第四十二話
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町の北部にある石段をだらだらと登る。
その山は町を北風から守り、過度な豪雨を防ぐという。このまま寺の山門にでも至りそうな道だが、ここは個人の邸宅だ。厳密には山の大半が個人の敷地なのだという。
この町の名士なことは知っているが、姫騎士の両親は娘を一人暮らしさせて、いつまで海外にいるのだろうか。
ふと気づく、稽古着姿の姫騎士が門を出て、石段を駆け下りてくるところだった。
鍛錬ではなさそうだ。何かあったようだと見て、私は後ろに跳ぶ。数十段の石段をすっ飛ばすジャンプ。もちろんこの白炎なら危険はないが、良い大人のやることではない。私も少し浮かれているのだろう。
何度かのジャンブで下まで降りて、木立の影に背中を預ける。
ややあって、降りてきた御方に呼びかける。
「姫騎士」
「……! ソワレさん……」
吸血鬼の城ですれ違って以降、何度か会う機会はあった。直近では数日前、私がバクを見かけた翌日のことだ。
姫騎士は動揺を見せまいとするように呼吸を整え、人通りのない並木道を歩きだす。彼女には少し珍しいふるまいに思えた。
「いかがなされました。慌てて降りてきたようですが」
「私の勝手です」
唇を尖らせて言う。それよりも、と逆に問いかけてきた。
「ソワレさん。バクの一件で動いてくれたと聞いています。感謝しています。報酬をお渡ししたいのですが、今は何も持っておらず……」
私が動いていた理由、一つは姫騎士からの依頼だ。
彼女もつい先日、この町に根付くアングの気配に気付いたという。それは昔からいたはずだが気づかなかったのか、あるいは姫騎士の影響により、昔からいた事になったのか、それはどうでもいい。
「報酬など必要ありません」
「……なぜですか? 金銭にこだわる方とお聞きしています」
私は胸に手を当て、ちょっと大げさなほどに格式張った礼をする。
「ご存知ですか姫騎士、人間には無償でも働く理由が三つあります。一つはライフワーク、もう一つは義理、そしてあと一つは」
「……」
つい先程、しっくりくる言葉を見つけたばかりだ。カネ目当てに汚れ仕事をやるハンターだった私だが。それでも。
「天の意志、というものです」
それは原始的な感覚。
つまりは純粋な信仰心だ。それが私にも存在していた。いや、それは生きとし生けるもの全てに存在するのだろう。
天の成さんとすることに沿う、それが人間の役目であると。
「私が……それだと言うのですか」
「ご自覚はあるはず。これこそ天の配剤というものでしょう。私はあなたの護衛のために、その完全なる目覚めを護るためにこの地に至ったのです。なんと恐悦至極なることか」
可能性は考慮していた。かのキンダガートンの予言。この町で世界の滅びに関わる何かが起こると。それほどの事態となれば救世主か、あるいは名状しがたき存在の降誕ではないか、と。
そして気づいたのだ。姫騎士の力は異能という次元を超えていると。
私は姫騎士と並んで歩く。姫騎士は目立つ存在だが、今は通行人が少ない時間帯のようだ。
「なぜ、私だったのでしょう」
蝉時雨を受け、姫騎士は何かを述懐するようにつぶやく。
「生まれた、その時からの定めでしょうな。あなたの体質からして予兆はあったのです。眠ることがない。それは死や老いが無いのと近いものを感じる。完全無欠である、ということの片鱗だったのです」
気になることはある。
姫騎士が天と斉しい存在となるなら、その天の御座は空席なのか。
完全無欠なる者が二人いることなどありえるのか。
あるいは、それは代替わりをするのか。
天の御座がごく短期間だが空席となり、新たな君臨者がそこに座る。その代替わりを守るために私が遣わされたのか。
「では私は、今後も眠ることはないのでしょうか。ずっと起きたままであると……」
それどころか、おそらく人間らしい喜怒哀楽は遠ざかるだろう。過去に現れた超人。救世主と呼ばれる人々がそうであったように。
姫騎士は彼らと同等か、あるいはそれ以上の存在となる。
「姫騎士、眠りに未練があるのですか」
「病室を見たんです」
悲しげに言う。何が悲しいのか分からない。そのような感情は持たせたくなかった。
「バクさんが夢を食べる場面を。皆さん幸せそうでした。夢とは素晴らしいものですね。自分の想像すら超えるものが見られると聞きます。でも私は夢を見られない。昨日の夢を語り合ったり、枕を並べて同じ夢を見ようと試みることもできない。私は、その病室に入って行けなかった」
「姫騎士。あなたはいずれ、もっと素晴らしい景色を見る立場に……」
「私が」
硬質な声だ。そこに拒絶の意志を感じて言葉が止まる。
それは少女らしいかたくなな態度に見えた。彼女はまだ17歳の少女に過ぎず、だが己の力を自覚しつつある。そんな天と地の狭間にある時期。それが姫騎士の少女性と重なり、玄妙で複雑な色を見せるかに思えた。
「……なりたいと、願ったのですか、一度でも」
「天と人は公平ではない」
私は姫騎士を守るべきだろう。全身全霊をかけて。
それは、彼女がくだらぬ卑俗に迷わぬようにする、という意味も含まれる。
「いずれ自覚が進めば落ち着かれるでしょう。あなたが得る力は、魔術と呼ばれる事象すら遥かに超える。その力の前に、人間の精神性など卵の薄皮のごとく……」
「……」
並木道を歩き続ける。
狭い町だ。だが歩けば広い町。いつしか道は川沿いになり、歩道橋を抜けて市街地へ。
「私が、それになれると言うなら」
「はい」
「私の意志で、それを辞めることも可能なはず」
「不可能でしょうな。それは役職ではないのです。そして人間の意思など考慮しない。今の、まだ人間である貴方の意思も聴きはしない」
「いいえ」
姫騎士は振り向き、山を見上げる。いつの間にかだいぶ邸宅を離れていた。山肌に刻まれた石段が蛇のうねるようだ。
「私が人間なら、好ましい方と一緒になることもできるでしょう」
「……?」
「それなら逆説……私が青年期の徒言、色恋沙汰に勝てたなら、きっと私はただの人間であると確定する。天だの超人だのと無縁になれる……そうは思いませんか」
「……」
可能なのだろうか。
僧侶が還俗するのとはわけが違う。それに、仮にそうなったなら世界はどうなるのか。
天に斉しい存在が、その力を捨てるなど。
「そうです……きっとうまく行きます。私だって女の子ですから。それに大体、あの人もひどいと思います。いつの間にか黒架ジュノさんと交際するなんて。私はどうなるんですか。私はそういう話とまったく無縁だと思ってるんですか。私だって気づいてたのに。放っておけない事情を抱えてると思ったからお声がけしたのに」
いつしか、私は視界に入っていないようだった。
姫騎士は独り言を繰り返しながら市街地の方へ。稽古着姿のままだが、まあさほど奇矯な格好とも言えまい。適当に自問自答したら帰宅するだろう。
私は、事態を止めるべきだろうか。
物理的に俗世間から引き離すこともできる。その御身を案ずるならそうすべきだろう。
だが、とてもそんな気になれない。
無駄な抵抗を憐れむからか、それとも人間であった時期の思い出に、人らしい足掻きをさせてやりたいと思ったからか。
「少女……か」
それはあるいは天よりも深遠であり、理解の及ばぬ領域。
あとどのぐらい時間が残されているのか。この西都にこれから何が起こるのか。
今はただ、見守るべきだと思えた。
極東の地の片隅にて、その町は静かで美しく。
そして世界の秒針が、動き続ける音が……。
今後の更新のお知らせ
姫騎士さんの物語はまだ続きますが、もう一つの連載を始めるため、姫騎士さんの更新ペースは落ちるかと思います。
よければ今後ともお付き合いいただければ幸いです。




