第六十五話
脳が撹拌される。粉々に砕ける天守閣から飛び出して、最初に認識するのは落下の感覚。
重力の腕。体から魂を引き抜かんとする。僕は舌を強く噛んで意識を保つ。黒架を抱きしめる腕に力を込める。
「黒架! 飛んでくれ!」
「ひ、昼中っち」
ぐん、と制動がかかる。黒架の翼が力を取り戻したのか。
これは反重力とかそれに近いものなのか、僕の体重が消えたような感覚がある。
そしてもう地表間近だ。僕たちは反転して降り立った。
「ご、ごめんなさい、私、動けなかった……」
「黒架、大丈夫だ」
そうだ、こんなことはいつものこと。
相手はいつも僕より強い。それを受け入れるかどうかの問題だ。
ここは城の中庭なのか、立木もなく土が露出しただけの四角い空間。バレーコートぐらいの広さだろうか。
東側だけ石垣ではなく漆喰の壁になっていて、そこに木戸もある。あそこから建物に入れるのか。
「あいつ……降りてこないつもりか」
頭上を見上げれば、石垣に片足を突き刺すようにして立つ修羅。どういう体幹をしているのか、右足一本だけを支点に直立している。
「黒架、下がってるんだ」
修羅は黒架を優先的に狙っている。というより僕の存在など歯牙にもかけていないのか。
それは好機と考えろ。あいつが油断してるうちに僕が倒すんだ。
「ひ、昼中っち、危険っす」
「心配するな」
集中しろ。
刀にすべての筋力をそそげ。
完全に上を取られているこの状況、やつは不審がっているはずだ。なぜ建物の中に逃げないのかと。
どこかから弓や火縄銃で狙っているのか、下に罠でもあるのか、そう考えているのだろうか。
この場合の修羅の最適解は……。
「壁を崩す」
僕のつぶやきに答えるように、修羅がクナイを取り出す。
それを石垣の隙間に打ち込み、あろうことか無造作に手首を返した。がこんと巨大な組み石が剥がされ、いくらかの石片とともに落下してくる。
そして四方の壁を跳び周り、次から次と石組みを崩してくる。
「……!」
刀を振る。こぶし大の石を弾き飛ばす。
もう少し大きいものは身をかわす。すべて見えている。視界の中で落下はのろく見えて、僕の刀は石を中心線で捉えられる。
そうだ、わかってきた。切るのではなく石をそっと押しのけるように、刀の反りに這わせるように動かせ。
「降りてこい……」
額に石が当たる。細かいものは弾くまでもない。
黒架の気配は後ろにある。彼女なら翼で己を守れるだろう。
「降りてくるんだ……お前は黒架を無視できないはず。己の手で仕留めたいはずだ……」
全身を石くれが打つ。どこにどう当たれば骨が砕けるかは分かっている。致命傷にならない程度に受ける。
「昼中っち……」
黒架の声が遠く聞こえるかに思えた、その時に修羅の目が僕を見る。鎖の奥に確かにある闇色の目。
そうだ、それでいい、初めて僕を見たな。はぐれ忍者め。
だが降りては来ない。修羅は一度胸部を大きく膨らまし。その口の中にちらちらと光る何かが生まれ。
炎を。
瞬時に生まれるのは滝のような炎。石を砕き土をガラスに変えるほどの高熱。中庭がオレンジの光で満たされて炎の舌が石垣を炙る。
だが燃えはしない。黒架の作る力場が僕を守っているのか。あるいは僕の生み出した力場か。僕の周りを炎が避けて通り、数センチの隙間でひゅっと吸うように息をする。僕は殺意だけを満たす。
降りてこい。
僕は死なないぞ。お前がその手で心臓をえぐり出すまで死にはしない。降りてくるんだ……。
やがて炎は消える。燃え種のないこの中庭では炎は持続しない。わずかに生えた雑草が炭化しながら燃えているだけだ。
焼け付く空気、肺と喉の鋭い痛み、眼球がざらざらに乾いて今にも破裂しそうな眼圧。どれも些細なこと。
修羅は眼下を覗き込むように背を曲げる。僕たちが死なないのを訝しんでいるのか。
「黒架、僕を抱えて飛んでくれ、あいつを仕留める」
「む、無茶っす。あいつは半端な強さじゃ……」
「そうか。じゃあ僕だけで行く」
黒架は連れていけない。怯えてる者は足手まといになる。
僕は落下していた大岩に飛び乗り、崩れた石垣を手がかりに上に。そして石の肌に靴底を這わせて飛ぶ。
跳べている。まだ異能とまでは言えないが、獣のように力強く跳べている。体幹に鉄芯を通して斜面に立ち、石の凹凸を足裏の感覚で捉える。
修羅は数メートル上にまで見えている。僕が歯向かおうとしているのが信じられないのか。
いける。僕は刀を片手で握り、石組みの一つをがっしりと掴み、その手にガソリンをかけて燃やすような注力のイメージ。
できる。
巨人の力を示せ。
渾身の力で自分自身を投げ飛ばすんだ。
「ふっ!」
それは人間を踏み越える一瞬か。僕の体は2メートル近くも真上に上がり、修羅の足元へと肉薄。
声にならぬ叫び。
全身の筋肉から放たれるような叫びとともに右腕が振られ、修羅の足の鎖を捉える。
鎖が割れる。
その一瞬で修羅は離脱している。さすがに反応が早い。修羅の右足でいくつかの鎖の輪が砕け、鈍色の鉄くずとなって転がる。
修羅は中庭まで降りて僕を見上げる。黒架がすぐそばにいるが、それよりは僕のほうが気にかかるか。
そして一瞬後、僕も石垣を蹴って飛ぶ。
修羅がやったことを真似ろ。加速度を己のものとしろ。
両手で刀を大上段に。あいつから学べ、奪い取れ、あの筋肉の凝集を、束ねた板ゴムを重機でねじり、大深度水圧の中でドラム缶を押しつぶせ。
力の炸裂。
着地と当時に振り下ろされた刀が修羅の肩をかすめる。車両の衝突にも似た音。手応えが残る。いくつかの鎖の輪が砕ける。
「こいよ、名無しの修羅」
お前が強者なら、僕はそれより強くなる。
黒架に戦わせぬように、僕が黒架よりも濃い異能となる。
修羅は僕に正対する。背後に黒架がいるが気にも留めない。僕も彼女に何かさせようとは思わない。
修羅は足元を見た。砕けた鎖の一つをひょいと拾う。
焼き締めた黒い鎖。鉄を切り裂く黒架の爪でも傷つかなかったが、今の僕なら砕ける。そうだ、お前自身もその鎖のように。
その鎖の破片が、紙細工のようにひしゃげる。
「……?」
いや、形が変化したのだ。
粘土をこねる様子を早回しで見るように、鎖が修羅の指の中でこなれて形を作る。
それは玉子。
玉子の殻を加工し、宝石で飾り、着色した工芸品、イースターエッグというものか。
だがその精度、細やかさは尋常ではない。見ればその絵は複数の層で構成されているのだ。卵殻の厚みを利用してレイヤーのように絵を描いており、背景となる冬の山、その手前に賑やかな街並み、さらには大通りを進む王のパレード。
そして最も手前の層は王の馬車ではない。護送馬車だ。
馬車の中にいる人物は遠景の山を、町並みを、王の行進を見て、牢に繋がれる己の生涯を思うのか。
そうだ、すべての情景は手前の人物の記憶だ。繁栄に生きた王だったが、生涯の最後で牢に繋がれた。その茫漠たる栄華の記憶。
それは狂気の細工であり、圧縮された王の歴程。
「まさか……!」
「スレンヴェラフの生涯の卵」
泥を吐くような修羅の声。
意識がぶれる。
五感が書き換えられる感覚。とてつもない距離を一瞬で飛ぶような。
気がつけば、そこは牢獄。
冷たい石の床。冷ややかな空気。そして周囲を囲む鉄格子。
この牢は四方に鉄格子があり、四隅に燭台がある。床と天井は濃い藍色の岩。鉄格子は子供の手首のように太い。
そして牢の外にも無数の牢が見える。虫かごを置いたような個別の牢だ。とてつもない広さの空間に無数の牢が配されている。
牢の中には怪物がいる。
頭が二つある狼のような獣。炎の息を吐く赤茶けた巨人。格子から無数の腕が出ている牢もある。
直感として分かる。あの牢の住人たちは桁外れの怪物どもだ。どれ一人を出したとしても文明が滅ぶほどの。
「くそ! 閉じ込められた!」
今わかった。あの修羅を縛っている鎖は、あの露出狂の魔法使いが用意したもの。
あの鎖は防具でもあり武器でもあり、魔術的な効果を示す道具でもあるのだ。
あの修羅は魔法使いの手駒ということか? 魔法使いは姫騎士さんをどうにかしたいようだったが、ではあの修羅を使って、ということか……。
いや、それよりもここを出なければ。
「黒架、脱出するぞ、歩けるか」
「だ、大丈夫っす……」
だが黒架は立てないでいる。もう翼も出ていない。長い脚を牢の床に這わせている。
「黒架、ここを出て修羅を探す。姫騎士さんが修羅と衝突する前に見つけたいんだ、手伝ってくれ」
「う、うん……」
その黒架の様子は、なぜか濡れた粘土を連想させた。
その肌に湿度を感じる。息は浅く早く、肌はじっとりと汗ばむ印象。炎を浴びたからか、戦闘の興奮のためか。
いや、少し違う。黒架の体に力が入っていない。己の体重すら重く感じるかのように項垂れている。
「黒架、どこか怪我したのか」
「だ、大丈夫っす、少し休めば……」
「……」
気にはなるが、まずはこの牢から出よう。
僕は刀を構える。
石を切り、鎖を切った刀だ。刃こぼれでぼろぼろになりつつあるが関係ない。今の僕ならこんな鉄格子ぐらい何とでもなる。
構える。狙うは一点。袈裟懸けに振り下ろして斜めに切断する。
全身に気力をみなぎらせ、筋肉を引き絞り、そして。
――破滅。
「!」
腕が止まる。
振り下ろす刹那で止めたために筋繊維がぎちりと鳴る。
「これは……」
認識した、いや、認識させられたと言うべきか。
別の牢にいる住人たち。そいつらの気配が一斉にこちらを向いたのだ。
僕が牢を出ることを許すまいとしているのか。それとも自分も出せと威圧してるのか。
あるいはこの空間には牢に捉えられてない怪物もいて、それはどこかを歩き回っているのか。
牢を破壊した瞬間、そいつは風のように駆けてきて僕を噛み砕く、そんな予感がある。
この世界は負の感情で満たされている。
捕らえられた怪物たちの怨みの念が渦を巻き、誰も何もできない膠着状態を作っている。下手にそれを無視して動こうとすれば、影響は物理的な形となって訪れると予感される。
「作戦が必要か……」
僕はどっかりと床に腰を下ろした。
どうすればいい、どうすればここを出て、姫騎士さんを探せるのだ。
ずり、と音がして黒架が肩を寄せてくる。僕はその肩を抱く。
震えている。
寒いのか、それとも恐ろしいことでもあるのか。
僕は張り詰めていた気を少しだけ緩めて、強く黒架を抱いた。
牢の外には地獄の住人たち。
だが恐れはしない。僕は戦士になったのだから。
前だけを見て、あらゆる敵に立ち向かうと、すでに決めているのだから――。




