第三十四話
ふいに、闇が垂れ込める。
結界を構成していたビル群が消えたのだ。その窓から漏れていた明かりも消え、あたりはうら寂しいコンクリート工場に戻る。
「バク、食べなさい」
ぱあん、とムチが鳴らされる。白いバクが跳ねるように駆け、黒い巨体にかぶりついた。岩のように肉が詰まって見えた体は、果物をかじるように欠けていく。
「食べる……のか」
「バクの体は夢でできている。それは暗喰も同じ。命を失えば夢は繋がりを失い、泥のように崩れていくだけ。その前に食べさせるの」
僕はリッチフローを強く見つめる。
「始末する必要があったのか、いくら邪悪に染まってたとしても」
言われたリッチフローは、しかしぼんやりと僕を見つめ返す。何を言っているのか分からない、という眼だ。
黒架も言いつのる。
「仲間を探してるって言ってたっす! 連れ戻すのが目的だと思ってたっすよ!」
「そんなことできないわ。村を離れて70年も経ってるのよ」
「アングになるからか! 僕達にそのことを伏せていたな!」
「……そういうわけじゃないけど、知っても意味がないでしょ」
「僕たちを騙して協力させて……」
「少年」
ソワレが言う、彼はバクがむさぼり食っていたアングを調べている。その指に黒炭のかけらのようなものが付着したが、息を吹きかけるとホコリのように消えた。
「それと吸血鬼の姫君、君たちが根本的に勘違いしていることがあるな」
「……何だよ」
「この邪悪に染まったバク……アングと呼ぶようだが、それは始末される予定だったのだよ。変化とは関係なくな」
「……?」
「なぜなら、この個体が共同体を抜けたからだ。数日なら迷子として連れ戻しもするだろう。だが70年は長すぎる。共同体を裏切って離反したと見なされる。それだけでなく、共同体を抜けた個体は生きていてはならない。分かるかね。ある種の共同体において、それを抜けることは死を意味するのだ」
「……! まさか」
「いえ、間違ってないわ」
リッチフローが言う。
「このアングは村を抜けた。たとえそれが迷子だったとしても、時間が経てば殺すことになる。それは当たり前のことなの」
「そんなことが……」
「それが組織と共同体の違いだ。共同体とは一生をその中で過ごすという契約。現代ではほとんど失われてしまったが、だが確固たる価値観だ」
信じられない、そんな世界がまだあるのか。いや、かつては在ったというのか……。
「嘘……」
声。それはか細い声なのに、皮膚に氷が触れたかのように切実に響く。
はっと背後を見れば、黒架が両腕をわななかせて立っている。その顔に青ざめた恐れが張り付いている。
「そんなはずない……ただ村を出ただけで、そんな……」
「この子だって分かっていた」
黒い灰を見下ろし、リッチフローが言う。
「私たちは村こそが世界のすべて。外の世界は知ってはいるし、交流もあるけど、一生を村とバクに帰属して過ごす。そこから抜けることの重さが分からないはずがない。子供じゃないのよ」
「う、わ、私は……」
黒架が踵を返し、何かに追われるようにその場から逃げ出す。
「! 待って! 黒架」
だが間に合わない。その背に翼が生まれ、弾かれるように空に舞い上がる。その姿はあっという間に点になって、濃厚な夜空にかき消えてしまう。
「黒架……」
「あの吸血鬼のお嬢さんもなの? 共同体を……」
僕がきっと睨みつけるのを受け、リッチフローは黙る。
「それより、このアングだ」
ソワレが言う。リッチフローはそちらに体を向け、僕も歯噛みしながらソワレを注視する。
「これは弱すぎる。どうやら擬態だな」
「擬態……?」
もはやアングは黒炭の山のようになっている。バクがむさぼるそれから、ソワレは短剣を拾い上げる。
「魔力が違う。そちらの白いバクは体毛の一本にまで魔力がみなぎり、刃物を通さぬほどだった。それに比べればこのアングは形こそ奇抜だったが、蝋燭のように脆かった」
「そうね、死骸に残った夢の量も少なすぎる。一種の分身でしょう。邪悪さを得たアングはそういう術を覚えるの」
アングの残骸をすべて平らげると、バクは体から湯気を立ち上らせるかに見える。体にあった細かい傷が塞がり、短い体毛は静電気を帯びるかのようにぞわぞわと動く。力が充実して全身を巡るかのようだ。
「死骸から、力を得てるのか……?」
「このアングにはろくでもない夢しか詰まってなかった。本当に良い夢ならこんなものじゃないわ。やはり分身ね」
バクは夢でできている……。ならば、自分の夢の一部から自分自身の人形を作れるのか。伝説の獣というだけあって、何もかもが奇妙で、概念的ですらある。
「問題は、なぜ偽物がいたのか、ということだ」
ソワレは髭を撫でつつ考える。
「偽物を掴ませれば帰ると考えたか、町から逃げるための時間稼ぎか……いや違うな。おそらく我々を試したのだ、力を測るつもりか……」
ソワレは独り言を言いながら歩み去ろうとしたが、僕はその背に呼びかける。
「ソワレ! そもそもなぜあんたが動いている。あんたが町にいる目的と関係ないだろう!」
「それはお互い様と言うものだ。素人が何にでも首を突っ込むものではない。君には戦う力はなかろう」
「僕のことはどうでも……」
「伝説の獣だからな。その写真一枚でも高値で売れる。牙の一本も取れれば徳の高い護符が作れる。泥に変えずに保存する方法もあるしな」
「……」
どうもごまかしている気がする。こいつは確か、資本家の出す懸賞金だとか、依頼だとかを目的に活動していたはずだ。護符だのをちまちま作るようには見えないが……。
「気をつけることだ。これとは比べ物にならぬ個体が、まだいる」
ソワレの気配が消える。明かりが少ないとはいえ、見失うほど遠くに行く時間はなかったのに。
だが、あいつのことはどうでもいい。
黒架が。彼女がどこかへ消えてしまった。
共同体からの離脱。それはもちろん、どんな場合でも共通の意味を持つわけではない。
だが黒架には深く響いてしまったのか。吸血鬼たちの城を出て、人の世界で暮らしている黒架には。
僕はもう一度、その名をつぶやく。夜のすべてに呼びかけるように。
「黒架……」
※
翌日。黒架は学校を休んでいた。
学校にも連絡がなかったらしく、僕は黒架に渡すプリントなどを頼まれる。ついでにノートもコピーを取っておいた。
だが、黒架はあのアパートにいるだろうか。
あるいは城に帰っただろうか。そもそも帰れるのだろうか。
姫騎士さんも来ていない。大会はもう数日後に迫っており、前乗りで現地に行っているらしい。
事情を話せば姫騎士さんは西都に来てくれるだろうか。力になってくれるのか。だが何もかも姫騎士さんに頼るのか、僕の彼女の悩みさえも。
何もできていない。その事実が釘となって胸に刺さる。
何でもする覚悟はあるが、戦う力が無いことは認めざるをえない。
僕の知る人々、それぞれの物語のどれにも関われず、世界から剥がれ落ちるような感覚。あるいは世界が僕のことを忘れてしまいそうな恐れ。鳴き始めたセミの声に心が乱される。
僕は屋上で、これからどうしたものかと途方に暮れる。考えはまとまらないが、ともかく放課後になったら黒架のアパートを訪ねてみよう。電話には出ないが、何度もかけ直して……。
「どうしたの、たそがれちゃって」
声をかけられる。
背後を見れば険の強そうな眼差しとクールな口元。3年の深水先輩……。
では、ない。何かが違う。
そうだ、深水先輩は前髪の一部に赤を入れていた。ほんの僅か、やや緩いうちの校風だとギリギリで指摘されない程度のカラーが入っていたのだ。
それが今はない。この人物は。
「リッチフロー……?」
「そうよ、何よ幽霊でも見たような顔して」
くるりと回ってみせる。そういう仕草をするとまるで少女に見える。
彼女は巾着袋を持っており、そこから棒だとかムチだとかがはみ出していたので風情は台無しだが。なんだか軟膏とかお香の匂いもするし。
「うちの制服……」
「制服ありますってお店があったから、借りてきたの、レンタルなら1000円でいいって」
「……アズマの古着屋さんか、足湯の近くにある二階建てのお店」
「そうね、たぶんその店」
だが、なぜリッチフローがうちの高校に。
そこでもう一人、現れる人物がある。
こちらはやはりキツめの目つきに、右手に持った缶コーヒー、そして前髪に一筋だけの赤。深水先輩だ。
「昼中くん、その人……」
先輩は眼を大きく開いてリッチフローを見る。
それはバク飼いの民も同じだった。奇妙なものを見る目つきになる。
昨日までは気付かなかったが、並ぶと眉の形や鼻の形まで似ている。こんなに似ていたのかと驚く。
「バクの噂を探してたのよ。そしたらこの高校で話が聞けるって聞いてね、乗り込んでみたの」
「なんでわざわざ……」
「早く聞きたかったし、学校なら比較的安全でしょ。忘れたの。私の存在はもう気付かれてる」
「……」
そうだった。昨日の黒いバク……暗喰はただの分身。本体とも言える存在がまだいるのだ。
だが町にいる保証はないだろう。ソワレもちらりと言っていたが、追手に偽物を掴ませて、本体は西都から出た可能性も……。
考えを打ち消す。そんな楽観的なイメージを持ってどうする。
リッチフローが正しい。できる限り警戒すべきなのだ。
リッチフローは深水先輩に向き直る。
「あなたが深水さんね? 話は伝わってると思うけど」
「ええ……夢を見ない人のことを聞きたいって。学外の人なの? 別にいいけど……」
どうやら二人は屋上で待ち合わせていたようだ。僕は偶然居合わせただけか。
「じゃあどこか人のいない部屋で」
「待ってくれ、僕も聞きたい」
申し出る。リッチフローは片目をすがめて僕を見る。
僕に数歩近づき、顎の下から睨めつけてくる。
「あなた、言っちゃなんだけど素人でしょ。これ以上深入りすることないんじゃない」
「……戦うよ。僕だって戦える。何でもする」
「ふうん」
僕の眼に真摯さの欠片でも読み取ったのか、リッチフローは薄く笑って問いかけてくる。
「戦士と、そうでない人の違いって何だと思う?」
「それは……鍛えているとか、武力組織に所属しているかとか」
「そうじゃないの。ようは心構えよ」
リッチフローは屋上の風を髪に受ける。
「誰でも、その日に戦士にならねばならないという日が来る。準備ができているか、満足な武器があるかは実は二の次。時にはナイフ一本でも戦士として戦う。病弱でも、老人でもね。それは練度にも現れる。千日の訓練が、十回の素振りに劣ることもある。まあでも、日本は平和な国だからね。あなたはまだ戦士の眼とは言えないわね」
「う……」
「これ貸してあげる」
ぽん、と渡される。それは木刀だ。柄の部分に藤蔓が巻かれ、鳥の羽のように薄い彫刻が全面にあってたいへん美しい。長さは70センチほどでやや短く、反りはない。
「私が彫ったやつだけど、私はムチの方が得意だからね」
「これ……なんかめちゃくちゃ重い……」
「バクは2千年ほど生きると寿命で死ぬんだけど、その死骸から生える樹なのよ。杖でも作れば村長の権威の象徴になる」
両手に吸い付くような手触り、鉄でも仕込んでるのかと錯覚する重さ。
何かが特別という気がする。これは霊的な力ということだろうか。
「それなら多少は戦士っぽく見えるわよ。なれるかどうかは、あなた次第ね」
「いいのか、こんな貴重そうなもの」
「貸すだけよ。それと、なくしたら日本円で1000万、ガチで請求するからね」
「うぐ……わ、わかった」
と、そこでまた深水先輩を見る。
「じゃあ話を聞かせてくれる? あなたと、そのご先祖のこと……」




