第三十二話
リッチフローと名乗った女性は、口元の布を取らないままに話す。
「バクというのは大陸の辺境、人の手の及ばない果ての地にいる。そこは常に春の風が吹き、あらゆる種類の果物が実り、泉の水はぬるく甘い、恵まれた土地」
「……そんな土地が」
リッチフローは襟元を戻し、黒く塗られた長ブーツを脱ぐ。色の対比に眼がくらくらするほどの白い脚。そのくるぶしを揉みほぐす。
「私ら吸血鬼はこの土地の顔役っすけど、バクがいるなんて聞いたことないっす」
「結界に囚われていたようね。やっとの思いでこの場所を見つけ出したけど、すでにもぬけの殻だった」
薄汚れた壁に、じっとりと湿るような畳。リッチフローは脇に置いてあった背嚢からシートを引き出す。ムシロかと思ったが、ごく普通に売ってる青のレジャーシートだ。
「さあ、眠って」
「いや、そんな急に言われても」
ぱし、と手を取られる。見ればリッチフローはすでにマントを下ろし、黒のシャツにひざ丈の黒ズボンという恰好。両足を大きく上に振り上げてズボンも脱ぐ。旅装束とのギャップのためか、はち切れんばかりにみずみずしさを含んだ足、その残像が眼に残る。
「私が一緒に寝てあげるから。お酒とか砂糖もあるわ」
「いや、え、何言って」
「ダメっす!」
首根っこを掴んで後ろに引かれる。
「昼中っちはうちの彼氏っす、誘惑しないでほしいっす」
「別に恋愛どうこうの話じゃないわ。私の村では当たり前のこと。抱き合って眠る方がよく眠れるものよ。二人より三人、三人よりは大勢」
「とにかくダメっす! 協力はしてもいいけど脱がないでほしいっす!」
リッチフローは肩をすくめる。やり取りの間も口当ての布以外をほとんど脱いでおり、それはまとめて隣の部屋に放り投げる。
「ちょっと待ってくれ……それ以前に、カビ臭くて寝付けない。少し掃除しよう。その間に詳しい話を聞かせてくれ」
「そうね、じゃあ掃除手伝ってね」
そして三人がかりで部屋の掃除。
正直なところ大型獣の獣臭さの主張がすごいが、ともかくほこりを払い、フローリングのカビを落として、リッチフローはお香を焚いて少しでも環境を良くしようとする。
「この場所は何なんだ? ここにバクが囚われてたのかな」
「そうね、おそらく人間の術者が作った結界。バクを封印して自分のために働かせる気だったんでしょう」
「働かせる、と言うと?」
「聞いたことぐらいあるでしょう? バクは夢を食べる。どんな夢でも食べるけど、バクは優しいから悪い夢を選んで食べる。その中にはいわゆる正夢もある。悪い夢を食べてもらうと、食べられた人間にはよりよい未来が訪れるの」
寝転がっている大型獣を見る。トラ縞の短い脚、短いタテガミ、弱ってはいるが確かに強大な存在という印象もある。神話的な造形、とでも言うのか。
「時々、人間の世界に迷い込む子もいるけど、その迷子は70年以上も帰ってこなかった。バクがそうそう死ぬとは思えなかったから、代々、一族から人を出して探してたの。まさか結界にいたとはね」
「その迷子は……今はどこにいるんだろう?」
その個体が深水恵流先輩の母親についていたのだろうか? 人間に利用されていたと……。
「分からない。ここにあった建物は取り壊されたみたいだけど、結界自体はまだ残ってる。自分で脱出したというより、誰かに連れ出されたんだと思う」
「もう西都を出たのかな」
「この子は同族の匂いが分かる。私たちは旅の果てに、ようやくこの町に匂いの痕跡を見つけた。まず町の周りをぐるりと歩き回ってみたけど、この二十数年でバクの通った気配はないの」
「そんな大昔の匂いまで分かるのか?」
「分かる。バクは同族の匂いというか、気配に敏感なの。正確には魔力とか神性、それを感じ取れる」
寝ている獣を撫でる。ぐるると低くうなりつつ、床の上に鼻を這わせる。
「じゃあ、追跡できるっすか?」
「匂いを追うみたいにはいかない。でもバクの居場所に近づけばわかるはず」
迷子のバクがどの程度の大きさかは分からないが、家の中に飼える大きさではないだろう。この場所と同じように結界に隠されているのか。
黒架なら結界を探せる。西都をしらみつぶしに探せば何とかなるかも知れない。
「昼中っち、横にどうぞ」
と、袖を引かれる。
見れば黒架はレジャーシートに横になり、靴と靴下を脱いでいた。
どさり、とその向こうでリッチフローも横になる。口の布あても最後に外す。
「……」
「なに? 顔になにかついてる?」
「いや……別に」
三年の深水先輩に少し似ている。具体的にどうとは言えないが、雰囲気や顔立ちの凛々しさが。バイクと缶コーヒーがよく似合いそうだ。
そこから連想して、思いついたことを聞いてみる。
「なあ、そのバクが迷子になったとき、バク使いの一族が同行してなかったか? それが日本に渡って、先祖代々この町に住んでた、とか……もっと言うと、バク飼いがバクを村から連れ出したとか」
「さあ……。何せ70年も前のことだし、私たちは人間よりバクを優先させるからね。バクの迷子は気にするけど、消えた人間は記録に残らないの」
「そんな馬鹿な」
「そういう村なのよ。私達には名前はあっても、個人の区別はあまりない。集団であり全体で一つ、すべてをバクに捧げて生きる、そういう共同体なの」
「……」
リッチフローは雑談はここまでとばかり、僕に横になるように手で示す。
「さあ、とりあえずバクを回復させてからよ。あなたも協力して」
「……そうだな、分かったよ」
「回復させるための夢だから、楽しい夢のほうがいい。食べ物とか、えっちなこととか」
「そう言われても……」
なんか添い寝の機会がえらく増えてる気がする。東京の方にはそういうお店もあるらしいけど、特に趣味なわけじゃないんだが。たぶん。
日はまだ高いが、外に物音はしない。休日の温泉地とはいえ、こんな町外れに来る人はいないだろう。僕も黒架も一人暮らしだし、ちょっと昼寝するぐらい問題ないか。
僕は黒架のそばに寄り、自分の腕を枕にして、息が混ざる程度の距離となる。綿のような金髪が鼻を撫でて、その端正な顔はかすかに微笑む。
寝付きはいい方だ。僕はじっくりと眼を閉じて、時間の流れの中に己を溶かし。
そして、やがて眠りに。
※
――
――らん
がらん、がらん――。
鐘の音が響く。
遠く響いている。
音は城の中に反響して、骨に届くように思う。
――不甲斐ない。
――その年まで血の発現が見られない。
――やはり人間の血が濃すぎた。
言葉の意味はよく分からない。だが己のそばで佇む人物、遥かに見上げる長身の人物が、じっとこらえて拳を握っているのが分かる。
それは赤いドレス、ぞっとするほど美しい女性。引き結ばれた唇。
――血族を率いる器ではない。
――深遠なる血筋とはいえ。
――そもそも、代替わりなど不要。
様々な言葉が混ざっている。とても広い球形の空間、その中を行き来する言葉。そのすべてが自分に向けられた言葉だと分かる。
――相応しくない。
――あまりにか弱い。
――排除せねば。
言葉は蝿の群れのよう。
わんわんと響いてまとわりつく。
ただ悲しく、切なく、無力であると。
そして、赤いドレスの女性の眼が。
自分を、見下ろして……。
※
「ちょっと」
ごん、と頭頂部を殴られる。
「あいたっ……」
寝起きはいい方だが、さすがにレム睡眠から一気に水面まで引っ張られたので反応が鈍い。
薄く眼を開けば、あぐらを組んだ太腿と下着がもろに見えた。数秒後に覚醒して、手のひらで視界を閉ざしつつ身を起こす。
リッチフローだ。シートを回り込んで僕の目の前に座っている。
「なんだよ……言われた通り寝てたのに」
「あなた私のバクになに食べさせてるの」
え、と思い、今見てた夢を振り返る。
なんだか断片的だが、大勢の人物に責められるような。
「なに悪夢なんか見てるのよ。楽しい夢って言ったでしょう」
「むちゃくちゃ言うなよ……。そんな選んで見れたら苦労しないだろ。それに今の夢は身に覚えが……」
そこで、リッチフローが声を潜めて話してることに気付く。
背後を見る。黒架はまだ眼を閉じて眠っている。気のせいか表情に緊張の色が残り、まぶたを強く下ろしている……ように見える。
「あなたは夢を見てなかった。バクが食べるときにそこの吸血鬼の夢が流れ込んだんでしょう」
「そうか、今のは黒架の夢……」
極上の色合いをたたえる真紅のドレス。黒架の母親だろう。責め立てていたのは城の中で見た吸血鬼たちか。
黒架の母親は守旧派の吸血鬼たちから批判を浴びていた、それは黒架にも及んでいたが。
――追放。
――異端。
その言葉が、皮膚に食い込んだ針のように忘れがたい。
「……済まない。でも理解してやってくれ。黒架は過去に色々あって、ついさっきもトラウマを刺激されるような相手が現れて」
「なに、彼女のせいにするの?」
つんと三角に尖らせた眼、リッチフローは僕の眼前に顔を肉薄させる。美人ではあるが実に気が強そうだ。
「見てたけど、あなたたち並んで寝てただけじゃない。互いを安心させるために二人で寝るんでしょう? 眠るってことをナメてない?」
「……」
言われて、僕は言い返せなくなる。
同衾してる彼女が悪夢を見た。それは確かに男として、いや、彼氏彼女の関係として恥ずべきことかも知れない。
単に並んで寝てただけというのも本当だ。もっとリラックスを与えられたはずなのに。
いや、それ以前に、今の夢……。
吸血鬼の城から追放されんとする夢だ。実際にあったことなのか、悪夢として想像する悪いイメージなのか分からないが、黒架はまだ不安を抱えているのだ。
それに寄り添えていなかった。先刻、ソワレに対峙したときも。
人間より強いから、夜の王たる種族だから、何となく支えなどいらないと思っていたかも知れない。黒架のことを考えていなかったのかも……。
「ううん……」
黒架が身を縮ませ、わずかに眼輪筋を動かす気配がある。黒架はまだ悪夢の中にいるのか。あるいは、それは常のことなのか。
「二人とも、もういいわ。どんな夢でも夢は夢。バクの回復の助けにはなるから」
ぐるると低いうなり、バクは少しは夢を食べられたのか。半端に夢の記憶が残ったのは、ちゃんと食べられなかったからではないか、そんな気もする。
「リッチフロー、君は迷子のバクを探すんだろ?」
「そうね、一日ゆっくり休んで、明日の晩には活動できるでしょう。この町には妙なのがいるみたいだから、気をつけないと……」
「僕たちも協力する」
リッチフローは僕を見て、けげんそうに口元の布を巻き直す。
「どうして?」
「この町が吸血鬼の領地ということもあるけど……やはり放っておけない。伝説の獣を閉じ込めておける術者なら、僕たちの目的とも関連がないとは言えない」
「目的……?」
「その代わり、リッチフロー」
「なに?」
僕は心の底から真剣に、その眼を見据えて言った。
「僕と寝てくれ」
光の速さでデコピンを食らった。
※
「祖母のこと? 知らないわ」
三年の深水先輩は、ブラックの缶コーヒーを飲みながら言う。
「先祖がどこに住んでたか、とか」
「曾祖母は満州からの引き上げ組だったらしいけど、詳しくは知らない。写真の一枚も持たずに着の身着のままで引き上げて来たらしい。母からご先祖のことはほとんど聞いたことがないの」
一緒に話を聞いてた黒架がつぶやく。
「確かにちょっと似てるっす……」
「?」
深水先輩は小首をかしげる。
確か、バクが迷子になったのは70年ほど前、戦後の混乱期に、満洲からの引き上げ組に混ざって日本にやってきた、という推測はできるのかな。
だが……結界で閉じ込めていた、という話には少しそぐわない。
それに、深水先輩の祖母が言っていたという、済まないねえ、苦労をかけるねえ、という言葉は何の意味を持つのだろう。
バクが日本に渡って、連れ添っていたバク飼いの一族とはぐれた。
そしてバクは悪意ある術者に囚われ、バク飼いの一族は別個に子孫を残して現代まで……。
どうも違う気がする……。何かを見落としている。ことは三代前の祖先からの話だ、とても追いきれそうにない。
「分かりました……ありがとうございます、先輩」
「いえ……またいつでも呼んで」
先輩は去っていく。
「黒架、おそらくこの件はソワレも動いている」
「……」
「動機は不明だけど、どうせ金だろう。伝説の獣だからな。何かしら金にできるのかも知れない」
「うん……分かってるっす。あいつが動くなら、迷子の子は、たぶん今晩にでも見つかるっす」
「だから無理をしなくてもいい。姫騎士さんにも声をかけるから、僕たちだけで行ってもいいんだ」
黒架の手が、僕の手首を握る。
わずかに震えて熱を持つ、懸命さを潜ませる指。
「大丈夫……行ける、よ、私」
「……黒架」
黒架は強い。本当に心からそう思う。
過去の痛みも、未来の不安も、じっと心に秘めて明るく振る舞える、そんな人だ。
でも、感情を押し殺して、恐れを内側に閉じ込めて。
そして悪夢に耐え続けるのか、黒架……。




