第六十三話
「誰だよ、あんた……」
その女は尊大な胸に皮肉めいた腰、シミもホクロも一切なく湿度にも似た肌いきれを放つ。あまりに現実離れした容姿なので、洋物のピンナップのような、という卑俗な形容が浮かんでしまう。
女性は紙袋の上からかりかりと頭をかいて言った。
「殺そうかと思って」
「!」
「血とか脳漿とかで服が汚れるのイヤでしょ。だから脱いだの」
こいつ、敵か!
どうする、逃げるべきか。しかし現実世界に呼び戻されたのがこいつの力なら、ここを離れるわけには。
「嘘よ」
女は肩をすくめる。
「特に殺す理由とかないし。あなたを殺すと姫騎士と吸血鬼がどう動くか分からないからね。予想不能なことはしないの私」
そう言われたとしても、今さら緊張を緩めるわけもない、僕は距離を取りつつ言う。
「おまえ、何者だ」
「名乗るほどの者じゃないわ」
「なぜ僕を呼んだ、何の用がある」
僕はそいつを観察する。身長は女性にしては高く172ぐらいか。ほどよく肉がついてておそろしくスタイルが良い。だが鍛えてるとか武術の心得があるようには見えない。武器などは持ってないし、他に誰かいるようにも見えない。一応爪や耳も観察するが、特に長かったりはしない。
「あなたに忠告しとこうと思って。シンプルよ。もう手を引きなさい」
「あんたに何の関係がある」
僕はそいつの言葉は頭の片隅で聞きつ観察を続ける。
体型に見覚えはない。あと亜久里先生でもない。亜久里先生のほうが10センチほど低いし、体のボリュームでは先生のほうが上だ。
この女性は僕の知己の人物とは思えない。ではなぜ顔を隠す?
そうだ、それはきっと僕の生活圏の中にいるから、つまり西都の住人だからだ。
誰だ? 西都は小さい温泉町とはいえ人は多いし、よその街からホテルや歓楽街に通勤してる女性も多いが……。
「やめなさい、無駄なこと考えるのは」
女は腰に手をあてて言う。今更だが紙袋の中からはこちらが見えているようだ。ならばこっちからも中身を透かせないか……?
「だから無駄だって、そういう獰猛な目つきはやめなさい。別に身元がバレても一ミリも困らないのよ。今どき顔も背格好も好きに変えられるからね。私は西都での今の立場にもそこまで執着ないの。姫騎士さんを観察してるだけだから」
こいつ、姫騎士さんを狙っているのか。
「事態はもう人間の手に負えるレベルじゃないの。あなたが首を突っ込んでも何の意味もない。すり潰されて死ぬか、あなたとまるで関係ない場所で決着がつくだけ。でもあなたが死ぬと姫騎士さんがどうなるか分からない。だから忠告するの。はっきり言えば邪魔なの、あなた」
「……」
別にこいつの言葉を真に受けてるわけじゃない。
だが、こいつは姫騎士さんと僕との関係について詳しいつもりのようだ。そこを突けば何か聞き出せるだろうか。
「まるで姫騎士さんが何なのか分かってるような口ぶりだな」
「分かるわよ、あなたよりはね」
「嘘だな。彼女についてはオカルトでも科学でも説明がつかない。ただその力に惹かれて有象無象が寄って来るだけだ。あんただってそんなハエの一匹だろう」
「別に否定はしないわ。それにハエを悪口に使うのやめなさい。ハエはすごいのよ。キンバエの仲間は15キロ先からでも生物の死臭を見つけて飛んでくるの」
それはこいつの信条というより、単に言葉遊びで僕を翻弄しようとしてるように思えた。僕は姫騎士さんについて踏み込む。
「姫騎士さんをどうにかできると思ってるのか」
「できるかどうかの話? もうしてるけど」
「何だって……?」
姫騎士さんがいま巻き込まれてる事態……この富前霧街道の妙な違和感と、あの謎めいた修羅。
そうか、それがこいつの仕業なのか。
女は得意げな様子などは特になく、出来の悪い生徒の補修に付き合ってるだけ、という気だるさを出す。こいつの雰囲気には全体的に億劫さと言うか面倒臭さが付きまとう。体から力を抜きつつ、無駄に肉を揺らして語る。
「教えてあげる。この現実に重なって存在する無数の世界。それを開くためのエネルギーのようなもの。それは美術品にも存在する」
「美術品……」
「並の品じゃダメ。何世代もかけたような執念のこもった逸品。天才が自分の人生すべてを叩きつけたような鬼気迫る名品。そういうものが世界の扉を開く。持ち運べるような物体となるとそう多くはない。あなたの主観で感じる地球には3つあるかどうか」
「ここにあった象牙多層球……姫騎士さんが注目してた鎧……ああいうものか」
「そう、あの鎧は紙で作られてる。経文を書き込んだ薄紙を糊を溶いた水に浸して、筋骨隆々な男の体に貼る。何枚も貼り重ねる。乾くまで周りを人間が囲んでまぐわいながら経文を唱える。それを100年ほどかけて、中身がなくなるまで続ける。ある宗教における御神体よ」
「そんなもの聞いたことがない」
「あなたが知らないだけよ。どこかにはそういう物もある。存在自体が矛盾するようなもの以外は探せば見つかる。そういう世界を見てきたんじゃないの?」
……それは、亜久里先生が言ってたことか。
失われた美術品、この世界には生まれなかった才能。
それもどこかには存在する。
重なり合った無限の可能性の果て。そこには夢を食う獣も、常識を遥かに超えたハッカーもいる……。
「……たとえそれが本当だとしても、姫騎士さんをどうこうできるはずがない。どんな世界からどんな怪物を連れてきても、姫騎士さんは必ずそれを上回る。多次元的な世界のさらに上位にいる」
「それもまた正しい。あの修羅はただのワンダリング・モンスターに過ぎない。とても姫騎士さんには及ばないわね」
「? 何を言ってるんだお前」
「制御できる力に限界があるの、それが美術品って話よ。この富前霧街道は私が作った結界による結界。言わば傾斜のきつい坂道だらけの街よ。力を知るものほど迂闊には歩けない。器物に秘められた結界に触れれば世界は傾斜する。より深層の世界に引きずり込まれる」
なるほど、だんだん分かってきた。
重奏は人の念によって生まれるが、ときに器物の中にも存在する。こいつは重奏からさらに重奏を持ってきてばら撒き、入れ子構造の迷路を仕掛けたのか。
だが、それが何だ?
少しばかり構造が複雑になっただけじゃないか。姫騎士さんが対応できないとは思えない。
「そして世界の最奥」
ぞく、と首筋に寒気が走る。こいつの声は何も変わりないのに。
「今はあの修羅が最も深い。ある特別なものを仕込んである。あの修羅には姫騎士さんであろうと勝てないの。あるいは勝つとしても相当に消耗する。そういうものを仕掛けたのよ」
「それは何だ!」
「それを教えるのはサービス過剰ってものよ。18禁になっちゃう」
余裕ありげに言う。
「私が何を話してるか分かる? 予備知識よ。あなたがこれから見るのは人の認知を超えた怪物。あなたなんて津波の前のアリに同じ。何もできないし、何も変えられない。ただむやみに突っ込んで死なれると迷惑。だから選択肢を用意してあげてるの。ここで帰るか、それが嫌ならせめてあの吸血鬼の姫君を連れて逃げなさい」
……黒架のことまで。
「姫騎士さんはもうどうにもならない。そういうふうに仕込んである。あなたにとって最良の結末は吸血鬼を一人助けて逃げること。それがベストよ。覚えておきなさい」
長々と話しているが、要するに邪魔をするなと言いたいのか。
それはこいつの恐れではないかと感じる。僕だって少しずつ戦士に近づいてる。僕という不安要素を排除したくて必死なだけじゃないのか。
顔を隠してることもそうだ。こいつだって予防線を張りながら動いてる。あるいはこの場で組み伏せて顔 を確認し、そのまま拘束するのが最善じゃないのか……。
「いやらしい目ね。嫌いじゃないけどそういう獰猛な目」
そいつは後退もせず、身構えもしない。
あるいはこいつは黒幕ではなく、ただのメッセンジャーという可能性もあるのか?
そうだ、こいつはことさら自分が女であると見せつけている。では本命は男……? いや、その裏をかいて……。
「やめなさい、無駄に頭を使うのは、大して賢くもないのに」
気怠げに言う。
「可能性なんかいくらでも考えられるし、とても一つに絞れるわけがない。こういう場面で何かしら推測して、それが正解なんてのは漫画の中の話よ。私はもうあなたに会わないし、街で私に似た女を見つけたとしてだから何なの? 何ができるって言うの? 無駄な推測はやめなさい鬱陶しいから」
「……」
嘘だ。
僕が半ば意地になっていたことは認めるが、こいつに関する推測がまったく意味を成さないとは思えない。
「あなたは色々考えてるつもりでしょうけど、無意味よ。ただ私が与えたい情報を、与えたい順番で聞いただけ。よく心しておきなさい。人間にできることなんて多くはない。吸血鬼のお姫様を優先させるのよ」
それきり尻を向けて歩き去ろうとする。ぺたぺたと湿った足音が残る。
逃がしていいのか。だが追いかけて意味があるのか。さすがに何の準備もしてないはずがない。
それよりは、こいつに言葉を投げよう。
何となく感じる。こいつにとって言葉は武器だ。こいつと戦うならまず言葉の土俵に上がるべき、そんな気がする。
「最初の言葉だ」
ずっと考え続けた。
今の話のあいだにさんざん脳をこねくり回して、ようやく成り立ちそうな推測は一つだけだ。僕にはそのぐらいが精一杯だろう。女は足を止めもしない。
「『殺しておこうかと思って』という発言。あれは不自然だ」
つと、女が足を止める。振り返りはしない。
「あんたは刃物も銃も持ってない。それなのに返り血を気にする発言は、それが冗談だとしてもおかしい」
「ふうん?」
「だが、おそらくあんたには出来るんだ。容易に人体を切り裂ける。だが黒架のように爪を伸ばせるようにも見えない」
「続けて」
「つまりあんたは……超能力者、あるいは、魔法使いだ」
「なるほど、面白い推測ね」
肩をすくめて、また歩き出す。
僕が追おうとしたとき、その右腕が肩越しに背後に。
「驪風、引き裂け」
風斬りの音。
五感が知覚するよりも速く、衝撃波が突っ走ってガラスケースを粉砕する。床をえぐる。天井を切り裂いて電撃がスパークする。
砕ける強化ガラス。内部の土器も、鎧も、忍者の装束もずたずたになって広範囲に散る。
「……あーあ、やっちゃった。手応えからして何箇所かモロに食らったわね。足も斬れてるから助けも呼べないわけで……死ぬわねやっぱり。ま、そういうこともあるでしょう」
もはや振り返りもしない。確認する手間すら面倒なのか。女は指を鳴らし、そして姿を消した。
「……ぐ」
魔法使い……今さらそんなものが出てくることに驚きはしない。あれにどうやって対抗すればいいのかを考えなければ。
やばいな。出血がひどすぎる。両足の傷は深すぎて物理的に歩けそうにない。おそろしく鋭利な風の刃だ。カッターで切りつけた傷よりはるかに細いのに、足をまともに貫通している。
「落ち着け……何てことはない」
血は全身から溢れて痛みは脳を焼くよう。致命傷なのは分かるが、それは大した問題じゃない。この場に誰か来て、救急車で運ばれる方が問題だ。脳をやられなかったのも幸運だろう。
かなりの音がしたのに霧街道のスタッフが誰も来ない。ソワレの言っていた魔術的な人払いだろうか。助けはこないと思ったほうがいい。
僕は這いずって床を進む。割れたガラスケースの一つ。日本刀が飾られていた場所に向かう。
粉々に割れた強化ガラスの奥に手を伸ばす。よかった、この重量感は真剣のようだ。
僕は血糊でべたべたになったシャツをべりべりと脱ぐ。痛みよりも意識の耗弱の方が危険だ。舌を強く噛んで気合を入れる。
「落ち着け……傷はそれぞれ8センチぐらいか。まずは内臓に達してる傷からだな……」
僕はイメージする。その傷に沿って刀を入れ、傷の線をぐるりと囲むような刃の軌跡を。
そしてソワレのまじないが。
自傷のみを癒やすという術が、僕のこれからやろうとしてる行為にどこまで応えてくれるかを期待する。
精神衛生上、それは詳しく語れない。
すべてをやりきった後、まじないの刻印はきれいさっぱり使い果たしていて。
僕はトマト祭りの後のように血まみれになっていたので、とりあえず着替えを探そうと博物館を出た。




