第三十三話 【八の禍戸の禁忌隷獣塔】
次の日、僕はまず姫騎士さんに会おうとした。
だが校内にいないらしい、大きな大会の前なので、三校合同練習試合とかで遠征してるのだとか。仕方ないので電話をかける。
これまでの調査について、バク飼いの一族について、そしてソワレと出会ったこと。
「バクを追うことは危険だと思います」
話し終えると、姫騎士さんは思いのほか反応が重かった。
「ソワレさんが動いておられるのでしょう? それならお任せするべきと思います」
電話の向こうからは竹刀の音。板張りの間をドカドカと踏み鳴らす音もする。姫騎士さんはどこかの学校で練習中のようだ。
「いや……あいつじゃバクがどうなるか分からない。バク飼いの一族が探してる子なんだ、何とかソワレより先に見つけないと」
「……昼中さんが危険な目に遭うのは、嫌ですよ」
今回の事件、姫騎士さんには直接関係はない。巻き込まれたとも言えない、僕たちが勝手に首を突っ込んでるだけだ。
「……悔しいじゃないか。この町でずっと囚われてた獣なんだ。僕は少しでも解決の力になりたい。黒架もいるんだ、そうそう命の危険にまではならないよ」
「……それは、そうかも知れませんが」
実のところ、町のことは二の次。
本当の理由は姫騎士さんだ。
僕が怪奇なることから逃げてしまったら、最前線に立つのは姫騎士さんになる、そんな予感がある。
そして姫騎士さんは、この町に現れるあらゆるものに一人で立ち向かうだろう。
それだけは、許せない。
そうなってしまったとき、僕は自分を許せなくなる。
だからせめて、露払いぐらいさせてくれ。
「バクは……このままじゃ退治されるか、連れ帰られる。その前に姫騎士さんもバクに触れるべきだと思う。できれば、リッチフローって子が連れてるバクにも」
「昼中さん……確認したいのですが」
「うん?」
「その方……リッチフローさんは、自分たちはバクと共に生きる共同体だと言ったのですね? 組織や仲間ではなく……」
「ああ、そう言った」
「昼中さん……私としては、本当にソワレさんか、バク飼いの一族にお任せするべきと考えます。でも、関わることは運命という気もしています。だからせめて、これから私の言うことを覚えていてください」
「……わかった、覚えておく」
「ではまず、文庫本を一冊、用意してください……」
僕は聞き返すことも迷うこともなく、回れ右して図書室へ向かった。
※
深夜の西都。
アドレナリンが回っているのか眼が冴えている。
それは半ば自分の意志でのことだった。怪奇なることに好奇を持ち、興奮しようとしている。恐れを抱かないために。
「使い魔たちを飛ばしてるっす」
僕と黒架、リッチフローの三人は西都にあるホテルの上にいる。西都で高い建物となればやはりホテルだ。十一階建ての屋上からは町が一望できる。
黒架は翼を広げ、差し出した指先にコウモリが止まる。コウモリは町じゅうに散らばっているらしく、ときどき黒架の手に戻ってきてキイキイと鳴く。リッチフローは少し疑問の顔だった。
「そんなので探せるの? 匂いを追うとは言ったけど、それは嗅覚って意味じゃないのよ」
「バクの匂いじゃないっすよ。ケーキの匂いっす」
「?」
やがて来る。ひときわ翼を激しく動かす個体が、細長い楕円を描いて黒架に方向を示す。
「見つけたっす! 四丁目の工場方面!」
黒架は僕を吊り下げて飛びあがり、リッチフローはビルの端にムチをひっかけて飛び降りる。
体が夜空の高みに浮き上がり、眼下には地面を走る巨体。緑のタテガミを持つバクが道路を走っている。
「ものすごく目立つけど大丈夫なのかな」
「いつもの夜より民家の明かりが少ないっすよ。すでに人払いのまじないが始まってるっす」
そして目的地上空。滑り台のようなベルトコンベアを備えたセメント工場だ。何らかの機械の低いうなりは聞こえるが、明かりはついていない。
ソワレはそこにいた。灰色づくめの装束。包帯を巻いたように顔が隠され、腰には革のケースをいくつか提げている。地面にはLEDのカンテラが置かれていて、何となく時代の流れを感じる。
「ハンターとしての正装ってとこか。やっぱり狩るつもりか」
その背後に降り立つ。僕はごく自然に黒架の前に。
ソワレはというと僕たちのほうを見もしない。気づいてないはずもないが。
ソワレはナイフを取り出す。瑪瑙のような自然石の刃だ。黒架も似たようなものを使っていた。
「真律を競う」
何もない空間を斬りつける。瞬間、その斬線が虹色の残像として残り、輪郭線となって八方に散る。
僕たちを囲うように走り回る雷。網膜に残るのは円筒に近い八角形の筒。小城宜団地跡のものより大きい。
「やっぱり結界か、ここに移ってたんだな」
ソワレに確認するように呟くが、彼は機械のように僕たちを無視している。
「あいつ……あなたたちの知り合い?」
「まあ一応……」
背後にリッチフローが来ていた。鞍もなしにバクにまたがっており、巨体の上で低く構えている。
「やはり相当な術者ね。力技だけど的確な術式。果物の皮をむくみたいに結界を剥いでる」
「あいつは白炎のソワレ。あれでも伝説の男らしいからな……」
リッチフローは腰からムチを抜き放つ。月光の中ではほとんど見えない。黒く塗られているのか。
「リッチフロー、僕たちでソワレを足止めしようか」
「いえ、少し様子を見るわ。邪魔にならないなら排除する必要はない」
……邪魔にならないなら?
それはまあ、ソワレとしてもバクが金になるなら捕獲を目指すだろう。だけどそれでいいのかな。バクの奪い合いにならないか。
「終わったぞ」
ソワレが言う。
そして僕にもはっきりと見えてきた。輪郭線だったものは面となり、立体となり、質感を備えて空間的広がりを持つ。場に満ちる風のうなり、外壁から漏れ出る光。
それはやはり円筒構造。大きさはこのコンクリート工場を包み込み、高さは雲を突き抜けるほどの超構造体。
それはビルだ。古い商業ビル、さびれたマンション、朽ち果てようとしている立体駐車場、古い学校、公民館、学習塾、事務所。
それは、ビルをつなぎ合わせた網。
冗談のように巨大な鎖が建物同士をつなぎ、建物同士がパッチワークを構成。それらのビルは通電し窓から光を漏らし、僕たちのいる場をあかあかと照らし出す。
「これは……なんだか、異様に禍々しい」
どんな存在がそれを作れるのか、鎖を打たれた建物は遥か上空から吊り下げられ、重力を受けてぎしぎしと揺れ、石片やガラス片がぱらぱらと降ってくる。数千万トンの質量に取り囲まれる威圧感。
僕はポケットから文庫本を取り出す。どこにでもあるような古い小説。
姫騎士さんに言われた通りの儀式を行う。
――その場所が見えたら、最初に眼についたものを数字に置き換えてください。
最初に眼につくものは……鎖だろうか。じゃあ93、となるか。
――その数字に当てはまるページを開いて、一番左端の行の中から、その場所の形を表すような文字を探してください。
連想する言葉は、八だ。僕らを取り囲む八角形の結界。
――指を真横に構えてその文字を隠し、一文字ずつ、ゆっくり開示しながら読んでください。
八、の、禍……。
不思議な感覚だ。それが意味のある言葉となることが確信で分かる。読みが自然に浮かび、その言葉がこの場所と溶け合っていくような。
「八の禍戸の禁忌隷獣塔」
世界の輪郭が明確になる。不安定で曖昧だった印象の世界がどこまでも見通せるような。
そこで気付く。この文庫本。僕が開いた93ページだけ凄まじく文字が乱れている。文章になっていないどころか段組みも乱れて乱数表のようだ。
「……」
僕が呼んだ名前。それはやはり姫騎士さんの言葉だ。世界の形を明確にするような、唯一無二の力。
「ほう……隠形の霧が完全に晴れている。ここまでの規模の結界すら暴くとはな」
ソワレは僕のやったことに気付いたのか、かすかに視線を向けて笑う。
背後からリッチフローの声。
「いたわ!」
結界の片隅にそれはいる。
まるまると太った豚のようなシルエット。白い部分の多いリッチフローのバクと違って、尻尾までくろぐろとした茄子紺色に染まっている。
「やはりな」
呟くのはソワレ。
僕が視線を向けた瞬間、ソワレは右手指に三本の短剣を挟み、その腕がびきびきと鳴って。
「待――」
言い終わる前に投擲は完了している。岩すら爆散させる力を込めた短剣。
ぴぎ、と鳴き声を上げて黒いバクは回避し、結界の外周部を回り始める。
「待てソワレ! 殺す気か!」
「もちろんだ。そちらのお嬢さんと同じようにな」
「……何」
白いバクが飛び出す。その勢いは大岩が転がるごとく。
口腔を限界まで開いて牙をむき出しにし、黒いバクに噛みつかんとする刹那。
ひゅん、と空気を裂く音。直後にバクの巨体が不自然に弾かれ、十メートル近くも飛んで地面を転がる。工場にあったトラックに叩きつけられる。
「バク! 動いて!」
リッチフローはバクをそう呼ぶのか、ムチを鳴らして指示を出す。バクは瞬時に体勢を立て直して跳ぶように動く。
「どうなってるんだ、なぜバクを」
「あれは暗喰よ」
アング、という言葉、リッチフローの声が一オクターブ低くなる。忌々しい感情を乗せた名前だ。
「アング……」
「夢を食べすぎたバク。私たちの村はバクと人間の数がほぼ等しい、それなら食べ過ぎたりしない。でも都会は人が多すぎる。あらゆる夢を食べたバクは変化する。邪悪になって、同族をも襲う」
「リッチフロー……まさか、最初からそのつもりで!」
アングのシルエットが揺らめいている。
バクを吹き飛ばした手段。それは鼻だ。
そいつの鼻は三つある。ロープのように長く、大男の腕のように太い。
そして先端は眼と舌を持ち、しゅるると威嚇音を放つ蛇だ。そいつは蛇の鼻を持っている。
それが伸びる。荒れ狂いながらバクを打たんとして。
そして到達の寸前で弾かれる。破裂音にも似た鼓膜を圧する音。蛇の胴体が裂けている。
「バク! 今よ!」
それはリッチフローのムチだ。数十メートルの距離からあの鼻を撃ち落としたのか。
バクは口腔を開いてその鼻に食らいつく。その牙の鋭さ、顎の力は重機のごとく。一秒で鼻を噛み切る。
咆哮。アングがのたうつ。見れば胴部に短剣が突き立っている。いつの間に第二射を投げたのか。
ぎいいい、と怒りと恐怖の混ざった咆哮。その背中が泥が吹き出すように伸び、一気に左右に広がって翼となる。カラスのような黒一色の翼を、左右に。
「飛ぶ気か」
ソワレがつぶやきを終える瞬間、爆発のような衝撃。
アングが円筒形の空間で跳躍する。鎖で吊られたビルの一つに着地。周囲の鎖がたわんでとんでもない質量が揺れ動き、拳銃弾のようなスピードで二手、三手と飛び回る。
効果はすぐに出た。石だ。ビルのコンクリートが剥がれて降り注ぐ。ガラス片は乱反射を見せて雨のごとく。
「黒架! 上へ!」
黒架に抱えられて飛ぶ。その周囲でガラスの滝が落下していく眺め。
僕はそれを理解して背筋を凍らせる。この降り注ぐ礫片とガラス。下にいるリッチフローとソワレは。
そして見た。
ソワレはまるで動揺を見せない。右手に短剣を握り、降り注ぐ死の雨の中で目を開く。
時間が引き伸ばされるような感覚。ソワレの集中が僕にも伝播するかに思える。
ガラスの一枚が、肉を切り裂く鋭利さを備えた一枚が、回転しながら落ち、それがソワレの顔面に触れんとする、瞬間。
雷光。
そう見えたのは白い刃。下から上へ投げられるその一投は空気を裂き、音を置き去りにするかと思えるほどの勢いでアングに激突。
空間を、それを聞く僕の心を音が満たす。
魂が凍るようなアングの断末魔。安定を失ってマンションの一つに衝突し。無数のコンクリート塊とともに、落下し、跳ねて。
そして墨のような、漆黒の血が大地を染めた。




