第六十二話
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ややあって、僕たちは村長の屋敷へ。
そこは野戦病院の様相だった。
老人から青年まで多くの人間が傷つき倒れ、隠れていたという子供たちが手当をしている。僕たちも手伝おうとしたが、村のやり方と異なるという理由で止められた。
藤十郎は僕たちを奥の間に通す。
「拙者の留守を狙われたようだ。村を襲われた。かろうじて死者は出なかったようだが、不覚であった」
その声には忸怩たる思いだとか、煮えたぎる憤怒だとかは遠い。存在しないのではなく遠いのだ。岩のような意志で感情を出さないようにしている。
「あの鎖まきまきの男は何者なんすか」
「修羅だ」
短くそう言い、あれを言い表す言葉を探すような沈黙を置いて言う。
「あれの本来の名は誰も知らぬ。忍びの技をどこで身につけたのかも分からぬ。今では天下のお尋ね者だ」
「抜け忍、みたいなことっすか」
「抜け忍などは遥か昔の慣習。それとは異なる」
わずかに外の気配を探るような目の動き、藤十郎は忍者であるせいか、常に周囲を警戒するような様子がある。座っていても重心がわずかに高い。いつでも動けるような構えなのだろうか。
「あれの存在は十年も前から噂になっていた。深き森の奥、切り立った峡谷の底、ただ一人で化生を狩り続けている忍者がいると。それ自体は歓迎されるべきことでもあるし、どこかの里の手の者かと思われて特段、探されるようなこともなかった」
「……」
「だが、奴の殺意は度を超えていた。人里より遥か離れた深山幽谷の魔性をも屠り、幼体であっても容赦なく殺していた。しかしそこまでなら、人がやがて版図を広げる上での已むなき所業と言えなくもない」
必要を超えた殺戮……環境破壊とか動物保護というイメージが浮かんでしまうのは僕が現代っ子だからだろうか。
だが、それがなぜ村を襲う話に。
「やがてあの修羅は人と通じ合っていた異形にも手を出した。万年雪の山に住む氷眼の民。海の向こうに住んでいた巽の水人。伎山にいまし雨読みの一族。それら人と化生の境目にいる人々までを手にかけた」
それは……。
それは何だろう。胸がむかつくような感覚がある。許しがたい悪行に感じる嫌悪とも違う。何か、もっと身近な。
「そして奴は如何様な理由か、ついに忍びまでを襲いだした。東の申賀、西の伊鞍、遠方の背来に雑葉まで襲われたという」
「な……」
そんな、無茶苦茶だ。
「なぜそんな……その人だって忍者なんでしょう? 常軌を逸してる」
「拙者にもあれの考えてることは分からぬ。我らに何の恨みがあるのだ。我らはこの国の民草のために尽力してきたはず。退治される謂れなどあろうはずもない」
想像する。
それは素性も知れず、思考も読めぬ殺意の塊。
その姿は焼き締めた鎖で覆われ刃物を通さず、捕まれば強烈な腕力で引き倒し、ぎざぎざの刀で獲物を苛まんとする。
それではまるでホラー映画の殺戮者。殺意だけが歩き回るような怪物。
ふと、意識が脇を向く。
黒架が何も喋っていないことに気付く。片膝を立ててその膝頭に両手を添え、赤い目を細めて何かの衝動を抑えるような姿。
……。
そうか、分かった。
その修羅に感じる胸のざわめきは何か。それは殺意が黒架に向くと思ったからだ。
ホラー映画の殺戮者は人間を狩る。
では、魔物を狩る殺戮者は何か。
それは、ハンターだ。
黒架の属する夜の世界。そこで魔物を狩るというハンターたち。ほとんどのハンターは黒架の敵ではないが、例外もいる。
例えば、あの銀髪のケーキ屋。
あるいは、超科学に身を包んだメイド。
高位のハンターたちは吸血鬼である黒架を凌駕する。人間世界にも食い込んでいる吸血鬼はめったにターゲットにならないが、条件が揃えば敵対することもあるのだ。
それがかつて黒架の城で起きたこと。ハンターによる一方的な殺戮。同胞たちが羽虫のように狩られていった一幕。
それがまだ黒架の奥底に根付いているのか。
夜の眷属として力を増し、異能をいくつも身につけても、なおあの夜の記憶は残るのか。膝の震えを押さえねばならないほど……。
「帰りましょう」
はっと、周囲の景色が意識される。
声がどこから発せられたのか探したのだ。それは真ん中にいた僕から見て右側、まるで今まで存在しなかったかのように姫騎士さんが認識される。その浅葱色の羽織が。
「帰るって……」
「ここは私達の居るべき場所ではありません。元の霧街道に戻りましょう」
何だって。
姫騎士さんがそんな風に言ったことは無かった。事態の解決に難渋して何度か現実と異世界を行き来することはあっても、基本的には姫騎士さんは率先して問題を解決しようとしたはず。
「姫騎士さん。戻って大丈夫なのか。その修羅が僕たちの世界にまで来る可能性があるだろう。あのときのジャスティスマスクのように」
「それは……」
まただ、様子がおかしい。
その動揺するような顔は何なんだ。まるで早くこの場から立ち去りたいような顔。この世界のことをなるべく考えたくないような顔だ。
いや、そもそもこの世界は何なのだ。
姫騎士さんが導いたわけでもなさそうだし、名前も付けられていない。
……名前をつけてない。そうだ、姫騎士さんにとって名前をつけることは理解の第一歩のはず。
ならば、もしかして、姫騎士さんはこの世界が理解できない……?
「嫌っす」
また背中で声が上がる。黒架の声だ。
「人と通じ合ってる化生まで狩るようなやつを放置できないっす。姫騎士さんがやらないなら私だけでもやるっす。藤十郎さん、手伝うっすよ」
「そなたが……いや、確かに先刻の戦いは見事だった。ご助力いただけるなら歓迎いたす」
「黒架さん……あの修羅はとても強いです。おそらく勝てません」
ぴり、とうなじの毛が逆立つ感覚。
黒架が静かに立ち上がる。一秒遅れて、僕と姫騎士さんもそれに引きずられるように立つ。
「私が負けるって言うんすか。いくら忍者だってただの人間っす。吸血鬼に勝てるわけないっす」
「……黒架さん。私がここに来たそもそもの目的をご存知でしょう? 私は忍者が眠らずに活動し続けるという話を耳にして来ました」
「勿論っす、忘れてないっすよ」
「人間の精神力や身体能力は、ある一線を超えれば怪物となるのかも知れません。私は、その象徴が眠らないことではないかと考えるのです。その修羅は十年以上もずっと怪物を狩り続けてきたのでしょう? 夜の中でも、人間に追われる立場になっても、ずっと。それはまるで不滅の怪物です。完全無欠な強者、誰も勝てない特別な何かかも知れないんです」
確かに……まるでその修羅には休息が無いかのようだ。
では、その修羅こそが『眠らざるもの』なのか? いや、だが……。
「眠らない人間なんているわけない……!」
――っ!
「黒架、やめるんだ」
「人間だけじゃない。吸血鬼だって眠る。竜でも巨人でも眠る。樹木だって眠るんすよ。あの修羅だって眠ってるはず、完全無欠の存在なんているわけない。姫騎士さんが眠らないって話だって、どこまで本当か」
「やめろ!!」
びくりと、黒架が身をすくませる。
僕の不意な大声に想像以上に驚いたのか。ほんの数秒、少女のような怯えの色が黒架に宿る。その様子に巨大な後悔が背中を這い登る。
だが、今さら言葉を引っ込めることはできない。
「黒架、そんなことを議論する時じゃないはずだ。今はその修羅と戦うかどうかだ、そうだろう」
「……戦わないって選択があるわけ無いっす。だってこの世界は現実と隣り合わせ。あるいは一種の結界かも知れない。あの修羅は逃げればそれで終わりって存在じゃ無いはずっす、必ず現実にも影響する」
確かにそうだ。今までもそうだったはず。
異世界で出会う怪物は、僕たちの世界にも必ず関係している。
「応援を」
姫騎士さんの声がうなじにかかる。
僕を襲ったのは寒気だ。
やめてくれ姫騎士さん。
何を言おうとしているんだ。
言おうとする言葉の先が予感される。それが黒架にどんな意味を持つか分かっているのか。
「応援を呼びましょう……西都から、それなら……」
「藤十郎さん!」
黒架が叫ぶ。この場を破壊するような声で。
「私は戦うっす! そうなればこの村でケガ人を守りながら戦うより、打って出るほうがいいっす。あいつが消えた先を追跡するっすよ!」
「うむ……そうだな。忍犬を出そう。あやつは塵遁にて逃げた。火薬の匂いを追えるやも……」
「黒架さん」
「姫騎士さんはここにいるっす! 帰るなら勝手にするっすよ! 昼中っちは……」
一瞬。黒架と目が合う。
鳩の血のような、という形容が浮かぶ真紅の瞳。流麗な線を描く美しい眼差し。それが何かの感情を浮かべている。
それは何だろう。一瞬が何倍にも引き伸ばされるような時間。懇願するような命令するような。親しみのような突き放すような。文字として感じられるほど明確なのに、見たこともない異国の文字に見えるようなもどかしさ。
黒架の中にある言語化されない感情、僕の中にある不安や恐れ、溶けた歯車同士を噛み合わせるような、あるかなしかの心の逢瀬。
「……昼中っちはここにいるっす。今の姫騎士さんは明らかに様子がおかしいっす、そばについててあげて欲しいっす」
姫騎士さんまでを心配するような言葉、それは事態がよく見えてるということか、それとも余裕を見せつけるような言葉なのか。
「……分かった。だがくれぐれも気をつけてくれ。危険だと思ったら必ず戻るんだ。一緒に作戦を練ろう」
「わかったっす」
そして黒架と藤十郎は連れ立って部屋を出ていく。
僕はすぐさま姫騎士さんの方を向く。
「姫騎士さん、どうしたんだ。いくらなんでもおかしいぞ。あの修羅がどれだけ強くても、地球規模の脅威だったジャスティスマスクより強いわけがない」
「分からないんです……」
姫騎士さんはすとんと膝を落とすように座り、少しうなだれて言葉をこぼす。新選組の羽織と袴が、液体のように畳に広がった。
「この世界では何かの不安を感じるんです。こんなことは今までに無かった。新しい世界が見いだせたとき、その場所を表すような言葉がすぐに浮かんだのに」
姫騎士さんが名前をつけられない……。
それはまあ、初めて来た場所に名前をつけろと言われても難しい、普通のことだ。
だがそこに意味があるのだろうか。
姫騎士さんでも名前が見いだせない理由があるとしたら、それは何なのだろう。
「姫騎士さん。僕は応援を呼んでもいいと思ってる」
その肩に手を置くのは恐れ多くて、すぐそばの畳に手をついて言う。
「ソワレだろう? 将来的には分からないけど、現時点ならまだ黒架より強いと思う。一度現実に戻って、西都まで行けば呼んでこれる。ソワレは西都を見張っていたいと言ってたけど、説得するよ。黒架の気持ちも大事だけど、姫騎士さんが危険だと言うなら……」
「ええ、そうですね……では何か、戻るための方策を考えないと……」
今までは気がついたら戻っていた場合がほとんどだったが、この世界だと姫騎士さんにも自由にならないことが多いらしい。
特に何を探すというわけでもないけど、僕も首を巡らせる。
「……?」
視線が引き付けられる。それは床の間の柱に結わえられた一輪挿しだ。
華は挿されておらず、ただ金色の蝶が止まっている。
「何だこれ……細工ものか、金細工だな」
近づいてそっと触れてみる。なるほど確かに金だ。
だが触れて分かった。それは糸で編まれた蝶のようだが、おそろしく細かい仕事だ。
細く伸ばした金の糸を折り曲げ、編み込んで蝶の形にしている。触覚は撚り合わせた金の糸。蜜を吸う口はさらに複雑に編み込んであり、羽はもはや形容もできない美の極致。おそらく絨毯一枚分ほどの工程で折られたのではないかと思うほど。
しかも継ぎ目が見当たらない、これはもしかして、一本の金の糸を切れないように折り曲げていったもの……?
「金糸様縦緻綾羽斑」
声が聞こえる。
はっと気づく。そこはガラスケースの立ち並ぶ博物館。
ほんの数時間前にいた富前霧街道の博物館だ。周りには掛け軸やら刀やら、近辺から出土した土器やらの雑多な展示品が並んでいる。ケースは割れていないし、ついでに言うなら展示品は別に超一流という雰囲気もない。
「戻ってきたのか……あれ、姫騎士さんはどこかな、黒架も……」
「君だけ呼んだのよ」
体に緊張が走る。先ほど耳に響いた声だ。
それは背後にいた。落ち着いた大人の女性の声だったが。
「……は?」
僕はあっけにとられる。
その女性は茶色の紙袋のようなものを頭にかぶっていたが。
それ以外には下着一枚、指輪一つすら身に着けていない、完全な全裸だったのだから。




