第三十七話 【極大深度光脈刀】
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永遠不変の血。
高貴なる一族。
真理に至る人々。
人の世では賢者と呼ばれる人々が、山や森を統べるヌシが、這いつくばって従属し、教えを請う。
それが吸血鬼。夜の支配者。月光の冠を戴く者。
その長、黒架カルミナがなぜ人間と交わったのか、誰も知らない。
人と交わったり、血を分け与えられる者は少なくはない。しかし、月に等しいと言われた女王がなぜ。
生まれた子は確かに気高い顔立ちをしていた。しかしあまりにも人の血の面影が濃すぎた。
そして血の発現も遅かった。吸血鬼の胎から生まれた子としてみれば平均。だが生まれついての神童とは言えなかった。一部の者たちにはそれが耐え難かった。
それは物言わぬ態度から、やがては聞こえよがしの言葉に。
その言葉が、亡霊のように背後から迫り――。
「……う」
まただ、と鈍い頭痛の中で思う。
また似たような夢。記憶のような自責のような、嫌なものを見たという印象だけが濃く残る夢だ。
振り切ろうとしているのに。
吸血鬼の女王の座など興味はないのに。
その夢だけがずっと追ってくる。
「……え?」
そこで気付く。ここはどこだろう。
白い部屋に清潔なベッド。窓にはスチールの格子がはまっており、簡素なキャビネットとテレビ、半個室のような引っ込んだ部分にトイレがある。
この私、黒架ジュノの知らない部屋だ。病院の個室のように見えるが。
がちゃり、と音が。見れば手首に手錠がある。それがベッドの骨組みに繋がっていた。
「……!」
捕らえられた。
記憶を辿る。あの夜、夜の工場で逃げだしてしまった私は、家にも戻れずに空をうろうろと飛んでいた。
昼中くんに会わせる顔がなかったし、家にも戻れなかった。外泊できるほど手持ちもない。吸血鬼だというのに情けない話だが、行くあてがなかったのだ。
そして西都病院のことを思い出した。ここは吸血鬼が経営してる病院であり、一族にはここから血の提供を受けている者もいる。
私たちは血を吸わなくても生きていける。血を飲むのは吸血鬼になりたての者に多い。吸血鬼の本能が強く出るからだとか、単なる猟奇趣味に目覚めただけとか言われる。
そう、確か、あの時。
吸血鬼だった医師は私の来訪を知るとすっ飛んできて、ひどく大げさに歓迎の挨拶を述べた。そして三階の個室を提供するから、休んでいくといい、と言われたのだ。
「お目覚めですか」
その人物が部屋に入ってくる。白衣を着た60がらみの男。名は木場とか言ったか。年齢の割には若々しく、髪も黒い。
長い犬歯を見せてにやりと笑う。こいつは「噛まれた者」、人間から吸血鬼に変わると、やたらと犬歯を見せたがる者がいる。
「どういうつもり。一族に逆らうの」
「そうですね、宗旨変えですよ」
開け放たれていた扉から、のそりと大きな影が入ってくる。
それは足の短い四足獣。色は黒く、鼻の先端にトゲのようなものが生えている。
それはアイスピックのように真っ直ぐなトゲであり、窓からの夕日を受けてあかあかと光る。
「バク……! いえ、たしか、アング」
「我が主、どうぞ私の手足をお使いください」
医師の木場は屈み込んで頭を下げる。するとアングが鼻を伸ばし、先端のトゲを脳天に突き刺した。
「!」
ずぶずぶと、一気に沈み込んで鼻で頭を押さえる。脳天から耳の高さまで達してそうなトゲを受けて、しかし木場はにやりと笑う。
いや、それは本当に笑みなのか。恍惚と言うか絶頂というか、喜に完全に振り切った笑顔。そしてアングのほうは獣の口を動かして、濁った声を放つ。
「吸血鬼の夢か、貴族様とか言うだけあって格別だねえ。人間ならざっと五百人分ってとこか。ちょっと舐めただけで小便漏らす極上の味だぜ」
「……私の夢を」
「ああ食べたぜ。俺は食うのがうめえからなあ、悪夢なら当人にもたっぷり見せてから食べるんだよ、夢を見てるときの心ってのは素っ裸なんだよなあ。ガタガタ震えて、縮こまってる心を眺めながら食うのがオツなんだぜえ」
反射的に爪を伸ばす。天井にまで届く長さにミリ秒で達し、建材ごとぶった切るつもりで腕を振る。
アングの前に木場が割り込む。ふかぶかと爪が食い込むが、肉に沈み込むだけで貫通しない。魔力を与えられているのか。これがこのアングの能力。トゲを突き刺して人を操る……。
「おとなしくしな」
脳天を貫かれたまま木場が迫りくる。私の手を押さえつける。
「やめろ! 何をする!」
噛まれただけの吸血鬼とは思えない力。木場は私の手を抑えたまま、ポケットから注射器を取り出し、何かを私の腕に。
「やっ、やめ……」
「暴れるなよ、お前にはまだ役割がある。それにまだまだ夢を食わせてもらわねえとなあ。ああ別にエグさ極まる悪夢だって構やしねえぜ、俺はゲテモノ食いだからな」
そして意識が溶けて。
長い長い縦穴を落ちていく感覚。
やがて底に至ったのか、それとも自由落下のままなのか。
頭から思考がこぼれていく。
考えがまとまらず、自分の状態も分からない。水中の泡のように無力。
「そろそろ効いてきた頃か」
声が聞こえる。だが意味はよく分からない。
「あの野郎、まだ連絡がねえとは返り討ちにあったか。バク飼いごときにしくじりやがって」
それは木場医師だろうか。それともアングの言葉か。
Aだろうか、それともBか、というのは複雑な思考であり、考えるだけで大変な労力がある。何かをしようとか、何かに抵抗しようという思考すらできない。
「合流してソワレに当たるつもりが予定変更だ。あの野郎、カスみてえな夢で捏ねられただけはあるぜ、実力までカスかよ」
分からない。言葉が早すぎる。
「まあいい、予定通りにソワレを殺すだけだ」
そこで、不自然なほど優しい声音で、ゆっくりと耳元に囁かれる。
「助けを、呼ばなければ」
それは私の思考だったろうか。そうだ、助けを呼ばなければ。
「白炎の御手、ソワレ・コルネイユに連絡しなければ」
連絡しなければ、あいつの連絡先は分からない、昼中くんなら知っているかも。
「昼中和人、なるほどこの子か。この子に連絡しなければ」
そう、連絡しなければ。
誰かが私のスマホを操作しているのが見える。だがそれに対して何も思うことができない。
コール状態のスマホが眼の前に置かれる。シーツの上で呼び出し画面が、すぐに相手は出て。
「もしもし! 黒架! 今どこに!」
どこに、難しい。今どこにいるかを考えるのがひどく億劫だ。
「たすけて、と言わなければ」
そう、言わなければ。
「たすけて」
「……! 黒架! どこにいるんだ! アングがいるのか!」
問われるままに言葉が滑り出てくる。
「わからない……たぶん、病院」
そこでスマホが持ち上げられ、窓に向かって投げられる。ガラスの破砕音。窓の外はベランダだ、ガラスは外に飛ばなかっただろうか、そんなことを思う。
「ご苦労さん、後はあんたをこの病院から移すだけだな」
移す。なぜ。
「なぜって顔してるな、この病院にもう人はいねえのよ。その代わりに基礎部分に20キロのプラスチック爆弾が埋まってる。ソワレと、ついでにバク飼いも来たらそいつも爆発で消し飛ぶか、ガレキに生き埋めってわけだ。贅沢な罠だねえ、くははは」
愉悦を込めて言う。
言葉は少し分かるような気がしてきた。思考のモヤが薄れてきている。
だが同時に、自分がなにか取り返しのつかないことをしたような、寒気のような恐れが……。
「さて、お注射してやるからもうしばらく寝てな。たっぷり悪夢を見るといいぜ。俺がゲテモノ食いでよかったなあ、おい。二人で楽しもうじゃねえか、きっと明日からの悪夢はもっとエグいぜえ」
腕が伸びてくる。
喜悦の顔をした白衣の医師。恐ろしい。
また、注射を。
かすかに抵抗を試みる。だめだ、腕が動かせない。何も考えられない。
ただ、恐ろしいという感情だけが。
「――見つけました」
注射器が弾かれる。
わずかに眼が覚める。
短く理解する。何かを注射されて思考がまとまらない。言われるがままに昼中くんに電話をかけた。
それがゆっくりと思考される。遅かった。今さら薬の効きが薄れてきても……。
「お前……!?」
動揺するのは木場、いや、木場の口を借りて喋っているアングか。私はぼやける視界の中で眼球を動かす。
私の眼の前に、稽古着の女の子が。
姫騎士さんが。
「なぜ邪魔をする! どこの誰だてめえ!」
「黒架ジュノさんの友人です。胸騒ぎがして西都に戻っていましたが、携帯が投げ捨てられたのを見て駆けつけました」
まさか。携帯が捨てられてから二分も経っていない。
姫騎士さんの手が私の頬に触れる。温かい手だ、じんわりと安堵が得られる。
「自白剤のようなものを射たれましたね。大丈夫、すでに薬は中和され始めてます。無理をせず横になっていて下さい」
「てめえ……」
姫騎士さん、確か大会のために他県に出てたはず。
なぜここに来れたの。本当に投げられた携帯を見て駆けつけたの?
分からない、まだ思考がまとまらない。ひょっとして、姫騎士さんにはもう、行けない場所など……。
「しゃらくせえ! こっちは忙しいんだよ! 死ねや小娘が!」
ぶ、と吐き捨てるような音とともに木場が投げ捨てられる。喜悦の表情で床に倒れ、痙攣している。
そして鼻が伸びる。先端が裂けて花が咲くように、放射状に、部屋いっぱいに蜘蛛の巣のように。
そして全体からトゲが生える。アイスピックのような鋭く長いトゲ。液体が滴っている。
これがこいつの能力。何かを体内に打ち込んで人を操る。
「まだるっこしい事はしねえ、ちょっとした劇毒だよ。かすっただけで即死だ」
勢いよく振り回したりはしない、少しづつ網を広げ、この個室をトゲで埋めようとしてくる。
だめ、姫騎士さん、逃げて。
姫騎士さんが、竹刀袋に手をかける。横に構えてまるで居合抜きのよう。
そして眼を閉じる。
吸血鬼の知覚が理解する。姫騎士さんが竹刀を抜く瞬間。私と、アングの両方がまばたきをした。
全員が眼を閉じた一瞬に抜き放つ。
それは白刃ひらめく刀。だが柄の部分が植物の根のように見えて、それは床へと降りている。
「な……」
アングの鼻がしらじらと照らし出される。刀身が光っているのだ。
「何だそれは、術者なのかよ。聞いてねえぞテメエなんか」
「……」
姫騎士さんは一瞬、戸惑うような横顔を見せた。起きていることが理解できないのか、いや、少し違う。起きていることのすべてが理解できる戸惑い、そんな奇妙な形容が浮かぶ。
動揺らしきものは一瞬。眼前の相手をきっと見据えて、その刀の名を呼ぶ。
「極大深度光脈刀」
「う、ぐ……」
勝てない。
アングがそう察したことがありありと分かる。
彼は何かをしようとしただろうか。すべてのトゲを殺到させようとしたか、あるいは反転して窓から飛び出そうとしたか。
どちらもできない。彼は一歩も動けない。
蛇に睨まれた蛙か、あるいは山羊に食われる花のように無力。
姫騎士さんの振り下ろす刀。それはアングに触れる刹那。光を弾けさせ。その夢でできた体を霧散させる。アングは黒い泥にも灰にもならず、空気に溶けて消える。
「……」
納刀。それはやはりただの竹刀だ。姫騎士さんの気迫で刀に見えていたのか、何か特別なことが起きたのか。
「……黒架さん、大丈夫ですか。とにかく別の病院へお連れしますね」
姫騎士さんが私を抱え上げる。お姫様だっこだ。
姫騎士さんは本当にすごい、心からそう思う。
吸血鬼である私よりも強いだろう。それに美しく、凛々しくて、誰にでも優しい。
「もうすぐ昼中さんも来るはずです。電話で連絡をしないと……ああ、これだと電話できませんね。ごめんなさい、一度降ろして……」
昼中くん。
その名が、まだ朦朧とする頭で意識される。
アングが消えたためか、緊張のハリが消えて、私はふいに猛烈な眠気に襲われる。
薬のせいか、薬を中和しているための疲れか、あるいは悪夢が続いていた心労が一気に来たのか。
私は、ふいに姫騎士さんにしがみついた。
「黒架ジュノさん……?」
ああ、心がぐちゃぐちゃだ。
情けなくて、疲れていて、周りの人みんなが眩しく見えて。
その混濁した意識の中で、私の中で色々な言葉が組み合わさって。
ほとんど自分でも覚えていられないような、偶発的な言葉を、言ったのだ。
「姫騎士さん、とっちゃダメっすよ……」
「……?」
「昼中っちは……私の恋人っす。私だけの運命の相手……。だから奪っちゃダメっす……どれだけ慕われてても、姫騎士さんが素敵な人でも……」
言葉が水のせせらぎのように聞こえる。妙なことを言ってる気がするが、自分で自分の言葉が聞き取れないのだ。
姫騎士さんは私を笑うだろうか。眠気に落ちかける頭で、その顔をそっと見る。
それは、茫然とするような、驚くような顔。
そして僅かに震えている。目を見開いて、息を荒くして。
何が起きたのだろう。あの姫騎士さんの、こんな顔は見たことがない。どんな感情の顔なのかも分からない。
整合性を持って動いていた巨大な機械から、歯車が抜けてしまったような、そんな情景が浮かぶ。
そして私は、今度こそ意識を失った。




