第五十五話
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無限堂とは西都の中央通り、足湯のある広場の斜め向かいにある、つまり観光の中心としてでんと構える名物だ。僕は姫騎士さんの家に行く前に、その前を通りかかる。
くすんだ色の和風の構え、立派な瓦屋根と、路地の奥にはブリキの看板。大きく開かれた入口から中を覗けば土産物や菓子類が並び、奥の方がパン類の棚になっている。ふわりと漂う小麦の香りと甘い匂い。そして壁に留まる蝶のように、ひそやかに存在する硫黄の気配。
「いらっしゃいませ」
少し立ち止まっただけなのに、レジ前にいた店主らしき人物に声をかけられる。愛想が良いことでも有名なお店だ。
僕はどうしようかと思ったが、意を決して敷居をまたいだ。
「ええと、あの、こちらのお店って今度のスイーツコンテストに参加するんですか」
店主は30手前ぐらいの若い女性である。薄桃色の和装をして、藍色の頭巾で髪を包んでいる。
「はい、毎年出させていただいてますので」
花のような朗らかな笑顔である。子供のころから何度も来てるお店なためもあって、緊張感を維持するのが難しい。
「あの、実は夏休みの自由研究でスイーツコンテストのことをやろうと思ってて、今年はどんなもの出すのか聞いてもいいですか」
子供が考えたような言い訳だが、女性は疑う素振りもなく話してくれる。
「ええ、今年は大福を出そうと思ってるんです。小粒なものを四つ箱詰めにしましてね。エディブルフラワーという食べられる花をあしらって、全体を四つ花弁の花に見立ててるんですよ」
「無限堂といえば湯ごねパンですけど」
「湯ごねパンが一番売れますからねえ。それで菓子パンを作ってもいいんですけど、うちは本来は和菓子のお店ですから、今年はあっと驚かれるような和菓子を出せればと思ってます」
湯ごねパン、それは西都の名物である。
こねた小麦粉に熱湯を加えてどろどろに溶かす。これを糊化というが、それをパン生地に10から30%ほど加えたものが湯ごねパン。もっちりとした日本人好みの食感に仕上がり、パサつきにくいのでお土産品にも向いているという。
ただのお湯ではなく温泉である。西都には何種類かの源泉があるが、その中に硫黄分が少ないものがあり、その源泉で湯ごねを行うわけだ。
その食感はモチやマシュマロにも喩えられる独特のもの。驚くほど伸びるのに舌に触れた先から溶けていく。もっちりと歯を押し返す弾力と、かすかに香る温泉の風味が魅力である。僕も子供のころから何度も食べている。
……その僕の記憶、確かに無限堂は昔からここにあって、僕も何度も来た覚えがあるのだが、その無限堂が何か特別なものなのだろうか。吸血鬼の城や、闇に堕ちたバクに囚われていた団地のように、西都に潜む闇だったのだろうか。あるいは無限堂などという店は、本当に昔から存在したのか……。
「よろしかったら持っていかれますか」
はっと気がつく。おそらくは数秒の忘我。僕の沈黙を見て店主が話を継いでくれた形だ。
「え、いいんですか」
「構いません。まだ試作を重ねてるところですので、本番ではもっと素敵なものをお出しできると思いますが」
そして厨房の方へ行き、小箱に入ったそれを持ってきてくれる。
小さな箱の中にぴしりと収まった四つの大福。一つは栗ぐらいの大きさだろうか。淡い青に染められており、なるほど、中央に小梅が配置されてるので、全体が四枚花弁の花のように見える。
「おいくらですか」
「いいえ、未完成ですのでお代はいただけません。3日ほど日持ちするとは思いますが、夏場ですので念のため今日明日のうちに召し上がってください」
「はい、ありがとうございます」
語彙は標準語だが、アクセントにどことなく優雅なところがある。京都あたりの人なのだろうか。
「あの、ご主人ってお名前は何と言うんでしょうか」
「十和澄と申します。十和田湖の水が澄むと書いて十和澄です」
トワズミ、その名を聞いて永遠という言葉が連想される。
永遠、無限、悠久不変。この店は僕が子供のころからあるし、西都でもっとも古い建物であるかに思える。
無限のイメージ、それがなぜか背中にのしかかるように思えた。
僕が何か、とりとめのない概念的なものに立ち向かおうとしている、ような……。
※
西都の北にある山にはだらだらと蛇ののたうつような道があり、そこを延々と登っていけば姫騎士さんの家だ。
家というより山城か何かに見えるほどでんと構えており、西都の町のどこからでも見える。
姫騎士さんの家には呼び鈴もあるが、裏口はいつも鍵がかかっておらず、御用聞きの雑貨屋さんなども自由に入っているらしい。つまり本来的な意味での勝手口があるのだ。
僕もそちらから入る、ふわりと甘い匂いがした。
「ごめんください、誰かいますか」
「昼中さん、台所まで来てください」
よく伸びる声が返る。僕が来たのが分かってたような即応性である。分かってたとしても驚きはしないが。
複数の建物が有機的に繋がる広大な家。台所に向かえばエプロンに頭巾姿の姫騎士さんがいて、ボウルの中でクリームをかき混ぜていた。
「すいません、いまお菓子を作っていたもので」
「そうだったか、お邪魔だったかな、電話でも良かったんだけど……」
「いえ、折角ですので召し上がっていってください」
出来上がったのはシュークリームだった。それを水飴で接着し、山盛りに盛り付けている。クロカンブッシュとか言ったっけ。
「これ……10個以上あるけど、姫騎士さんが全部食べる感じだったのか?」
「いえ、自分で食べるのは5つぐらいで、あとはマッシュポテトや蒸し野菜を詰めてお夕飯にするつもりでした。昼中さんが来られたので全部クリームを詰めたんです」
なるほど、シュー皮は料理の盛り付けにも使えるからな、さすが姫騎士さんだ。
5つでも多いよな、という言葉が床の上を歩いていたので外に蹴り飛ばす。
そしてローテーブルのある和室に移動して、紅茶とともにいただく。
「うん、美味しい。バニラの香りもいいしシュー皮も軽いし」
「あ、本当です。美味しくできました」
「皮がきれいに膨らんでるし、焼き色も悪くない……」
と、そこで用件を思いだした。食べながら手短に伝える。
「スイーツコンテストの審査員ですか」
「ああ、亜久里先生がぜひ出てほしいって」
ソワレに教えを受けるために亜久里先生に協力を頼み、そのために姫騎士さんをコンテストに誘う。なんだかゲームのお使いクエストみたいになってるが、ともかく亜久里先生からの要望という体で説明する。
「いいですよ。コンテストの日は剣道部の練習も休みですから」
「ありがとう、じゃあそのうち町の方から呼びかけがあると思うから」
全国大会二連覇とはいえ、高校生を町のイベントにゲストで呼ぶのは奇妙な話だが、姫騎士さんならば当然ありえる話だ。僕の欲目ではなく、誰もそんなことに疑問を持つはずがないと断言できる。
「それと……」
「はい」
ぐ、と姫騎士さんが身を寄せる。そのしなやかな白い指が畳の目に擦れ、大きな瞳が僕を見る。一瞬、僕の中の安定性が撹拌されるような感覚。
「……姫騎士さん、無限堂さんを知ってる?」
「はい、ときどき剣道部への差し入れがあるのですが、それで戴いたことがあります」
姫騎士さんはやや僕との距離を詰めてると感じる。行動に変化があるわけではなく、これまであった壁のようなもの。僕と姫騎士さんの間にあった遠慮や配慮といった目に見えない壁が消えつつあるのだ。
「そうか、姫騎士さんも認識してるのか……」
「無限堂さんがどうかされたのですか?」
「いや、スイーツコンテストの件で、亜久里先生が無限堂の話をした瞬間なんだけど、先生の言う重奏が出現したらしい」
「そうなのですね」
姫騎士さんは曖昧に言う。特に動じてる風でも、何かを察したわけでもなさそうだ。少し考えてから問うてくる。
「無限堂さんに『眠らざるもの』が居るのでしょうか」
それも何度か出てきているキーワード。世界の滅びに関係する何か、であるらしいが。
「そうだな……あそこは確か、店主と何人かの職人さんがいたはずだが、そこに人ではない何かがいるってことかな?」
そして僕は無限堂でもらった和菓子を出す。
「で、これがコンテストに出す品……その未完成品らしいんだが」
「ええっ!?」
大げさに驚く姫騎士さん。そのリアクションにこっちも驚く。
「ど、どうしたの!?」
「和菓子があるならシュークリーム減らしましたよ……」
「そ、そう……」
とはいえ、姫騎士さんはきびきびとお茶の用意をする。今度は濃いめの玉露だ。ごく普通に食べる流れになってるけど別に僕は逆らわない。姫騎士さんの行動に物申すなんてとんでもない。
食べてみる。もちりと歯が沈み、それでいて皮の表面は唇を押し戻す弾力がある。脳の奥に響くような花の香り。
「これ、和菓子ではありませんね」
姫騎士さんが言う。
僕も何となく和菓子とは違うと感じた。しかし具体的に何が違うのだろう。
「この大福の生地には小麦粉が入ってますし、発酵してます」
なるほどこれはパンだ。もちもちして艶やかなので大福にも思えるが、神経を細らせれば確かにパンの香りがある。濃いめの花の香りでパンの香りを抑えているのだ。
「大福って原料は白玉粉だよな。小麦粉を加えると和菓子と言えなくなるのかな」
「和菓子は基本的に発酵という技法は使いません。くずもちは乳酸菌発酵させるものもありますが、それが唯一無二の例です。ただ、白玉粉と強力粉を混ぜた大福パンというものは存在しますし、無限堂さんは湯ごねパンも出しているので、お店としては自然な発想です」
白玉粉と小麦粉の配合が絶妙なのか、パンらしさがギリギリで抑えられて和菓子としての風格を保っている。
中身はというと白あんだ。しっとりしてて濃厚に甘い。柑橘系の何かが入ってるかもしれない。小梅も舌休めにちょうどいいし、実に細部まで工夫が凝らされている。さすがの仕事だ。
やがて僕と姫騎士さんで二つずつ食べ終わり、濃いめのお茶を味わう。
うーむ満足感がすごい。さっきたっぷりとシュークリームを食べたのに、思い出されるのは大福のめくるめく思い出だけだ。どうでもいいけど姫騎士さん夕飯食べられるかな。
「……それで、この大福に何か特別なこととかあるかな?」
姫騎士さんを中心として起こっている不思議な事象。無限堂さんも「それ」ではないかと思っていたのだが……。
「うまく説明できないのですが、確かに何かを感じます。一般的ではないもの、特別なもの、神秘的、悪魔的、霊的、根源的。そんな言葉が浮かびます」
「危険なものかな」
「まだ断言できません。ただこれは、そう、きっと菌に秘密があるんです」
「菌?」
姫騎士さんはしゃんと背筋を伸ばしてうなずく。いま気がついたがエプロンの下は柄物のTシャツにロングスカートという姿だった。そのようにくだけた格好の姫騎士さんは新鮮な気がする。
「考えてみれば菌さんも「眠らざるもの」と言えるんじゃないでしょうか。きっと無限堂さんの使うパン種に何か秘密があるんです。それを確かめるべきだと思います」
なるほど菌か。
イースト菌か天然酵母か、無限堂さんが何を使ってるのか知らないが、それが異常なものなら放ってはおけない。予言のこともあるし調べねばならないだろう。
「じゃあ忍び込んで調べるしかないな。今夜にでも……」
「湯ごねパンは前日からの準備が必要ですから、明日の分の仕込みはもう終わってるかも知れませんね」
姫騎士さんはテーブルを指でなぞる。
「それに忍び込むのはよくありません。まだ悪いことをしてると決まってるわけではないのです」
確かにその通りだ。しかし、ではどうしよう、無限堂にバイトとして潜り込もうかな、しかしさっき顔を見せてしまったし……。
「三日ほどお時間をいただけますか」
「三日? うん、いいよ、何か準備があるの」
「無限堂さんのパンを全部食べてみないと」
……。
「必要あります」
「いや別に疑ってないです」




