第四話 【一つ目遊戯の敷き詰めの家】
僕の足は磁力に引かれるように動く。
音もなく引き戸が動き、僕たちを飲み込んで。
そして広がるのは、碁盤目のような眺め。
それは部屋だ。家具の散らばる六畳間があり、それを囲むように同じような部屋が並んでいる、一つの部屋を八つの部屋が、それをさらに十六の部屋が、さらにその外側にも。
障子は一定のリズムで片方に寄せられたり、ぴしりと閉め切られたりを繰り返す。本来の家と少し違うのは、四面どの方向にも障子があることだ。
「入り口が消えてる……。やばいな、探さないと……」
合わせ鏡のように無限に連なる部屋。奇妙で、それでいて何らかの構造美を持つような眺め。
ざざざとノイズを上げるテレビ。動かない時計。タンスのそばに転がるぬいぐるみ。
「昼中さんのご実家でしょうか」
「そう、だと思う」
僕はだんだんと意識が鮮明になる。あるいは夢うつつの世界に順応する。
少し歩く。障子を動かすための溝、鴨居を踏み越えても同じ部屋が続く。
いや、正確には同じではない、置いてあるものが少しずつ違う。放置されたランドセルからこぼれる教科書も、散らばった雑誌も、ぬいぐるみの数も。
「ぬいぐるみがお好きなんですね」
「いや、これは母さんの趣味だよ……手作りなんだ」
そう、僕の母。
それを意識した瞬間。がりがりとなにかを削る音がする。
「! 隠れて!」
瞬間、僕は姫騎士さんの手を引いてテレビ台の影に。
体を丸めてタタミに顔の横を押し付け、あらゆる部分から力を抜く。一個のぬいぐるみになるように意識を絞る。
姫騎士さんはそれを見ただろうか。
それは身の丈が5メートルはある巨大な人影。服もなく体毛もない。複数の腕を持つ巨人。ぶよぶよと膨れ上がった体で障子戸をくぐり、天井に頭をこすりながら這って動く。
その顔には鼻も口もなく、ただ大きな大きな一つきりの目玉があるだけ。
それをぎょろりと動かして、さほど多くはない家具をなぎ倒して部屋から部屋へと這い回る。
僕は指一本動かせない。全身の産毛を逆立てて気配のみを感じ、それが早くどこかへ行くことのみを願う。
「昼中さん、あれはもう行きましたよ」
姫騎士さんが僕を揺さぶり、ようやく金縛りが解けたかのように身を起こす。
「……行ったか、よかった」
「一つ目の巨人でした。腕がたくさんあって、這うように動いてました。あんなものが住んでるんですね」
「あれは、動いてなければ大丈夫。見つかりそうになったら体を丸めて、ぬいぐるみの一つになればいいんだ」
僕の家にはそんな怪物が住んでいる。あの目玉で子供をぬいぐるみに変えるのだ。あの怪物が家の中を這い回るとき、僕はぬいぐるみの一つになりすまして、じっと息を殺さねばならない。
僕たちは手を繋いだまま進む。構造は分かってきた。ある方向へ向かうと年月が経過する。ものが段々と古くなり、家にはガラクタが溜まって、カレンダーはすり切れていく。
「一日ごとにすべての部屋が並んでるんだな……。とにかく未来へ向かおう。現在の部屋まで行けば出られるかも」
奇妙な想像に、あるいは夢うつつの中での自我に突き動かされる。
「あの巨人は何なのでしょう」
「……あれはたぶん、僕の母だ」
僕の両親は再婚しており、僕は父の連れ子だった。
そして中学一年の夏、父が失踪した。借金を作って逃げたのだ。
だから母がおかしくなったとか、虐待を受けたという話ではない。母は恨み言の一つも言わずに僕を育ててくれたし、笑い合うこともあったし、旅行にも連れていってくれた。
だが何故だろう。いつの頃からか、僕の中であの奇妙な怪物が育ってしまった。
そいつが家にいるとき、僕はぬいぐるみになる。僕にとって家はとても重く、息苦しく、耐え難い場所だった。母に何の不満もなかったのに、なぜか家が遠く感じる。
そして高校一年の秋には、母も失踪した。
あとには300万円ほど入った通帳だけが残されており、僕はそれを頼りに高校に通っている。
家賃の支払い方から毎日の食事まで、大変なことは多かった。卒業後の身の振り方も考えねばならない、心にはいつも不安がある。
だから。僕は眠りへと逃げ……。
怪物が。
僕たちはタンスの影に隠れてぬいぐるみになる。その巨大な気配が、家の中に全身をこすりつけながら動く巨体が、天井板の近くを動く一つきりの目が、気配でありありと感じられる。
「ちょっと待ってください」
怪物が行ってから、姫騎士さんが言う。
「お話を聞いていると、なんだかちぐはぐです。お母様の気配を怪物のように感じて、お母様の前でぬいぐるみのように寝たフリをしていた、という話ではないのですか?」
「……多分、それに近いことだと思う」
母を悪く言いたくない。境遇を考えればすぐに僕を捨ててもおかしくなかった。それを、せめて高校までは出られる程度の資金を残してくれたのだ。
それに、少なくとも表面的には関係は良好だった。もし僕が母から無意識の感情を、言語化されない暗鬱な気配を感じており、それが怪物になったとしても、僕に文句を言う筋合いはない。
「二律背反……あれは母の影でもあるが、僕は母を悪者にしたくない、そんな歪んだ感情の産物なんだ」
あの怪物は、まだ家にいる。
だから家では休まらない。いつ来るともしれない怪物に怯えて、心の中で目を開けながらぬいぐるみのフリをする。
それはあるいは、僕の心の中に住んでいるのだ。
「昼中さん」
僕の独り言のような話を聞いていた姫騎士さんが、つと腕を引く。
「どうしたんだ」
「その怪物は、まだいるのですか?」
「ああ、いるよ……。おそらくずっと僕についてくるんだろう。たとえ引っ越しても、家族を持つことがあっても、自分の家では決して休まらない。僕にはそういう業があるんだと思う」
そう、眠りたかったのは、僕だ。
眠れなかったのは、僕の方なのだ。
僕の眠りは浅く短く、無理をしてどこかへ出かけるような眠り。だから僕の覚醒はいつも早い、教師からの指名の声で、アラームが鳴る気配で一瞬で目覚めてしまうほどに。
僕には安らげる家がない。生涯決して安心できる寝床を持てない。
でもそれは、仕方のないこと……。
「昼中さん、もう一つ可能性があります」
「可能性……?」
「その怪物が、本当にいるという可能性です」
「な……」
そんな馬鹿な。あんな異形の怪物が。
「一つ目遊戯の敷き詰めの家」
「え?」
「ここの名前です。名前をつけましょう。剣の道には攻撃の型もあれば、守りの型もあります。それぞれの動きに名前があり。それによって体得に近づきます。名前をつけることが理解の第一歩なんです。昼中さんはあの怪物がお母様であると思って、でもお母様だと思いたくない。だから怪物を名前で呼ばない。それが理解を遠ざけているんです」
姫騎士さんは僕の腕を強引に引く、反対方向へと。
「えっ、ちょっと!」
「あの怪物はいつからいるのですか」
「わ、わからない、だいぶ前から」
そう、だいぶ前からだ。僕は過去のことを思い返すことがほとんどない。思い出しそうになると眠りに逃げようとする。
がりごりと建物を削る気配。低い天井と畳がどこまでも続く眺め。タンスを蹴倒して迫る気配。
「か、隠れ」
「昼中さん! 走って!」
速度を上げる。足元に転がるクマのぬいぐるみを、うさぎを、大きな魚のそれを飛び越えて走る。
ばきばきとなげしをぶち折って迫る気配。一体や二体じゃない。
向こうも気づいているのか。その一つ眼で僕たちをぬいぐるみに変えようとして。
ミテ
声が。
灰の中から生まれるような低い声が。
ミテイル ゾ
姫騎士さんはマス目状に敷き詰められた部屋を折れ曲がりながら走る。その背後から轟音。あらゆる家具をなぎ倒す雪崩のような気配。
ミテ イル ゾカズ ト
「姫騎士さん! 逃げられない!」
「大丈夫、到着です!」
その部屋。
鴨居に踏み込む瞬間。世界が拡大する。
その部屋以外のすべての部屋がチリとなって消し飛び、無限の彼方に押しやられる。鳥の視点になるようにそれを認識する。
窓からは、夏の日差し。
熱射に照らされる下町。温泉街の風景。その中にぽつんと残る一つの部屋。
「ここは……」
「先ほどのお話にあった、中学一年の頃の夏です。カレンダーがずっと変えられてないので難しかったですけど、干してある服とか、散らばってる雑誌を頼りに見当をつけました」
姫騎士さんは空間の法則を理解したのか、どちらへ向かえば目的の部屋に行きつけるのかを。
いつの間にか怪物も追ってきていない。というよりここは奇妙な空間でもない。
そこには壮年の夫婦がいて、ぬいぐるみを抱えて眠っている少年もいる。
「目処がついたんだ、秋田の旅館で働かせてもらえる」
「でも、何年も帰ってこれないんでしょう?」
「もう元本は返してるんだ。ただ借りたスジが本当にタチの悪いやつでな。諦めるまで逃げ続けるつもりだ。お前たちには絶対に連絡できない、それだけは覚悟してくれ」
「わかったよ。でも和人が不憫で……」
その人物は、眠っている僕の頭をそっと撫でる。僕はすやすやと深い眠りの中にいる。母の作ったぬいぐるみに囲まれている。
「見ている……ずっと見ているぞ、和人」
「どこにいても、お前をずっと見守ってる。だから母ちゃんの言うことをちゃんと聞いて、大人しくしてろよ」
見ている。
どこにいても、どれだけ離れていても……。
「まだいます」
姫騎士さんが言い、障子を開けて廊下へ、そして外へ出る。僕も慌てて後を追う。
それは一つ目の怪物だった。僕の家に張り付くように、膨れ上がった体に一つだけの目。なんだか色が黒っぽい。黒スーツを着てるようにも見える。
「あれは……」
「借金取りでしょうね。色が違うのがいたので気になってました。ときどき昼中さんたちの様子を伺っていたようです」
そいつは陽炎に揺らめくアスファルトの彼方。ぼんやりと一つ目でこちらを見つめる。
そうか、あれも怪物の一部。
怪物は、僕の中で組み上げられた合成生物だった。
ずっと見ていると言い残した父の言葉、ときどき感じていた借金取りの気配、僕が勝手に感じていた気後れ、そんなものが混ざっていたのか。
「あれが見ていたから、お母様は逃げるしかなかったんです」
「え?」
「だから、ここで退治しておきましょう」
姫騎士さんは稽古着の裾を押さえて身をかがめ、側溝にはまっていた網状の蓋を掴む。いわゆるグレーチング蓋。鋼材をハシゴのように網状に組んだものだ。長さは100センチほど。
そしてがりごりと石を削る音を立て、がばりとそれを持ち上げた。
「えっまさか」
ステンレス製とはいえ5キロはある。それを片手で、指をかけて持っている。
姫騎士さんが走る。大きくストライドを刻み、つま先でアスファルトを削り、振りかぶるのはグレーチング蓋か、あるいは銀の聖剣か。背中から肩、肩から腰、腕と手首と指先までを動員する完璧な動きで。
斬閃。
怪物が反応するより速い、雷のような打ち下ろし。
それは空気を裂き、光を弾き、僕の過去の記憶すら粉砕する一撃。
そして怪物ははじけて消えて。
あとにはただ、夏の陽光。




