第四十一話
※
追われている。
月が照らす古城。多くの影が私を追いかける、追い詰める。私は小さく、手足は短く、そして城は途轍もなく大きく思える。
やがて私は塔のきざはしに立つ。うつろに歩み寄る影が、翼を広げる影が、形を持たず、言葉を投げかけるだけの影が私を追い立てる。
――やめろ。
誰かが私の前に立つ。皆を遮って両手を大きく広げる。それは月影に浮かぶ磔刑台のよう。
――黒架に何もするな。何も負わせようとするな。権力を争いたいなら勝手にやってろ。
その人物は振り返り、私に手を伸ばす。月光が私たちに降り注ぐ。
空に道が。
白樺の木のように白く、世界のあちこちへ枝分かれして伸びていく道が。
――行こう、黒架。
ああ、この人が私を守ってくれる。
この城から救い出してくれる。
私は少女のように幼い体。
彼の手を取るとき、私は大きく成長する。
星空へ飛び出す。
体は軽い、翼が自然と広がり、打ち付ければ驚くほどの距離を進む。私は自分の飛翔が楽しい。そして振り返って見る城は、驚くほど小さく思えた。
私たちは翔ぶ。夜の山を、町の輝きを、のたうつ海を飛び越えて、遠く、遠くへ――。
私のそばには彼が。
私を守ってくれる、この人が……。
※
「ふぇ」
妙な声が聞こえた。
僕は照明を落とした病室で目を覚ます。なんだか夢がぶつ切りになった気がする。実際にはもっともっと長かったような気が。
「ほうぬのっ!?」
眼を開けると、黒架が奇声とともにベッドから転げ落ちるとこだった。
「な、なっ、何してるっすか昼中っち」
「おはよう黒架。さすが吸血鬼だな、もう大丈夫そうだ」
「も、もしかしてずっと一緒のベッドに」
「ごめんな、相談してる暇がなかった。そこにいるバクのためだよ」
指で示す。ベッドの一つにバクを寝かせているのだ。さほど大きくないとはいえやはり動物、ベッドがぎしぎしと音を立てている。そういえばバクはウマよりもサイに近いらしいな。
その毛並みは綿のように白くなっている。体がぼんやりと光るかのようで、腹部の大きなアザはほとんど消えかけていた。
「あ、バクに夢を……食べさせてたっすね」
「アングの本体を倒せたんだけど、バクが負傷してしまったんだ。急いで夢を食べさせないと命が危なかった。だからごめんな、吸血鬼の夢なら効果が高いと聞いたから」
「そういえば私を襲ったアングの分身も言ってたっす。悪夢でも500人分ぐらいの食いでがあったって」
バクもうまく回復できてるし、狙い通りに行ったようだ。
ちなみにここは四人部屋であり、リッチフローとついでに深水先輩も寝ている。
病院にバクを連れ込むのがまず大変だと思われたが、なぜか誰も何も言わぬまますんなり事が運んだ。どうもソワレが独自のルートで口利きをしたらしい。今回のあいつは何を考えてるのかさっぱり分からない。あとで金をたかられないように気をつけないと。
「黒架」
「な、何っすか」
「まだ寝足りないだろ、一緒に寝よう。リッチフローたちが起きるから、静かに」
「えっ、いやでも、その」
「いいから」
黒架は青白い顔を上気させて恥ずかしがっていたが、やがて観念したようにベッドに入ってくる。ちなみに二人とも入院着である。僕も今日から入院なのだ。リッチフローと深水先輩には大きな外傷はないが、念のため精密検査をするとかで入院するらしい。
「あの、さっきの夢、なんかぶつ切りだったんすけど」
「僕もだよ、たぶんバクが食べたんだろう。まだ体が治りきってないから、部分的に残ったんだろうな」
たぶん同じ夢を見ていた。
前もそうだったな。バクが夢を食べるとき、ある程度は夢が共有されるようだ。
「確か、城を飛び出して……あの後、どうなったんすかね、私たち」
「すごい長い夢だった気がするな、色々あったんじゃないか」
「色々って、色々の何を」
「黒架」
しっかりと体を密着させ、背中側から腕を握りつつ言う。
「安心してくれ。もう怖い夢なんか見せない。不安な時は僕を思い出してくれ。大切なのは心のよすがだ。いつでも守るよ、たとえ黒架の夢の中でも」
「昼中っち、なんか強気な発言っす……」
「自覚が足りなかったんだ。黒架はなみの人間より強いから、僕もどこかで黒架に甘えてたんだな。僕も強くなるよ。いや、今日からだ。今日から強い僕になる。だから黒架も僕を頼ってくれ」
「……うん」
黒架を抱いていると、僕も安らげる気がする。
今、わかった。これが眠りを共有するということか。
弱い存在が、互いに助け合って眠る。二人の体を一つとする。欠けたものを補い合う抱擁。それが安らぎなのか。
僕は眠りに落ちるとき、ふと病室の気配を探る。
ベッドは四つだ。僕と黒架で一つ、傷を癒やしているバク、リッチフロー、それと深水先輩。
この場に、姫騎士さんがいない。
別に入院するほどの怪我もなく、夢を食わせるにしても姫騎士さんは必須というわけではない。冷静に考えれば姫騎士さんがここにいる理由はない。
ただ、なぜ姫騎士さんがここにいないのか。
そのあぶくのような疑問は、眠りに落ちてもなお、心のどこかに……。
※
「国に帰るわ」
時刻は真夜中。
あれから数日、リッチフローとバクはすっかり回復し、町を出る日が来たという。どこで聞いたのか僕の家を訪ねてそう言う。
「帰るってそんな急に。みんなを呼ばないと……別れの挨拶とか」
「いらないわ。湿っぽいの好きじゃないの」
そんなことより、とリッチフローは手を差し出す。
「あの木剣、返して」
「う……」
僕はカバンに入れてたそれを、おずおずと差し出す。
「……何これ、傷だらけなんだけど」
「し、仕方ないんだ、アングを追い払うためには」
「というかあなた、よく傷つけられたわね。二千年を生きたバクの遺体から生える木なのよ。高炉に放り込んでも燃えないし、特別なノミじゃないと削れないのよ。この彫刻を掘るのに1年かかったからね」
「まあ何と言うか、火事場のバカ力というか……」
なくしたら一千万、という言葉が肩をポンと叩いてくる。いやでもあの時は仕方なかったし、せめて10万ぐらいにまけてくれれば。
「本当は、この木剣あげるつもりだったの」
「え?」
「汚れてるからもういらないわ、とか言ってね。でもダメね、これじゃあなたの戦い方についていけないみたい。もっと相応しい武器を探しなさい」
「武器かあ……」
医者はどうやったらこんな状態になるんだと眼を真ん丸にしていた。あれから数日たつけどまだ筋肉の痛みが引いていない。
とはいえこれは超回復のチャンスだと思うので、たんぱく質を補給しつつマッサージを繰り返している。
「じゃあね」
「あ……うん、元気で」
リッチフローは例の黒づくめの姿のまま、バクを連れて去っていく。真夜中とはいえ、バクを連れて普通に国内を動き回れるのも不思議な話だ。というか検疫とか受けてるんだろうか。
リッチフロー、実にさばさばしていて気持ちのいい人だった。たくましくて強くて、一夜の夢のようにあっけなく消える。
ああいうのを戦士と言うのだろうか。
翌日は日曜だったが、僕は散歩がてら姫騎士さんに会いにいく。リッチフローの帰国のことを告げたいし、退院したら顔を見せてほしいと言われていたし。
「そうですか……帰国されたのですね」
ようやく、一つの事件が終わったという実感がある。
結局のところ姫騎士さんの不眠には結びつかない事件だったけど、バクにもアングにも人間の眠りを奪うような力はないとも聞いている。それを確認するだけでも、多少は進展があったと見るべきか。
「そういえば姫騎士さん、リッチフローには会ったのかな」
「はい、何度か」
姫騎士さんは黒架を助けてくれたらしいが、今回は表立って関わっていなかった。
それでいい、と思う。矢面に立つのは僕でいいんだ。僕が手足となって働くのだから。
「昼中さん」
「はい、何かな」
「約束しましたよね。危険なことはしないと」
「……悪かった。頭に血が上ってしまったんだ」
僕は深々と頭を下げる。
黒架が襲われたこともあるが、それを言うのは言い訳だろう。
「あ、でも大丈夫。腕はまだ治療中だけど骨とか折れてないし、西都病院にちゃんと通院してるから。あそこ院長が変わるとかでドタバタしてるけど、新しい院長が大きな改革に乗り出すらしい。確か峰岸とかそんな名前の……」
言葉をかき集めるけど、姫騎士さんの目は深い憂いの色のまま、それがたまらなく心苦しい。
危険なことはしないと、過去にも何度か念を押されていたのに、あっさりと破ってしまっている。僕はどうも熱くなりやすい性格らしい。自分を戒めなければ、姫騎士さんの戦士として働くためにも。
ややあって、姫騎士さんのかすかなつぶやき。
「昼中さん、もう私の体質に関わらなくてもいいのですよ」
「……」
「眠ることには憧れます。でも、みなさんを危険な目に遭わせてまで協力してほしくありません。入院するほどの怪我をして……」
「姫騎士さん、聞いてくれ」
僕は姫騎士さんの手を取り、必死になって言う。
「今回のことは本当に申し訳ない。でも手伝わせて欲しいんだ。姫騎士さんが僕を心配してくれるように、僕だって姫騎士さんのことが心配なんだ。それに、僕だって戦う力を身に着けようとしている。きっと姫騎士さんを守ってみせる、だから」
「そういうことではないんです!」
姫騎士さんは僕の手を振りほどき、手を両目にあてて固まる。
「……ご、ごめん、姫騎士さんの気持ちを第一に考えるべきだった。でもこれだけは譲れない。姫騎士さんが何かに巻き込まれたとき、黙って見てるなんて出来ないんだ」
「どうしてですか……昼中さんには黒架ジュノさんがいるでしょう。お付き合いしていると聞いています」
黒架?
いやそれは関係ない。もちろん姫騎士さんと天秤にかけることなどできないが、黒架だって姫騎士さんに助けられた身だ。僕と黒架で姫騎士さんをサポートすると、そう何度も話したじゃないか。姫騎士さんは何をそんなに混乱しているのだろう。
稽古着姿の姫騎士さん。誰よりも美しくそして強い人。なぜそんなに、糸のようにか細い声を出すんだ。姫騎士さんは何も考えないでいいのに。僕たちだけが馬車馬のように働くのに。
「昼中さん、特別な人なんて何人も持てるものではないと思います。昼中さんは彼氏として、黒架ジュノさんだけを守っていくべきです」
「もちろん黒架は大切な人だ。でも姫騎士さんだって大切なんだ、何ものにも代えがたい、僕の……」
腕を引かれる。
何を、と思った瞬間、姫騎士さんの顔が。
真近に。
「……!」
互いの呼吸が重なる。強く押し当てる粗雑な動作。腕を斜め下に引かれ、体が前に傾き、僕の髪が姫騎士さんの額に落ちる。
姫騎士さんが離れる。僕は重力の方向が分からない。頭がくらくらして倒れそうだ。
「大切な人だなんて、簡単に言わないでください。言われたら誰でも喜ぶとでも思うんですか」
姫騎士さんは唇を強くぬぐう。その眼の端に光るものが。
なぜ悲しむんだ。なぜ乱暴なことを。
分からない。あまりにも理解を超えている。あるいは理解を拒んでいるのか。僕の頭は今にも砕けそうだ。
「……ごめんなさい。忘れてください。どうか、今日のことは」
稽古着姿のまま、姫騎士さんは門から出ていく。階段を駆け下りていく。僕は後を追えない。足が自分の足だとは思えない。
何が起きたのか、何が起ころうとしているのか。
何一つ分からない、僕だけが世界の速度に、取り残されたような……。




