づきつつある。近づくごとに彼女から変化という言葉が遠のき、変化を恐れるようになったのか。
つまり、僕が吸血鬼ではないから。
変わり続ける人間だから、とも言えるのか。
「……黒架、僕の血を吸うか?」
「え……」
「黒架とともに生きるなら、いずれは避けて通れないだろう? 僕の血を吸って、僕を眷属に変えるといい。そして僕も吸血鬼の階梯を登ろう。完全なるものに近づこう。二人で一緒に」
「昼中っち。それは人間じゃなくなるってことっすよ。分かってるっすか」
もちろん分かっているとも。
別にそこまでのリスクとも思わない。黒架は昼にも動けているし、ブラム・ストーカーの語る吸血鬼ほど弱点は多くない。吸血鬼はハンターに狙われることもないし、何より長大な寿命と強い力がある。
「……姫騎士さんと、一緒にいられなくなるかも、っすよ」
「姫騎士さんは黒架と普通に接してるだろう」
「眷属になったら」
黒架は僕の上着を引っ張りもろはだを脱がせ、少し筋肉のついてきた僕の肩口に、そっと口を這わせる。牙は立てていない。
「本当に私だけのものになるっす。もう裏切れない。裏切りなんて許されない。血と魂に私の名前を刻み込むっすよ。肉体と精神が私を求めてやまない。そして私も昼中っちに全幅の信頼を寄せる。武器とその使い手のように一蓮托生になるっす。それでいいっすか」
「いいとも」
まっすぐに黒架の眼を見て答える。ルビーの瞳、僕の魂もその色に燃え上がる。
自分でも不思議だ。
姫騎士さんを守ると、彼女の思いに答えると言った僕と、今の僕はどう重なるのだろう。
どちらも嘘ではない。どちらも心の底から大事に思っている。
僕はとんでもなく不誠実な男なのだろうか。それとも、どちらも拒めない僕の弱さの表れだろうか。
だがやはり、どちらも真実なのだ。
己をどれだけ掘り下げても、どちらかが偽りとは思えないのだ。
黒架は。
黒架は泣いていた。何かが悲しいのか、それとも喜ばしいのか。
彼女の涙を止めてあげたいのに、言葉がとっさに出てこない。
それはほんの数秒だった。黒架は涙をぬぐって、そして立ち上がる。
「今は吸わないっす。そもそも私は女王の娘。眷属を作るならちゃんと儀式をやるっすよ。七夜七晩の宴っす。それでみんなに認められて眷属になるっす」
「そうか……」
残念だ。
そう、残念。その最初に浮かんだ言葉を意識する。
もしも安堵したなら、血を吸われなくてほっとしていたなら、自分で自分の目玉でもえぐり出したかも知れない。
「とりあえずここを出るぞ。姫騎士さんと合流する。そろそろソワレも来る頃だ」
「はれ? ソワレが来るっすか?」
「いちおう呼んどいた。できれば来る前にカタをつけたいな。そしたら遅いぞって怒鳴って、帰りに何かおごらせよう」
あはは、と黒架は笑う。しばらくぶりに彼女の笑顔を見た気がした。
「少しは元気出たか?」
「うん、何だか百人力って気分っす」
「よし、じゃあ鉄格子を斬ればいいのかな」
「あ、私がやるっすよ」
黒架がすいと前に出る。
反応は即座に起きた。周囲に点在する牢の住人が騒ぎ出したのだ。
炎に雷、毒の瘴気。くろぐろとした気配も届く。僕たちを押し止める気配だ。常人なら気が触れてしまうほどの威圧。
だが怖くない。
こんな連中、あの修羅とは比較にならない。そして黒架とも。
「――錬金術の王の遺訓。終わらざる夜。銀無垢の竜。灰溜まりの壜。火燐の惑星。妖精の扉。すべて黄金の循環に組み込むべし」
黒架の背から気配が立ちのぼる。それは魔力とか妖気とか言うものか。黒架の中に渦を巻いている力がある。渦は速度を増し、膨れ上がって充実していく。
「斬圏」
腕を振る。
そして見た。彼女の爪から放たれる無数の線のようなもの。
水面で手を動かすように世界に斬撃を撒いたと分かった。黒架の指先で鉄格子が紙のように、あるいは煙を払うようにちりぢりになる。それは一瞬で世界の端まで届く。
一瞬後、僕たちの他に誰もいない。
他の牢も、その中の住人も、最初からいなかったかのように溶け消えた。文明を滅ぼすほどの怪物たちは実在した気配すらない。彼らの威光のようなものすら消し去ったのか。あとはただ暗黒があり。その中で僕はまばたきをして。
ふと気がつけば畳の間。
周りには何人かの鎧武者がいて、僕たちにぎょっとした視線を投げる。
「修羅はどこっすか」
誰よりも早く黒架が言う。その一言だけで関係性の構築には十分だった。鎧武者たちは数歩下がり、中にはひざまずく者までいた。
「あ、薊葉の天守にいる。き、北だ。何かを追っていたと聞いたが……」
「了解っす!」
黒架が背中の翼を勢いよく展開。もちろんここは室内だが、僕は黒架の背に手をあてる。
一瞬後、脇の土壁が砂のように崩れ去って、それを認識した瞬間には僕らは宙にいて加速をかけていた。
「えーと北の天守っていうと、あれっすかね」
相変わらずとんでもない広さだ。電子基板のように複雑怪奇な石垣と渡り廊下の中で、北にぽつんと存在する天守が意識される。
と、そうだ、色々あって言うのが遅れていたが、あの変態のことを告げておかねば。
「黒架、さっき言いそびれてたんだが、実は魔法使いらしきやつと出会った」
「ほへ? 魔法使いっすか?」
「そうだ、若い……たぶん20代半ばぐらいの女だった。僕が見たのでは指先から風の刃みたいなものを出してきたな」
心当たりがあるか聞いてもいいが、あまり意味はないだろう。あいつの世界が黒架やソワレと重なっているとは限らない。
「外見の特徴とかは?」
「特徴というか……変態だった。頭に紙袋をかぶって全裸だったんだ」
「は……?」
そういう反応になるよな。そりゃな。
「たぶん身元がバレるのを嫌がってたんだ。外見もいじれるとか言ってたな。いちおう言っとくと身長は172ぐらい。体つきの印象だけなら日本人だ」
だからって全裸で出てくるのはあまりに不自然。きっとイレギュラーなことが起きて焦っていたのか。だから急いで服を脱ぎ、売店の紙袋をかぶって出てきたわけだ、冷静に考えるとおかしみが深い。
「……おっぱいは大きかったっすか」
「けっこうあった。85ぐらいかな」
「腰のくびれは」
「腹筋がそこそこ締まってて綺麗にくびれてうわっ!?」
いきなり力場を解除された。ほんの5分の1秒ほど。黒架の背中から落ちかける。
「昼中っちの浮気者」
「なんだよ怒るなよ。変態なんだよあいつは。というか僕はそいつに攻撃されて……」
急旋回。
黒架の力場の中ではGは軽減される。掴んでいたのが飛行機だったら腕がちぎれるほどの勢いで旋回。
だが今度のは僕への懲罰ではない。はっきりと見えた。緋色の線が。
「あいつっすか!」
今度はさすがに全裸ではない。どこかから調達してきたのか、濃い紫色の着物を着て浮いている。やはり紙袋はかぶっているが。
「あら生きてたの。癒やしのまじないでも仕込んでたのかしら。しぶとい子ね」
気だるそうな、面倒そうな声でそいつは言う。すでに高さは200メートルあまり。最も高い中央の天守すら見下ろす高さだ。強い風が吹きすさぶ中でそいつは言う。
「吸血鬼の娘さん、今ちょっと取り込み中なの、あとにしてくれるかしら」
「お前は何者っすか! 吸血鬼は魔術師ギルドや錬金術師の主派にも通じてるっす! ことを構えるならただじゃ済まないっすよ!」
「姫騎士さんを狙ってる。それだけで答えは十分でしょ」
こいつは姫騎士さんを狙っている。
そして、口ぶりからしてこいつは姫騎士さんを利用できると言うのか? 確かに姫騎士さんの力を我が物にできるなら、ギルドやら派閥やらも関係なくなるのか。こいつがそれに所属してるとしてだが。
ぶおん、と。
黒架の爪が振り下ろされる。さっと身をかわす魔法使い。その眼下で何枚もの石垣がぶった斬られ、直線に沿って煙が上がる。
「こら黒架!」
「ちゃんと人がいないラインを狙ったっすよ! 今ちょっと気が立ってるっす! 昼中っちはそこにいて!」
ばん、と肩を叩かれる。すると体が黒架から引き剥がされ、大きく下降して天守の一つに落とされる。
エレベーターで降りる3倍ぐらいの速度だろうか。なんとか無事に着地。
「無茶するなよ、黒架……」
だが、それにしても修羅がまだ健在なのか。
あの牢に閉じ込められてた時間が現実なら、数十分は経ってるはず。とっくに姫騎士さんと修羅が遭遇しててもおかしくない。
それなのに修羅が健在……やはり、あいつは異常なほどの怪物なのか……?
「……空中戦には参加できないからな。姫騎士さんのほうに行くか」
行けるはず。そう信じられればあとは簡単。
僕は天守閣の頂点部分から、三階ほど下の屋根をめがけて跳躍。
激突と着地の中間のような一瞬。その勢いを殺さず、屋根の角度を利用して前に飛ぶ。前転しながら渡り廊下の屋根に着地し、続けざま膝のバネを一気に伸ばして跳び――。




