第四十話 【八の禍戸の禁忌夢継橋】2
直感で分かる。この世界は想像を絶するほど巨大。
雲海の果てに地平線、いや、大地ではないから何と呼ぶのか不明だが、その果ての線に丸みはない。雲海に赤い橋が溶けて混ざるような黄金の線が見える。どこまでも水平に、絶対的なものを感じさせる直線。
少し走るとまた放射状の橋。ある一点を中心に八つに分かれている。いくつかの立て看板があり、判読可能な言葉は少ない。
「獣」と書かれた橋へ進む。何となくこちらが正しい予感がする。というより、正解の道以外はどうやっても進めないような予感もある。
「八の禍戸の禁忌……何となく分かってきた。八とは「たくさん」の意味。夢の戸を開いて他人の夢に入り込む。それはある意味では最大の禁忌。つまりアングを表現する言葉なのか」
分かれ道は必ず放射状であり、そして元の場所へ戻るようなことが無い。奇妙なことだが網の目のような道は、樹形図のような枝分かれと実質的に同じものなのだ。
「凄まじいな、これが姫騎士の能力か」
ソワレが追いついてきて言う。
「夢を渡る存在が、誰かの夢に潜り込むための回廊か。そんなものは概念的にも存在せぬ。あるいは魔術学問としてそのような世界を仮定した者はいたかも知れないが、これほどにあっさりと」
「ソワレ、興奮してるのか」
「これに高ぶらずして何とする。かのエルム街の悪霊に対抗する手段が生まれたのだよ。いつ訪れるとも知れぬ悪夢、そんな曖昧な現象にすら干渉できるのだ」
視界の果てから、点が。
瞬時に身をかわす。僕とソワレの間を弾丸のような速さで鼻が突き抜ける。
「いたな」
まさしく、それはアングだ。かなり大きく体毛が黒い。そいつは口の端から熱い息と体液を流しつつ、眼をぎらつかせる。
牙を震わせ、泡を撒き散らしながらそいつは言う。
「なんでよ……なんでここに人間が来れるのよ。というか何処よここは! こんな場所は私の住処じゃない!」
混乱している。
だが今の僕なら、妙に頭が冴えている今なら分かる。
たとえばそれは、地獄の概念。
死後の人間が行き着く場所があったとして、それは虚無の世界だろうか。あるいは無限の暗黒か。未知なる死は恐怖そのものだった。
だが、人間は死後の世界に形を与えた。三途の川、閻魔大王の裁き、血の池地獄に針地獄。そして与えられた形が共有されれば、それは実在のものともなる。想像の中ならば、鬼を出し抜くことも、地獄を抜け出して生き返ることすら可能。そして人は、死の恐れをわずかに遠ざけた。
この場所も同じこと。ここは夢の居場所。姫騎士さんによって安定化させられ、人が踏み込むことすら可能な場所だ。
「終わりだぞ、アング」
僕が言う。すでにリッチフローから預かった木刀を抜いている。
「もうお前は特別な存在じゃない。触れられる悪夢を誰が怖がる。お前は何者にもなれずにここで討たれる。ただのデカめのマレーバクとしてな」
「黙れ!!」
鼻が伸びる。高揚しきった視神経の中でその動きは止まって見える。僕に向かう瞬間にはもう回避を始めている。
服をざりざりと削りながら抜ける。お笑い草だ、0.1秒も余裕があるぞ。
そして鼻を捕まえ、締め上げる。万力のような力が出ている。足の爪先すらも動員するような全身の注力。
「ソワレ!」
「心得た」
投擲する。銀色の線を曳く短剣がアングの胴をかすめる。
鮮血。くろぐろとしたコールタールのような血が流れる。
「ぐあっ……!」
「おそろしく硬いな。だが今回の短剣は特別製でね。さすがに切れ味が勝ってくれたようだ」
ソワレが跳ぶ。三日月型の短剣を両手で抜き、アングまで踏み込むと同時に腕を交差。すんででアングがかわすところに追いすがる。アングは鼻を伸ばして後方へ。
そして鼻を口元にむけてたわませ、自ら噛み切る。
トカゲのようにはいかないだろう。黒い血がどぼどぼと流れ、ソワレの剣を胴で受け流しながら後退。
「ぐうううっ! くそ! 出てこい!」
やつの撒き散らした血から飛び出す影。それは風に飛ばされる布切れのようなシルエット。やがて形を成すのはアングの影だ。血液から作れるのか。
だが関係ない。僕は躊躇なく木刀を打ち込む。アングの影がゴム人形のように潰れて弾ける。
集中しろ。僕の中にいる巨人を呼び起こせ。床を這い回り、その巨大な手を打ちつけよ。
「があああっ!!」
僕とアングの叫びが混ざる。やつは分身を撒き散らして味方を増やす。だがやつを構成する夢は無限ではないはず。
たとえ無限だとしても、永遠に潰し続けてやる。
視界をよぎる。ソワレに殺到せんとするアングの影。
「幽闇の城塞」
一瞬、ソワレの姿が雲にかき消えるかに見えて、拳に白銀の輝きが宿る。
抜き放つのはキリのようなロングニードル。それは奇跡のような動き。抜いた瞬間に一頭が眉間を割られ、バネ仕掛けのように腕が戻って背後に一投。突進から身をかわす一瞬に三本、視線を動かす先に五本、回転すると同時に十本。
いつ抜いていつ投げたのかほとんど見えない。しかもアングの眉間を正確に狙い、頭蓋骨を貫通するパワーを乗せている。そして身をすくませた個体に最後の一投を。
消える。いや、血液へと戻って流れていく。橋の欄干から七色の雲海へと。
「これで終わりか?」
「はっ……はーーっ、はーーっ!」
アングも息が上がっている。流れ出す血はもはや四足獣に変化しない。
僕も影の一匹を叩き潰し、アングへと向かう。
「アング。もう観念しろ。今なら楽に死なせてやる」
「や、やめてよ……」
そしてアングは、それは元々の性別なのか、あるいは懇願のためか、なよなよとした女性らしい声音になって言う。
「も、もう降参だよ。逃がしてよ。悪いことはもうしないから……わ、私、誰も殺したりしてないでしょ。ちょっと夢を食べただけよ」
「どうかな。知っているぞ、西都病院に20キロものプラスチック爆弾を仕掛けた。病院から人払いをしていたといっても、通行人に隣家の人間、何人死ぬか分からない行為だ。お前が村を離れて70年あまり、どれだけ外道に生きてきたのか推し量れるってもんだ」
「ほ、本気じゃなかったのよお……ほ、ほら、あなたたちに夢をあげる。とびきり幸福な夢とか、淫猥な夢とか」
「アング、やめろ」
僕は一歩、進み出る。アングとの間合いは2メートル。その槍のような鼻で一突きするか、一歩踏み込んで頭を割るには十分な間合い。
「悪に染まったとしても卑に堕ちるな。伝説の獣なんだろ。邪悪なら邪悪の誇りを持て。媚びを売るのはいいが無駄なことをするな。生き抜こうとあがくのはいいが敵に懇願するな。戦えよ、殺意を萎えさせるな」
僕の言葉はとりとめがない。胃液がボコボコと沸き立って生まれてくるような言葉だ。言わんとする事の半分も伝わってないだろう。
「お、お願いよ、私はほんとに、悪いことなんか」
「それなら、一度だけチャンスをやろう」
え、とアングが眼を丸くする。獣の姿ながら、そのような表情はどこか人間臭くもある。
「一つだけ質問に答えろ、正直に答えたなら逃してやる。答えの如何は問わない。心から正直に答えるんだ」
「わ、わかったわ、何でも聞いて」
見下ろす。僕の瞳は殺意で満たされている。
木刀を握る手は筋肉の剛直でひび割れそうだ。
心地よい気力の充実。視界が赤く染まるように思える。体中が火照っているのは毛細管が切れ続けているからか。僕は敵を見下ろす一つ目の巨人。
「お前は」
そして僕は、踏みつけるように言葉を放つ。
「人を、殺したことがあるか」
「え……」
そのミリ秒の瞳の揺れ、肺の縮む気配。それが僕の腕を弾かせる。肩の筋肉をぶちぶちと切りながら振り下ろされる。それは百万貫の重みを――。
どん。
突き立つ。それは彫刻の施された刃。
「迷うやつがあるか……殺したことがある、と白状しているようなものだ」
ソワレが欄干に腰掛けたまま、ふうと息をついた。
いや、欄干ではない。それは廊下にあった手すりだ。
足の下に感じる畳。ふすまと壁で仕切られた狭い部屋。戻ってきたか。
「……僕がやるつもりだった」
「まあそう言うな。汚れ仕事はプロに任せるものだ。綺麗な体でいられるうちが華だぞ」
ソワレは僕のそばに来て、肩やら腕をさする。
針で突かれたような痛みが。
「つっ……」
「折れてはいないが、筋肉の負荷がひどいな。恐ろしい技だ。いや、技と言っていいものかどうか。お前の中にいる怪物を憑依させたな。すぐ病院に行ったほうがいい」
僕はふとリッチフローを見る。制服姿のリッチフローと、黒づくめの深水先輩。
その深水先輩は、きょろきょろと周囲を見渡して言う。
「あの……私、何してたのかしら? それに皆さん、どうして私の家に……」
「大丈夫ですよ、先輩」
せめてその言葉ぐらいは、僕の口から言わせてほしい。
「もう終わりました」
「いや、これから山のように後始末があるけどな」
ソワレは必要ないセリフばかり言いたがる。
「それに少年たち、忘れてないか」
「え……」
どん、と大きなものが倒れる音。
「! そうだ、リッチフローのバクが!」
それはリッチフローの奥側に倒れていた。僕は慌てて駆け寄り、ソワレはリッチフローを縛っていた縄を切る。
「う、腹部のアザがひどい……内臓まで達してるかも」
呼吸もひどく浅い。口の端から泡を吹いており、じくじくと血が染み出してくる。元々ひどいダメージを負っていたのに、アングに乗っ取られてむりやり動かされたせいだ。
「リッチフロー、バクは治癒力が高いと聞いてるけど、大丈夫なのか」
「ちょっと見せて……ダメね。夢が崩れかけてる。このままだと煙みたいに消えてしまう」
「どうすれば……」
「数時間以内に大量の夢を食べさせないと。でも悪夢を食べられる体調じゃないし、西都の全人口ぶんでも足りるかどうか。それに今の時間だと、まだ眠る人が少ないし……」
「……」
数時間。大量の夢を……。
「……吸血鬼の夢なら?」
「吸血鬼? ああ、あなたの彼女だったわね。やってみる価値はあるけど、搬送中なんでしょう?」
「すぐヘリを呼ぶ」
スマホを指で操作しつつ、ソワレが言う。
「15分で来れる。この近くの広い道路まで移動しろ」
「ソワレ、あんた一体どうしたんだ。成り行きとはいえ変だぞ。そこまで協力する義理があるのか?」
確か、ソワレが言っていた、無償でも働く三つの理由。ライフワークと、義理と、あと一つ。
うまく日本語で言えないとか言ってたが。
「今は気にするな、それより少年も乗っていくか?」
「ああ、乗っていく」
黒架に夢を見てもらう。悪夢に悩まされていた黒架に、安らげる夢を与える。それもまた僕の使命だ。
そのためには、僕が必要なはずだ。
一人より二人。二人より……。
いや、僕一人だけが、彼女のそばに。




