第五十二話
残り香を追う。
それは幽かな大気の揺らぎか、足跡の残熱か。その人物が持つ輝くような気配のゆえか、迷うことなく後を追える。
階段を何度も登り、たどり着いたドアを開ければ、そこは屋上だ。
ここは事務棟の屋上にあたる場所か。遊園地の片隅にあり、三階建ての屋上からは園の広い範囲が見える。浅い角度からの夜景は遊具の光が重なり合い、水彩画のように淡い色彩に染め上げる。
遠くにはくろぐろと横たわる山の稜線。空には月と星。真夜中であっても光が満ちているように思える。
「姫騎士さん」
彼女はそこにいた。手すりにもたれかかって遠くを眺めている。
「……昼中さん」
その彼女の顔。
悲しみに沈むような、それでいて頬が上気するような気配。ほろ酔いのように揺蕩う眼差し、姫騎士さんが複雑な感情の中にいることが分かる。
彼女に近づくほどに、何か危険な領域に踏み込むような気がする。皮膚を突くような空気の硬度。彼女に話しかけることも、その眼を覗くことにも神経が張り詰める。それは畏れ多い、という感情だろうか。
「姫騎士さん、夜涼みしてるの。ここは涼しいね」
「……私のせいなんです」
真珠の粒を落とすように言う。言葉の一つ一つが手すりを越えて落下し、はるか下に当たって砕ける。それはこの夜限りの言葉。
「私がこの異変を招いたんです。私が、遊園地に来たいと言ったから」
「そんなことはない、ただの偶然だ。ただ巻き込まれただけだ」
「今回のことだけではないんです。バクのことも、桜姫さんがハッキングされた件も、黒架さんのことも……」
「……そうじゃないだろ、黒架はもともと吸血鬼だった」
その僕の言葉は、しかし、自分でそうしようと思うほどには誠実さが込められなかった。
僕自身も感じている、すべては偶然などではないと。
科学とかオカルトとか、あらゆるものが濃密に混ざりすぎている。
もしこれが世界の本当の姿と言うなら、世界は一ヶ月も持たずに滅びるだろう。
これはいわば、傾斜。
察したのは、姫騎士さんが空御門氏を「眠っていない」と形容したときだ。
あの時から事態は一気にエスカレートしている。姫騎士さんの成すことに呼応するように肥大していた。
本来は出会うはずのなかったもの。それぞれが心の内にだけ秘めている世界。それが現実の世界に染み出し、混ざり合っている。その中心にいるのが姫騎士さんなのは、察せざるを得ない。
「姫騎士さんは何も悪くない」
それは心の底からの言葉だ。起点であることと、非があるかどうかは別の話だ。
「姫騎士さんは僕たちを救ってくれた。だから恩を返したい。眠りたいというならその手伝いがしたい。それだけなんだ」
「……毎日、たくさんのことに気づくんです」
そのように言葉をこぼす。
「自然の中に、夜空の星に、時間の流れの中にたくさんの気付きがあります。何もかも手にとるように分かるんです。より正確に言うなら、どうやってその情報を得ればいいのかが分かるんです。私の周りにたくさんの本が積み上げてあって、どの本のどこに何が書いてあるのか、色や形を把握するように分かるんです」
「……」
「どこかで、私と同じ役目を負った人がいました」
それは初めて聞く話だ、姫騎士さんが悲しい告白をしていると感じ、拳をぐっと握って言葉を受け止める。
「その方は眠ることがなく、死ぬことも、目をつぶる瞬間もなかった。その役目はすべてを把握すること。世界の中心にいて、数え切れないほどの広さに視野を伸ばすことが役割でした」
夜空に指を伸ばす。遊園地の明かりにあぶられて、夏の星座は揺らめいて溶けそうに見える。
「その方は長い歳月の中で衰えました。眠りを求めていたのです。そしてほんの少しだけ願った。世界のどこかに、自分の代替わりが生まれますようにと」
「姫騎士さん、それは姫騎士さんがそう思ってるだけだ、確たる証拠が」
「でも私は、それに成りたくない……」
光の粒が。
そのあまりの美しさに、夜景の照らす横顔に、僕は一瞬、時の流れすら忘れた。その大きな瞳からこぼれ落ちたものが、涙だと分からなかった。
はっと気づいて、僕はその背に手を当てる。
「姫騎士さん落ち着いて。錯覚だよ、そんなことが起こるはずがない。人がそれになるなんて……」
「そ、それは、山が押し寄せてくるように圧倒的なんです。自分ではどうにもできない。私の本来の記憶とか知識とか、身につけていた人格とかが、どんどん点のように遠ざかるんです。取るに足らないことに思えてくるんです。昼中さん、私はまだあなたの近くにいるでしょうか。とても遠いものになっていないでしょうか」
――誰もがうらやむ高嶺の花、姫騎士さん。
他の人から隔絶していて、孤高であり唯一無二である人。
だが本当に人とかけ離れてしまったら、あまりにも遠いものになってしまったら、その時に姫騎士さんは自分を認識できるのか。今の、ごく普通の少女としての姫騎士さんはどこへ行ってしまうのか。
「大丈夫、姫騎士さん。僕がそばにいる。僕はずっと姫騎士さんのことを見ている。ごく当たり前の素顔も知っている」
「でも、昼中さんは……」
いつしか、姫騎士さんの両肩に手を置く形になって。
そして見た、姫騎士さんの虹色に光る虹彩。
その奥には混沌たる感情が秘められていた。これは傍から見ればとても小ずるくて、女性としてのか弱さを押し付けるような行為。姫騎士さんはそれに縋ろうとしていた。泥臭い人間性を求めていた。
「姫騎士さん……」
それが理解できる。姫騎士さんは僕を求めている。人間らしいどろどろした世界に足首をねじ込もうとしている。僕はそれにどう答えるべきか。
……いや。べき論ではない。
僕は姫騎士さんに従うと決めたのだから。
それまでの僕は空っぽで、未来がなくて、刹那的だった。
本来なら世界の片隅で忘れ去られていた僕、そんな僕を救い出してくれたのだから。
だから従おう。姫騎士さんが踏み越えるなら、僕が先に踏み越える。僕が先に混沌の罪を犯す。それでどんな罰を受けるとしても、最後にすべてを失うとしても。
それでも、僕は。
「昼中さん」
がし、と二の腕を掴まれる。
指を食い込ませるような強い掌握。強いうるみをたたえた姫騎士さんの瞳。
「打算ではないんです」
「……?」
「運命です。私も昼中さんと同じです。ずっと眠っていたんです。自分が異常な存在だと気づかなかったんです。この世界に眠りがあるんだと教えてくれたのは昼中さんなんです。だから昼中さんは特別な人なんです」
……。
そう、それも正しいのかも知れない。
この場面は、人間の領域に立ち続ける手段か。雛鳥の刷り込みのようなシンプルな好意か。
真実はどちらでもいいし、それ以外の何かでもいい。
世界は無数に存在して、重なり合って存在するのだと。
僕たちは互いに重なり合っていた。精神的にも、そして今は、物理的にも。
濃厚で情熱的で。明日をも知れぬ者だけが持つ全身全霊さがあって。
幸福で劇的で、そして後ろ暗く、悲しくもある接触。
「昼中さん、私……」
「ずっと守る。約束だ。けして君の望まない未来になどならない。それが人智の及ばない世界のことなら、僕も人間を超える。想像もつかない世界に行ってでも守る」
必死さの中で言葉をかき集める。僕たちは何度も抱き合って、互いの実在をかき集める。そうしなければこの体が霧になって霧散してしまいそうだ。全力で彼女の体をかき抱く。
僕は地獄に落ちるだろうか。
黒架を裏切ったことがたまらなく悲しくて、心に穴が空いて、何もかもがそこから流れ出していくようで。
それでも、どちらも捨てられない。
だから地獄に落ちよう。この世のあらゆる罪を受けて、その名に永遠に消えぬ汚名を刻まれよう。
だからどうか、今だけは。
今だけは、姫騎士さんの悲しみを忘れさせる力を……。
※
東の果て、山の頂点が白み始めている。
多少は眠れたためか、それとも違う理由なのか眠気は無い。黒架は少しふらついていた。
「うーん……頭がちょっと重いっす、低血圧っす……」
「大丈夫か、ちゃんと目を覚ましてないと、また戦いになるかも」
「皆さん、大丈夫ですか」
姫騎士さんが言う。
僕たちは観客席に並び、座りはせずに構えている。亜久里先生は桜姫を連れて少し後ろにいた。
「ようやく把握できました。あの方のことを」
ヒーローショーは始まっている。司会のお姉さんは一体どのような認識の中にいるのか、紫色の空の下でステップを刻む。天秤ばかりの分銅のような姿の怪人が、静止摩擦力がどうのと口上を述べている。
「ヒーローを続けている動機だね」
「はい、私はこれまで動機を聞き出そうとしていました。先ほどはそれがなぜか強い拒否を生んだのです」
ジャスティスマスクが地球を滅ぼしてしまった世界だから、過去について語りたくないのかと思っていた。それとはまた違うのだろうか。
彼……空御門氏がヒーローを辞められない理由とは。
「何もないのです」
……。
「空御門さんは通常ではありえないほど自己評価が低いのです。ヒーローを辞めないのは、辞めてしまうと何にも戻れないからです」
亜久里先生が調べていた情報を思い出す。少年期の暴力的なエピソード。スポーツに打ち込んでいたが、それを成人後の進路にできなかったこと。
そんな断片だけで人生を評価することはできないが、おそらく、それは人を特異な何かにするほどのものではない。
「空御門さんはヒーローとなった理由を語れないんです。どんな理由でも嘘になるから。逃げたくてたまらないのに、逃げてどこへ行けばいいのか分からない。それがあの方の悲劇なんです」
そうだ。つまりそれは、共鳴器。
空っぽの器は中身がなく、ただ音だけを拡大させる。姫騎士さんという音を思い切り共鳴させた。今回の事態とはそのような理屈ではないか……。
……ああ、僕と同じだ。
本来の自分はどんな人間だったか、どんな役割を持つ者だったか。分からないから不安で、だから今の場所から動けない。
だからヒーローという、架空の存在にすがってしまうのか。
「じゃあ、どうやってヒーローを辞めさせるっす?」
「辞めてしまえばいいのです。たとえ何もないように感じても、必ず素顔というのはあるのです。だからスーツの解除コードを使って強制的に脱がせましょう。その後は怪人が襲ってくると思います。これは私たちで排除するしかありませんね」
解除コードか。
みんなには設定を説明している。あのスーツの由来であるとか、設定上の性能などだ。もちろん、あのスーツがテレビ版や漫画版と同じものとは限らないが。参考にはなるだろう。
基本的にスタンドアローンな兵装であるはずだが、緊急時のために外部から解除できるシステムがあってもおかしくない。
「あったとしても、敵側が利用できないように解除コードが書き換えられてるんじゃないか。敵の首魁、ゼロ・シャドウが開発者なわけだし」
「ジャスティスマスクさんに教えてもらえばいいのです」
「はい……?」
姫騎士さんはフィギュアを持っている。それはガチャガチャで手に入るジャスティスマスクのフィギュアであり、手の平に収まるほどの大きさしかない。
「亜久里先生、桜姫ちゃんをこちらに」
「ん? いいよ」
亜久里先生の膝から降りて、とてとてと歩いてくるメイド服の少女。
「どうした!」
「ごめんなさいね、ちょっとだけ体をお借りします」
そして桜姫のさらさらと柔らかい髪に、ジャスティスマスクのフィギュアを埋める。
「む!」
ぴきいん、と電子音が鳴って、桜姫の目が青く光る。
「ジャスティスマスク、スーツの解除コードを発信してください」
「おーけー」
なんとなく低く渋めの声になって、桜姫の髪が逆立つ。
そしてステージの青いスーツが、ものの見事に剥がれ落ちて。
次の瞬間、ステージの周囲から飛び出す影が。




