第三十五話 【八の禍戸の禁忌枢密柩】1
「話と言われても……前にそこの昼中くんに話したことで全部よ」
部屋を移り、家庭科室に移動。特に選択に意味があったわけではない。人のいない特殊教室を探した結果だ。
なぜか懐かしく思えるガス台と流し台つきの机、それを囲んで座る。
深水先輩は前にやった話をもう一度繰り返す。母が15の頃まで夢を見ない体質だったこと。そんな母に祖母が謝罪の言葉を投げかけていたこと。曾祖母が満州からの引き上げ組であったこと。
「あなたの顔は私たちの一族に似てるわ。あなたのご先祖って、私たちの村から出て行った人じゃないの」
「確かに似てるけど……」
「胸に入れ墨はある? こういうの」
リッチフローはいきなりシャツのボタンをはずして胸を放り出す。僕は慌てて目をそらす。
おそらく例の入れ墨を見せたのだろう。獣の牙がクロスしてるような意匠だ。
「な、何それ。あるわけないでしょ」
「ないの……? そうよね、あったらバクのことも知ってるはずだし、でも……」
リッチフローは深い疑問の顔になる。一人で悩まれても困るので、僕は適当に質問を投げていく。
「おい、何に悩んでるのか説明してくれ」
「私たちはバクと共に生きる。バクは私たちにとって価値観のすべて。村を離れたとしてもバクと離れるとは思えない。アングだって世話をする人が必要だし」
「つまり……今のアングの世話をしてる人がいるのか? じゃあ傍流がいたんだろう。兄弟とか」
「深水さん、あなたの母や祖母に兄弟はいるの?」
「……ええと、いないはずよ。祖母は一人っ子だったと聞いてるし、母もそうだったはず」
「何か変だわ。あなたは村の血を引いてるっぽいのに、なぜバクと無関係に生きてるの?」
確かに変だ。どこかの時点でバクと分かれたのだろうか。
だが何しろ四代前のご先祖から始まる話だし、調査にも限界があるか……。
「しょうがないわね、夢に当たってみましょう」
「夢だって?」
「深水さん、頼んでおいたもの、持ってきてくれた?」
「ええ、一応……」
先輩がためらいがちにカバンから取り出すもの。それは湯のみ程の大きさの壺だ。
「……? 先輩、何ですかこれ」
「ひいお祖母ちゃんの骨壺……」
伸ばしかけた手をさっと引っ込める。
「え……」
「家の仏壇に入ってたの。そこの人が電話口で熱心に頼むから……」
リッチフローは机の上のそれに手を伸ばし、おもむろに蓋を開ける。見た目は白い粉で、ほとんど骨としての形は残っていない。
「そんな物から何か分かるのか……?」
「バク飼いの一族ならね。言ったでしょ、バクは夢でできている。バクに近いところで生きていると、骨に夢が残るのよ」
いよいよもってオカルトというか、カルトじみてきた。リッチフローは小指でそれをすくい取り、コンタクトをはめるときのように見つめる。
「残ってる。これなら夢の中で質問できそう」
リッチフローは上着をするりと脱ぎ落し、巾着からブルーシートを取り出す。
「じゃあ昼中くん、協力して」
「えっ」
「寝るのよ。添い寝して。言ったでしょ、一人より二人」
いや、そんなこと急に言われても。
リッチフローは家庭科室を勝手に漁り、タオルなどを何枚も持ち出して床に並べ、前に見たお香を焚いて、少しでも環境を良くしようとする。
「そうだ、ちょうどいいから添い寝についてレクチャーしてあげるわ」
「いや、あのな、君の村ではどうか知らないけど日本ではそういうのは」
「男の子でしょ?」
急に声を低めて言う。下手なことを言うとせせら笑ってきそうな大人の余裕を放つ。そんなに年が離れてるとも思えないが。
「こないだのひどい添い寝、恥ずかしいと思わないの? 女の子もエスコートできないで何でもするとか言っちゃうんだ」
「……それとこれとは別だ。僕は黒架という彼女がいるし、簡単に添い寝なんて」
「じゃあ深水さん、あなたも手伝ってよ」
え、と僕と先輩の声がハモる。
「一対一だといかがわしいなら、みんなで寝たらいいわ」
「お前な、ムチャクチャ言うなよ。現代日本ってのは倫理と規律で成り立ってて」
「いいわよ」
えっ、と自分でも驚くぐらいデカい声が出た。
「母の話はずっと気になってることなの。手伝えば、それについての真相が分かるのね?」
「保証はしないけど、やる価値はあるはず」
「体操服取ってくるから、待ってて」
「えっちょっと待って先輩何を」
あれよあれよと言う間に。先輩とリッチフローに挟まれて川の字に。放課後の、まだ運動部の掛け声とかが遠く聞こえる時間帯に。
「これ見つかったら停学あるんじゃないか……?」
「大丈夫よ。誰か来たら当て身で眠らせるから」
「ぶっそうなこと言うなよ」
並びで言うと三人ともが窓側を向いて横臥の体勢。僕の腹にリッチフローの背中が当たる格好になる。
「いい、眠るってのは本来はきわめて個人的な行為。複数人で眠るというのはまったく別種の競技と考えなさい」
「お、おう」
「大切なのは自分の範囲を拡大させること。相手と呼吸を合わせて、体温を循環しあうような感覚。そのために必要なのはまず何をおいても密着。体の大きい男性側が相手を包み込むように抱く」
ぐ、とリッチフローが体を押し付けてくる。
「こ、こう?」
そう答えるのは背後の深水先輩。あろうことかこっちもぐいぐい寄ってくる。体操服なので密着感が、密着感が。
「あの、ちょっと」
「ほら手を握る」
リッチフローが僕の手を掴んで己のヘソのあたりに引っ張り込む。そして自分の手を僕の手で包ませるような形に。
「足で私のモモを挟んで」
「こ、こうか」
「あなたの胸を枕にするから、気持ち体を倒して私の頭を受け止める感じで」
この体勢は恐ろしくやばい。というか家庭科室中に何とも言えぬ藤の花のような香りが立ち込めてきた。リッチフローの焚いた香のようだが、匂いを意識すると体がかっと熱くなって思考がぼやけてくる。
というか深水先輩もすごい寄ってくる。背中がシャレにならないことに。
「うん、なかなかいい感じ。そして添い寝には最大のコツがあるの」
「そ、それは?」
「相手より先に寝ること、よ。それが最も安心感を与えられる」
それを聞いて、僕は急いで寝ようとする。
というかこの体勢で何分も覚醒しているのは非常にまずい。大変なことになる、主に僕の体が。
寝るのが得意で幸いだった。僕は意識を細め、自己の意識の中に沈下していくイメージを……。
……。
…………。
ぼんやりと。
白く淡い光が。
僕は畳敷きの間に座っている。脇にはリッチフロー。
そして眼の前には床に伏せった女性がいた。髪がすっかり白くなっているが、あまり皴は寄っていない。高齢と言うより何かに疲れ果てているような。何かを絞り尽くされたような、そんな印象。
「あなたのお名前は」
リッチフローが言う。彼女の体も煙に覆われたように白く、輪郭も声も曖昧だ。
「深水、泉です」
床に伏せったまま、ほとんど唇を動かさずに答える。
「あなたはバク飼いの一族ね?」
「はい」
答える。なるほど、これが夢に潜るということ。遺灰の中に残った人格ということか。
「どうして村を出たの」
「テレビを見たの」
老女は、まるで少女のような憧れを込めた声で言う。
「美しいもの、まぶしいものがたくさん映っていた。私は外の世界を見てみたかった。だからバクと共に村を出た」
「村を出て、バクはどうなったの」
「あの子はたくさんの夢を食べた。悪い夢だけじゃなく、いい夢にも興味を持った。アングに堕ちると分かっていても止められなかった。都会にはまばゆい夢が多すぎた。やがてあの子は私たちの上に立つようになった」
老女の閉じられた眼に光がよぎる。眼の端に涙が浮いていた。
夢の中のためか、自分の意志で何かをすることが難しい。ほとんど身動きもできずにリッチフローと泉さんのやりとりを聞いているだけだ。
「上に立つ、とはどういうこと」
「あの子はより多くの夢を欲した。大きな結界を作って人を囲ったの。あの子が夢を食べやすくするための、回路のような結界。気付かれぬまま社会から消えた人も多い。そして私たちも夢を食われた。私たちは暗喰となったあの子がより邪悪に、より醜悪なものに変わっていくのを見ているしかなかった。私の家族も、娘も犠牲になった」
それは、あの八角形の籠のような団地のことか。あそこはアングの餌場であり、囚われた人は夢を食われていたのか。
「アングがバク飼いを奴隷に……そんなことが起きるなんて」
なるほど。アングはこの土地で人間を支配下に置き、その悲劇は娘に、孫に受け継がれた。深水先輩の祖母が申し訳ない、苦労をかけると言っていたのはそのためか。
おそらく囲っていた一般人は何割かの夢を。バク飼いの一族だけは根こそぎに食われた……そういう事だろうか。
……ん?
では、なぜ……。
「ではなぜ、今の子孫は犠牲になっていないの。そのアングはどこへ行ってしまったの。この町は出ていないはず」
「わからない……私が骨となって何十年も過ぎた。きっとあの子はいっそう変容し、邪悪となり、より恐ろしいことを企むようになって……」
人を囲い、その夢を食らうより恐ろしいこと……?
何だろう。想像もつかない。
……いや、待てよ。
これまで見聞きしてきたことに、何かそういう話があったような、気が……。
瞬間、はっと眼が覚める。
脊椎を冷却液が走るような、全身を駆け抜ける戦慄。転がるように立ち上がる。
「わ、ど、どうしたの」
深水先輩が言う。彼女は僕の背にくっついたままの体勢。夢の世界にはいなかったから、まだ眠れていなかったのだろう。
空間の違和感。
正体はすぐに気づいた。部屋が八角形になっている。壁は千年も経ったかのように朽ちかけており、作りかけのジグソーのように穴だらけだ。
その外には、白骨の森。
そう思えたのは朽ち果てたビルの群れだ。崩壊した未来か、終末戦争の後か、壁の裂け目から見えるのは崩れかけのビルばかり。
「ここは……!」
「気をつけて! アングに結界を張られた!」
リッチフローもすでに起きている。巾着から黒塗りのムチを抜いて低く構える。
眼を凝らせば、僕らを取り囲むビル群はすべてマンションのようだ。その窓には1つあたり三つから五つほどの人影が見える。
何百ものマンションの、何万もの窓に人の影がある。遠すぎて分かりにくいが、それらは窓にぴたりと貼り付いてこちらを見ているように思える。
「あれは……まさか捕らえられた人間!
これほどの数を……!」
重なり合って存在する、という言葉の恐ろしさを思う。
囚われた人々はどの程度の支配を受けているのか。夢の何割かを食われるだけで社会生活は続けているか、あるいは存在すら消されてマンションに封じられたのか。
それは邪悪の世界。
あらゆる人間が、暗喰に隷属する世界、それは人類の終末すら予感させる眺め。こんな世界すらも重なり合って存在しているのか。
その壁の穴から、何かが。
丸太のようなものが凄い勢いで差し込まれ、家庭科室のガス台つきテーブルを一撃、バラバラに砕けるかに思える刹那、すべての破片が吸い出されるように外に消える。後にはひとかたまりの粉塵のみ。
「なっ……!?」
一瞬だが見えた。今のは象の鼻を数十も束ねたもの。その一つ一つに人間の指のような小さな触腕。それが破片のすべてをかき出したのだ。
「骨壷が……!」
深水先輩が言う。そうだ、今のテーブルに置かれていたはず。奪われたのか。
この部屋から外にかき出されればどうなる。あのマンション群に囚われるのか、それとも一撃で五体バラバラに砕かれるのか。
「アング……! なんて禍々しいの!」
リッチフローが叫ぶ。これはまさに籠。僕らは棒でつつかれる昆虫のごとくだ。
僕は文庫本を抜き出す。これが虫かごと見立てて64ページ。形を象徴するのはやはり八、左端上から8番目の文字。
――オレ の。
地鳴りのような声が、人間の言葉とは思えぬ獣じみた響きがとどろく。
――オレ の過去な ぞ 知ってど うする、バク飼 い。
これもアングか。変化を重ねて、人の言葉まで。
姫騎士さんの力の片鱗を借りる。僕の指が紙に吸い付き、活字を捻じ曲げて言葉を創造する感覚。文庫本の横一行に現れる、その名は。
「八の禍戸の禁忌枢密柩」
ここはヤツの餌場、そして秘密を封印せんとする結界か。
虫かごに閉じ込められた僕らに、果たして勝機は……。




