第三十六話 【八の禍戸の禁忌枢密柩】2
「あなたたち! 中央に固まって!」
リッチフローが叫び、僕は深水先輩をひっぱって机の死角へ飛び込む。
「これもアングなのか、まるで怪物だ」
「……ここまで変容した例は村の言い伝えにもない、どこまで変わってるか想像もつかない」
――バ ク飼い。
声が言う。壁に空いた大小無数の穴、その一つに牙の並んだ口がのぞく。
――邪魔 だ、お前 はこ こで死 ぬ。
「調子に乗るんじゃないわ、堕ちた分際で」
リッチフローはあぐらを組み、赤の顔料で己の前に輪を描く。
「結界に閉じ込めて勝ったつもり? 私たちに何千年の歴史があると思ってるの。バクを宥めるほどの手間でもない」
――生 意気な。
穴の一つに、影が。
いつの間にか、リッチフローの指に2つの指輪。描いた顔料の輪に手をかざす。
指輪は火打ち石だ。指を弾く動作とともに顔料に火がともり、リッチフローが腕を払う動きとともに炎が曳かれる。
束ねた鼻が炎に弾かれて大きくたわみ、怯えるように元の穴に吸い込まれる。
――夢の 火、村長の 技 その若さ で。
僕は深水先輩を抱えていたが、その体が急に重くなる。
気を失ったのだ、仕方なく机の間に寝かせる。
「あなたたち、自分の身は自分で守って、死ぬわよ」
「……分かった」
戸惑いの声は漏らさない。
武器はある、戦える、そしてこの結界の正体が分かってきた。
この穴だらけの空間、アングの全容は見えないが、向こうからこちらも見えにくい。
そしてアングは姿を晒すことを恐れている。大量の夢を食って力を得ている割に、安全圏に潜んだままだ。
ソワレのような実力者の存在を恐れたか。それともバク飼いの一族には勝てないのか。
ともかく、この結界は圧倒的なように見えて実は脆弱。アングの恐れが見え隠れしている。
そしてその鼻の攻撃、もう何度も見た!
壁の一角から迫る直線。すんでのところでかわし、リッチフローから預かった木刀を、力の限り叩きつける。
全身全霊を込めた一撃、肉の奥まで突き抜けさせる感覚。束ねた鼻が大きくたわみ、蛇のようにのたうって周囲のものを粉砕、黒板をがりがりと削りつつ穴から出ていく。
浅い。
それでも手も指もしびれている。日常では出すことの無いほどの限界一杯の力だ、それでも浅いのか。
いや、まだだ。
まだ、高められる。
「次は仕留める……」
戦士。
前頭葉に言葉がよぎる。
そうだ、戦士にならなければ。
恐れを抱かず、どんな敵にも立ち向かい、怪物すらも打ち倒す戦士に。
――おの れ、小僧
そうだ暗喰、僕を敵視しろ。
その自慢の鼻を僕に撃ち込め。一撃で僕の全身を砕け、死角を探して回り込め、狙いを定めて加速をかけろ。
ぎり、と指を木刀に食い込ませる。奥歯を噛んで握力を高める。殺意を乗せる。
白骨の街、無数の窓、その奥の人影、数え切れぬほどの視線。
くろぐろとした意志が。
背後に。
「!」
前に飛びつつ振り向く。机を射抜くほどの勢いで鼻が、脇を抜けて。
「――――――――ッ!」
喉が裂けるほどの発声。力の限りで木刀を打ち込む。一秒の何分の一かの時間。重い木刀が筋繊維に食い込み、切断に至る刹那。
手元が爆発するような衝撃。その弾力によって木刀が弾かれる。後方にたたらを踏み、鼻は苦悶にうごめき、水を吐き出すホースのように荒れ狂う。
リッチフローは炎を操って鼻を弾く。
「昼中くん、今のはかなりのもの。一人前の戦士でも打てないほどの一撃だった」
鼻が八角形の部屋から逃げる。
「でも今のをもう一度やれば本当に骨が砕ける。無理せずに鼻を追い払うだけにしなさい。そのうちこいつは退散する」
集中しているのか、リッチフローは薄眼を開けて顔料の輪に手をかざしている。彼女の手が炎に包まれるように見える。これは狂熱の中で僕の視界が歪んでるからか。
体が熱い。特に背中から肘にかけて熱湯を浴びるような熱さだ。毛細血管が切れて熱を持ったためか。それとも精神的なものか。
今のを再びやれば、骨が砕ける?
砕けても構わない。それは今の僕には何の問題でもない。
問題なのは、アングの鼻を粉砕できなかったこと。
木刀であることなど関係ない。鼻を切断するつもりで打ち込んだのに、弾かれたことが歯がゆいのだ。
もっと力を込められないのか。速度を上げられないのか。
戦士としての一撃を打てないのか。
このままでは、姫騎士さんのそばに立つ資格が。
「……」
重奏。という言葉を思い出す。
建物ですら変容する、ならばそれを人間にも起こせないか。
僕は自己認識の中で戦士になり、木刀は大剣に……。
いや、違う。
思い込みで何にでもなれるとか、そんな話では無いはずだ。
それはつまり、僕の中にあるもの。
僕の中に眠る、僕の本当の形。僕の魂が内包するもの。それを引き出せれば。
何がある。僕は何者なのだ。僕の中に怪物はいるのか。
「……いる」
そうだ、いる。
空間に低い唸り、アングが何かを言っている気もするが耳に入らない。ただ自分の内部にのみ集中する。
それは身の丈5メートルもの巨体。
巨大な体を持て余し、部屋から部屋へと這って動く。
その顔には一つきりの眼、巨大な手足で這いつくばって、叩きつける一撃はすさまじく重い。
僕はそいつになる。なれるはずだ。それは僕にとって恐怖のイメージ。その恐れを我が物とせよ。
丸太のような腕。畳のような手の平。這い回る巨人。
僕の体にそれが降りる、二重写しになり、そして視界がスローになる。
魔物の鼻が迫る。束ねた蛇のような眺め。最小限の動きで迫るそれが膝に食らいつく瞬間。狙いすまして、一撃を。
木刀を突き立てる。筋肉の束が豆腐のように潰れる。衝撃は床にまで染み通って蜘蛛の巣のような亀裂を走らせる。一瞬遅れて響く、校舎が揺れるような絶叫。
この世の物とは思えない強烈な叫び。僕の打ち込んだ木刀は二本の鼻を貫通し、ものの見事に床に突き刺さっている。
「! 昼中くん、今の……」
そして残った腕を捕まえる。暴れだそうとするそれを両手で押さえ、ぐいと引く。
それは巨人の牽引。抵抗の気配を物ともせず引っ張り込む。穴だらけだった壁が砕け、大型の獣が転がり込んできた。
「が、な、なぜ。人間にこんな力が」
ぶつ切りではなくなったが、相変わらずひどい声だ。ブタの鳴き声を思い出す。
僕はそいつの顔を踏みつけて言う。
「お前の目的は何だ。なぜ僕たちを襲う。なぜこの町から逃げない」
「……ぐ、逃げるものかよ」
アングは鼻の何本かを縫い留められ、さらに残りの腕を押さえられたまま言う。ほとんど意識していないが、僕は筋繊維の一本まで剛力を込めている。
「吸血鬼だ、貴族様の夢を貪り食うまで出ていけるかよ」
「吸血鬼が狙いか、なぜそこまでする。お前のいた村はバクと人間の数がほぼ等しいんだろう? そのわずかな夢だけでも生きていけるはずだ」
「はっ、バクが夢をどれだけ食ったかなど人に分かるものか。夜な夜な出かけては近在の村の夢を食うのよ。どのバクもそうしている。村の老人どもはみな承知のことだ」
「戯言よ、聞く意味は無いわ」
リッチフローが言う。
「戯言か、ならば人間に喩えてみろ。金がどれだけあってもさらに欲するだろう。満腹して食うのを止めるというのは、単に生理的な限界があるだけのこと」
なるほど。そうかもしれない。僕は熱病にうなされるように火照った頭で、妙に冷静に思考する。
かつて古代ローマでは、クジャクの羽を喉に突っ込んで吐き戻しつつ、三日三晩の食事を楽しんだという。眠ること、食べること、そして生殖行動、それに生理的な限界がなくなれば、人間は一生それだけをやり続けるほどの快楽かもしれない。
「好き放題に食い荒らせば、退治されるだけだ」
「おのれ人間が。もっと夢を食えば、もっと数多くの夢を……」
「もういいわ」
視界の端に人影が。
その人物が、足蹴にされているバクの額に何かを貼る。
ぎ
という、鳴き声のような歯車の軋みのような音が鳴り、アングの体は溶け崩れ、灰のように流れる。
「これは……」
「バク専用の毒よ。夢のつながりを崩す成分が含まれてる」
「……だんだん分かってきたぞ。バク飼いの一族というのは、つまりバクを封印する一族なんだな?」
「そうね、バクを管理するための一族よ。私達がいるからバクは暴れ出さない。人間はよい夢をたっぷり味わえる。大昔の皇帝か何かが組織したらしいけど」
そんなことより、とリッチフローは溶け崩れるアングを一瞥してから言う。
「昼中くん。さっきの一撃……どうやったの? 一瞬、巨人の影が見えたような」
「なんでもいい。それよりこいつがアングの本体なのか」
リッチフローは僕の眼を見据えたままだったが、数秒後、さっと視線を反らしてから言葉をこぼす。
「違うわね。幸福な夢がほとんど入ってない。こいつもアングの作った人形」
「……そうか」
こちらの様子を覗きに来た斥候、というところか。
「こいつが言っていたな、狙いは黒架だと」
結界の中で見た無数の人間。あれだけの夢を食べても、まだ満たされない。欲望に際限とか躊躇がない。
「吸血鬼の夢だ。それがどれほど特別なのか知らないが、興味を示してる。あいつが西都に留まっていたのは、この町に吸血鬼が住み着いたからだ」
かつては結界の中に城を浮かべ、とうてい侵入も捕獲も不可能だった。
だが、今なら……黒架が一人だけ残った今なら襲えるのではないか。客観的に見て、今の黒架よりもアングの本体は強大だろう。
「……吸血鬼の夢、ね。確かに高貴なる一族の夢なら並外れて栄養がある……ような気はするけど」
「けど? 何かあるのか?」
「何と言うか……口を滑らすのが露骨だったような。単なる露悪趣味と言ってしまえばそうなんだけど」
「……」
あれが何かの罠ということか。そういう考え方ももちろんできる。
「いずれにしても黒架を一人にしておけない。探して合流するべきだ」
「そうね、そこは異存はない」
「昼中くん、今の……」
ふと背後を向く。深水先輩がのっそりと上半身を起こし、体操服姿の自分を奇妙に思うかのように手足を見る。
そういえば粉砕された机も治っている。床に突き刺したはずの木刀も転がってるだけだ。通常の世界に戻っていたらしい。気付くのがだいぶ遅れたな。
「今の……何だっけ、何があったんだっけ……?」
「先輩、後日ちゃんと説明します。今日はとりあえず帰宅してください。先輩は狙われてないはず」
「狙われる……って」
先輩はまだ考えがまとまらないようだ。あまりに異常なものを見たために理解を拒んだのか。
「僕は黒架を探す。リッチフローは先輩を家まで送ってくれ」
「わかった。深水さん、歩ける?」
「うん……なんだか頭がぼおっとしてて、よく覚えてなくて……」
たどたどしい足取りながら、先輩は肩を借りつつ退出する。
「黒架……」
電話には出ないだろう。朝から何度もかけているのだ。
もう手段は選んでいられない。姫騎士さんに……。
操作しようとした瞬間。着信が入る。
黒架からだ、僕は心音を1オクターブ上げつつ出る。
「もしもし! 黒架、今どこに」
「……」
無言だ、僕の叫ぶような声がコンマ数秒遅れて返る。
いや、何か聞こえる。
「……」
かすかな音。無理やり言語化するなら。
――たすけて
「……! 黒架! どこにいるんだ! アングがいるのか!」
――わからない
――たぶん、病院
「病院……西都医院か? それとも秋津医院、他にもいくつか診療所があるけど」
――
そこで音声が切れる。
がしゃん、とガラスの割れる音。
マイクに風が当たるぼわぼわとした音、直後にけたたましい音がする。金属のバケツをかぶせられて棒で叩かれたような。
「ぐ……」
それきり無音になる、呼びかけても反応は帰らない。
「今のは……そうだ、わかる、今の音から場面を想像しろ」
そしてイメージできた。携帯を投げられたのだ。
誰かが窓を砕きつつ携帯を放り投げ、それは数秒後に地面に激突した。おそろしく神経が張り詰めてるためか、今の通話のあらゆる音を思い出せる気がする。
そう……放り投げてからたっぷり二秒は滞空していた。少なくとも三階以上の高さから投げている。この西都で三階以上の病院は西都医院のみ!
僕は駆け出す。夕映えの町を。
夢の獣が息づく町を。




