第六十一話
「あの人は……」
忍者、のように見える。
黒ずくめの装束に頭部を覆う頭巾。額には鉢金を巻いておりそれも黒い。
アトラクションの人。という言葉が一瞬浮かぶが、すぐに打ち消される。あれは仮装などではない。紛れもなく本物。
「何の用っすか、そんな時代がかったカッコして」
「……」
さっと前に出るのは黒架。鋭く呼びかけるが応答がない。
そして黒装束の忍者は腰に手を伸ばし、その手が抜き放たれると同時にじっ、と何かが擦れるような音。
「!」
ぎん、と黒架が弾き、右手側にあったショーケースが粉々に粉砕される。
一瞬だけ見えた、何か棒状のものを投擲したのか。
廊下は展示室から直線的に伸びて20メートルほど。仮にプロの野球選手が150キロの球を投げたとしても0.5秒はかかるはず。
今のはそれより速い。あの忍者、いったい何者……。
じじっ、と連続する音。黒架の腕が鞭のようにしなって手裏剣を弾く。
あの音はまさか、手裏剣が指に擦れる音なのか。それがこの距離まで届くとは。
僕も戦うべきか。
僕は背負っていたリュックを手に持ち変える。大きめのリュックであり、中には打ち直した剣が入っている。たとえ刃のない鉄の棒に過ぎなくても……。
風が吹く。
肌を打つような強風。僕たちは博物館にいたはずなのに、この風はどこから。
そして音が広がる。黒架が手裏剣を弾く音が広範囲に拡散するかに思える。僕は脇を見ることができない。忍者の投擲する動作から目をそらせない。
そして頭上からの光。黒架の弾く手裏剣が周囲のガラスを砕いていく。そのたびに空間が広がる感覚があり、周辺視野で世界が塗り替えられるような錯覚が。
「誤解です!」
姫騎士さんが叫んだのはその時だ。
「私たちは退治されるような存在ではありません! 話せば分かるはずです!」
そして忍者は動きを止める。
ここは並木道。
樹齢数百年は経ていそうな杉の巨木が左右に並ぶ、赤土の街道。
太陽は高く空に雁が鳴き、忍者と僕たちは数十メートルおいて対峙している。
「ここは……」
結界? それとも重奏?
姫騎士さんの能力だろうか。いや、彼女が力を使うときには必ず儀式めいた行為があった。
今回のこれは何だ。ごく自然に、別の場所に塗り変わったような。
「失礼いたした」
忍者はそう言って腕を下ろす。だが油断なく構えていることは分かる。
「拙者は葉隠の藤十郎。この国にて異形を排する忍び」
「忍者がそんな簡単に名乗るのか……?」
思わずそう突っ込んでしまう。だが藤十郎と名乗った忍者はかるく首を傾げるのみだ。
「もはや戦乱の世ではない。葉隠は民草のために刀を振るう隠遁の忍び。化生の退治こそ我らの務め」
民草のために……?
姫騎士さんがそれを受けて言葉を投げる。
「藤十郎さん。私たちは忍者のことが知りたくて来ました。教えていただけませんか」
「分かった、里に案内いたそう」
どうも世界観がよく分からない。ここが富前霧街道だからだろうか。殺伐とした闇に生きる忍者ではなく、忍者と民衆がごく自然に共存してる感覚なのかな。
「だが、そこの異形の娘は同道せぬほうが良い」
黒架を指して言う。低くてくぐもった声だが声量はある、鍛えられた肉体を思わせる声だ。
「なんでっすか! 私も行きたいっす! というか手裏剣投げたことちゃんと謝って欲しいっす」
「異形を排するは我らが役目。だが人と共に生きる異形にまでは手を出さぬのも掟。謝罪いたす」
「むー」
まだ納得いかない様子だが、ともかく話を進めるために僕が言葉を継ぐ。
「なぜ黒架は駄目なんだ」
「それは……」
藤十郎はしばらく押し黙る。黒ずくめなこともあって感情の揺れがほとんど見えない。自己を律する力はさすが忍者と言うべきか。
「どうしてもと言うなら来られよ。ただし危険があるやも知れぬ」
「勿論行くっす!」
……。
何か不穏な気配はあるが、さすがにこの段階で黒架に帰れとは言えない。そしてこの世界から抜け出すわけにもいかない。出来るとしてだが。
葉隠の藤十郎は背を向けて街道を歩きだし、僕たちもその後を追った。
※
たどり着いたのは巨木の森である。
枝ぶりなどで杉だと分かるが、その大きさは常識を超えている。どれもこれもビルのように巨大で、葉の茂るあたりは高すぎてよく見えない。
「ほええ、めちゃくちゃ立派な森っす。こんな大木見たことないっす」
「すごいな……幹周り何十メートルあるんだこれ」
そして村とは大木に瘤のように造られた家の集まり。地上からざっと30メートルほど上にあり、半分は幹にめり込んでいるような家だ。
しかし大木のスケールからすればまだまだ中腹。一番下にある枝でも屋根のさらに上にある。
幹には木の板が埋め込まれて階段になっており、僕たちはそこを登っていく。階段の一段はバスマットぐらいの大きさがあって、転んでも落ちる心配はなさそうだ。
「立派な村だな……家もたくさんあるし」
「我らが村はこの求明杉に支えられている。幹の中からは水を得られる。土を盛って畑も作れる。豚も飼える。樹木から降りずに一生を終えることもできる。それが葉隠の村である」
藤十郎は頭巾を下ろしていた。30手前ぐらいの落ち着いた顔立ち、四角い輪郭と、常に強く食いしばるような顎の頑健さ。いかにも真面目そうで融通が利かなそうだ。
「姫騎士さん、この森には名前あるの?」
「いえ……」
姫騎士さんは少し困惑の顔をする。周りを見て、そして僕だけに届くように言った。
「ここは……あえて言うなら葉隠の森ですね。ここは私が名付けるべき場所ではない気がします」
? 何だか普段と様子が違う。いつも自信に満ちている姫騎士さんなのに、今日はなんだか不安そうだ。
姫騎士さんは黒架の城を「鏡の中のラインゼンケルン城」と呼んだ。
黒架の氏族名がラインゼンケルンと言うらしいのでそう名付けたようだが、本来あの城には別の名前があったのかも知れない。
つまり姫騎士さんの付ける名前とは、姫騎士さんが理解の助けとするための仮の名前と言えるわけだ。
それなのにここには名前を付けない……。それは何を意味するのだろう。
そもそも僕たちは、何がきっかけでこんな場所に……。
「まず村長にお目通り願う。そちらの異形の娘の滞在の許可を得ねばならぬ」
「もー、その異形の娘って言い方なんか雑で嫌っす。吸血鬼っすよ、高貴な一族なんすよ」
黒架は不満そうだ。いきなり襲われたのだから仕方あるまい。
並びとしては藤十郎が先頭、次に黒架、僕、そして姫騎士さん。どうも何かにつけて僕を女子二人が挟むことが多い。芸人のように自然に決まる立ち位置かも知れない。
階段は吊り橋になったり樹木に掘られたトンネルになったりして続く。上の方はかなり複雑な構造だと分かる。奥に見えるあの立派な屋敷が村長の家だろうか。三本の幹から蜘蛛の巣のように吊橋を渡し、その中央に建っている。
まだ距離があったので問いかけてみる。
「なあ藤十郎さん。今って元号で言うと何だっけ。それとこのあたりの領主様は?」
「今は和天の御代であろう。このあたりの領主ならば花備の城におられる妙華様」
聞いたことないな……。姫騎士さんはどうだろうと思い顔を背後に向ける、そこにはふるふると首を振る姫騎士さん。
「天和……てんなとかてんわと呼ばれる元号はありましたが、和天はありませんね。お城の名前も覚えがありません。ここは日本の歴史とは隔絶した場所なのでしょう」
「そうか、重奏だからね」
「確かにそうなのですが……あまりにも、広大すぎるような」
「二人とも、止まるっす」
はっと口をつぐむ。黒架の鼻がわずかに動いている。
「どうしたの」
「樹皮からの匂いで分かりにくかったけど、血の匂いがするっす」
血の匂い。
それに反応したのは先頭の藤十郎。一度真上に飛び上がり、樹皮を蹴っての三角跳び。しかしその跳躍力はオリンピック選手など問題にならない。かるく15メートルは飛んで隣の幹に、そしてさらに飛んで奥の吊り橋へ。
「先に行ってるっす!」
黒架の背中が弾ける。仕込み糸をちぎってワンピースの背中に大穴が空き、そこから伸びるのは蝙蝠の翼。一気に左右2メートル以上の伸展を見せて勢いよく打ち下ろされる。そして弾かれるように翔ぶ。
「黒架! 気をつけて!」
僕も走る。しかしこの位置からは幹周りを一周して、吊り橋とトンネルを通らねばならない。僕は段差を一つまたぎで超えて追う。ちらと後方を見れば姫騎士さんが遅れている。袴では階段を走れないようだ。
そして近づくに連れて聞こえてきた剣戟の音。何かが空を切って飛ぶ音。その奥に確かに聞こえる、人の叫びが。
たどり着く、蜘蛛の巣のような吊橋の上に建つ家。その屋根の上に三人の人物。
一人は藤十郎、もう一人は翼を生やした黒架。
そしてもう一人は。
「何だ……あいつ」
その外見は、一言で言うなら鎖人間。
腕と言わず足と言わず、首にも肩にも頭部にも無数の鎖を巻いている。それは黒く焼き締められた艶のある鎖。だが奇妙なことにはその人物が動いても目立った音が鳴らない。鎖同士が触れ合うちりちりと言う音が、有るか無しか程度に残るのみ。
あれだけの鎖、もし金属製なら長さは30メートル以上、重量は数十キロになるはずだが。
「貴様、何故我らを襲う」
藤十郎が言う。見れば彼は肩口を押さえていた。空いた手で刀を握り、その鍔から鮮血がしたたる。
「我らに何の恨みがある。貴様は何者だ。なぜこの国に来た」
「藤十郎のおっちゃん。建物の中から嫌な匂いがするっす。死んではいないみたいだけど、余裕なさそうっす」
黒架は空に浮いている。あの翼の大きさであっても羽ばたいて飛べるはずはないが、そもそも翼は動いていない。時計ならば十時十分の確度で固定され、翼膜を震わせるのみだ。
「なので! 戦いならとっとと終わらせるっす!」
翼を打ち付け、黒架が滑走。
屋根瓦を吹き飛ばす加速。鋼鉄すら斬り裂く爪を伸ばし、すれ違いざまに一撃を。
ぎいん。と無数の金属音が重なり合う。
だが斬れない。火花を散らすだけだ。
そして見えた。黒架に比べれば鈍重な動きだが、そいつはのっそりと腕を伸ばし、すれ違う黒架の足首を掴む。
「っ!」
そして瞬時に加速する腕。大上段から振り下ろす動きだ。黒架の体が半円を描いて屋根に叩きつけられる。無数の瓦が粉砕され、屋根全体が沈み込むかに見える。
「がっ……!」
「黒架!!」
何という力。あの鎖を巻きつけた腕であれだけの膂力を示すのか。
そして男は刀を抜く。それはノコギリのようにぼろぼろに刃零れした刀。鎖の隙間からそれを抜き、黒架の首を狙おうと。
「こ……この!」
一閃。黒架の爪が空を斬る。男は身を引く素振りもない。
鮮血が散る。斬ったのは黒架自身の足だ。膝から下を切断してバク転の動きを見せ、その足は回転の動作の間に伸びて再生する。
「再生……あんな能力まで」
黒架の顔は蒼白になっている。
夜を歩く者だからではない。今の一連の流れで生まれた濃密な殺気。それに触れたために血の気が失せているのか。
今の攻防で分かった。あの男はあまりに危険。せめて姫騎士さんが追いつくのを……。
いや、僕がやらなければ。
僕はリュックを投げ捨てて剣を抜き出す。あの鎖を斬り裂いてやる、そうでなければ鎖ごと中身を砕いてやる。そんな殺意を高ぶらせて。
爆発が。
「!?」
予備動作も導火線の音もない。鎖男を中心とした爆発だ。白煙があたり一帯に炸裂し、それは重力に引かれて長い足を形成する。
そして煙が晴れたとき、そこに鎖男はいなかった。
落ちたのか、走り去ったのか。
何一つ気配のかけらも残さず、消えてしまったのだ。




