第五話
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夢判断的に言えば、追われる夢とは抱えている不安の表れ。決断を迫られている焦りの心。
巨人とは目上の人や肉親の象徴。たくさんの腕で捕まれるとは依存心の表れ。ぬいぐるみとは寂しさ、愛情の不足を意味する。
何もかもそのように夢判断的に整理できるわけではない。だが一つ言えることは、恐ろしく感じていたあの怪物は僕が生み出したもの。
複数の要素が重なっていた、というだけではない。何よりも僕が理解を拒んだから、正体を見極めようとしなかったから、怪物は怪物のままで家を這い回っていた。
「昼中さんのご両親と連絡が取れました」
二日後のこと、姫騎士さんがそのように告げる。高校の屋上にてセーラー服が春風に揺らめく。
「秋田県の旅館にて住み込みで働いているそうです。債務については私の家が懇意にしている弁護士さんに相談しました。完済扱いとはいきませんけど、債務整理が順調に進めばだいぶ減額できるそうです」
「何か……あまり良くないところから借りていたとか」
「それはお父様の誤解もあるそうです。たとえ反社会的組織からの借金でも、司法が介入すれば解決できますよ」
ただ、と姫騎士さんは少しうつむく。
「仕事もあるので、すぐには戻れないと……どうしましょう、ご住所をお伝えしますから、会いに行かれますか」
「……いや、まだいいかな。無事でいてくれればそれで」
何もかも丸く収まった、というわけでもない。
事情があったとはいえ、高校一年の息子を残して失踪したことに何の非もないとは言えない。借金のことについても解決する手段はあったはずだ。両親はもっといろいろな人に相談すべきだったし、債権者の言いなりにならずに勉強すべきだった。だいたい、僕を見張っていた借金取りの男が僕に危害を加える、という可能性を考えなかったのか。
向こうもおそらく似たようなものだろう。会わせる顔がないというやつだ。
だが修復不可能とは思わない。気持ちの整理をつける時間を置いて、借金にも完全にけりがついてから会うべきだろう。
「姫騎士さんは、もしかして知ってたの」
僕の町に潜んでいた借金取りの男。僕の妄想の一部であった一つ目の怪物。僕を見張っていた視線。
温泉しかない小さな町だ。素性の知れない男がうろついてれば噂になったかも知れない。姫騎士さんは僕の身を案じたか、あるいは町に妙な男がうろつくのを気にして、僕に声をかけたのか。
「何も知りませんよ、偶然です」
そう、偶然に違いない。
古い温泉町なら裏稼業との関わりぐらいあるだろう。それに、僕の家の問題に介入しようとしたとして、そのために僕と寝食を共にする必要などあるはずもない。
何より、まだ姫騎士さんの眠っている姿を見たことがない。あの不眠が演技とはとても思えない。
西都の町でもっとも特別なことは僕の妄想などではなく、僕の家庭の事情でもない。姫騎士さんだ。
世界の中心はいつだって姫騎士さんであり、あの奇妙な、現実か夢かもわからない世界のことも、それはつまり姫騎士さんの冒険でしかないのだ。
「姫騎士さんは、まだ眠りたいと思うの」
「もちろんです」
春のすがすがしい空気を吸い込んで、姫騎士さんは胸をそらす。
「眠っているときのお顔、可愛かったですよ。幸せそうで、安らいでいて、静かで穏やかな息をしていました。どんな心地でいられるのか、とても興味があります」
あの日、気がつけば姫騎士さんの家で朝を迎えていた。
あの奇妙な経験が夢だったとはとても思えないが、さりとて現実とも思えない。
ただ一つ明らかなことは、起きた時の感覚。
今までのぶつ切りの眠りとは全く違う、卵から生まれたひな鳥のような、眼球に光が満ちて、全身に血潮がみなぎるような多幸感。世界が無限に広がっていくような五感の冴え、何ひとつ曇りのない身体感覚。
あれが本当の眠りであり、本当の目覚めなのだろうか。
あるいは僕も姫騎士さんも、眠りについて何も知らないのか、そんな風にも思える。
「協力させてくれ」
僕は姫騎士さんの足元にひざまずく。儀式めいた動作がなければとても言えなかったことでもあるし、そのぐらい姫騎士さんに感謝し、敬愛してたのも本当だ。
「姫騎士さんの手足になって働くし、何でも言うことをきく。見返りなんて求めない。姫騎士さんがいつか眠れるようになるまで、どんなことでも協力するよ」
僕は両手を差し出して、剣を捧げるような仕草をする。
姫騎士さんは柔らかく僕を見ている。けして笑ったりしないし、困惑も見せない。僕が思うよりも姫騎士さんはお姫様なのだと感じる。その白い腕が僕の手を取る。
「ご協力お願いしますね、昼中さん」
その笑顔が。
それを見るだけで人生が満たされるような素晴らしい笑みがある。
僕みたいな男が姫騎士さんに協力できる、その光栄をひたすらに噛みしめたかった。
「それでですね、昼中さん、実は思いついたことがあるんです」
「何かな、なんでも言ってくれ」
「あのですね……」
姫騎士さんは一瞬だけ子供のような、はにかんだ笑みを見せて、秘密めいた声で言った。
「私って、吸血鬼だと思うんです」
…………
……
「…………は?」
それは冗談にはならなかった。
姫騎士さんの言葉は、決して冗談として消えたりしないのだ。
※
男は夜の底を歩いていた。
天を削り取るような摩天楼の眺め。七色に散りばめられた文明の灯。夜空に星は見えず、人々の賑わいは眠りを忘れたように見える。
騒音と光、無数の話し声、音楽と色彩。感情と欲望のうねり。
――ああ。
ずちゃ、と泥を踏むような足音。その男はボロ布のような服を着て、ひどい悪臭に覆われ、病的なほどやせ細っていた。高いヒールを履いた夜の女たちが、ほろ酔いのスーツ姿の男たちが、ぎょっとしてそれを避ける。
――ああ、誰か。
それは暗がりを求めていた。足を引きずり、背を曲げて、光から逃れるように動いていた。
侮蔑の視線が投げられ、ひそやかな罵言も飛んでいた。それは気にならなかったが、洪水のような光と音は耐え難かった。
――誰か、私を。
それは自己を認識し、やるべきことを認識する。
そして歩みを進める。もっと深い闇へ、静かな場所へと。
――誰か私を、眠らせてくれ……。