第三十一話
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「小城宜の団地跡……このあたりか」
それはかすかに聞き伝える高度成長期のこと。
西都は温泉地であると同時にお茶の町、製陶業の町でもあったが、かつては林業や採石、製紙業など産業は多岐に渡っていたらしい。現在では廃山になったが銀山などもあったとか。銀の採掘中に温泉が湧き出したことから生まれたのはかの銀山温泉だが、西都の町はその逆を辿ろうとしたわけだ。
最盛期の人口は今の三倍。その時期には西都にも団地が作られた。それが小城宜団地である。
「あそこって森じゃないっすか?」
今では団地は跡形もなく、原野のようになっていたが、そのうち木なども生えてきて、今は森に近くなっている。時間の流れは恐ろしい。
それは西都の片隅、行ってみるとだだっ広い土の原野だ。
草はまばらなのに何故かクヌギやナラが生えていて、生態系は豊かに見える。誰かが無許可で植林したという噂もあるらしい。
「けっこう立派な木だな。団地がなくなって20数年じゃここまで育たないと思うし、やっぱり植林されたのかな」
「なんかそういうのが流行った時期があるらしいっすね。勝手に木を植えると逆に生態系を壊す恐れがあるとかで、そういうゲリラ的なエコは下火になったらしいっすけど」
クヌギはドングリを実らせ、タヌキや野鳥などのエサになるので自然が豊かになる。理屈は分かるが、そんな計算通りに行かないだろうという感覚も分かる。
まあそんなことはさておき、深水先輩の母親、深水蚕恵さんは20年以上前にここに住んでいた。上京のために西都を離れ、帰ってきた頃には団地はなくなっていたわけだ。
僕たちはまず団地に住んでいた人を探した。しかし居住者は西都の衰退とともに町を離れた人が多く、やっと連絡がついた人からも大した話は聞けなかった。
いわく、怪物の噂など聞いたこともない、夢は普通に見ていた。どうも怪談話の収集と思われたようで、露骨に聞き込みを拒まれたこともあった。
そして一通りの調査で何も進展がなく、手がかりを求めて団地跡まで来たわけだが。
「もうガレキも残ってないな……当時のことを知ろうにも、これじゃあ」
「昼中っち」
がし、と両肩を掴まれる。
黒架の緊張した声で、僕もその人物に気付く。クヌギの木の陰にいた長身の男。
「あいつは……」
開襟シャツに黒のチノパン。白髪に口ひげをたくわえた男。
白炎のソワレである、なぜここに……。
彼は昔ながらの一眼レフカメラを持ち、樹を撮影している。僕達に気づいてないわけもないが……。
「何をやってるんだ」
やや声を張って呼びかける。
「ドングリの樹を探している。ここはなかなか面白いな。クヌギだけではなくマテバシイやスダジイもある。シイの実はアクが少なく生食もできる。秋には拾いに来るのも楽しそうだ」
「……昼中っち」
黒架は態度に出すまいとしているが、僕を掴む手の感覚、背中にぴたりと寄り添おうとする感じ、やはりソワレを前に緊張している。
かつての一件、ソワレは吸血鬼たちの手引きによりその城に侵入し、数多くの吸血鬼たちを殲滅した。吸血鬼が不死とはいえ、やはり身内の仇であることは間違いない。
「大丈夫だ黒架、ハンターは基本的には吸血鬼をターゲットにしない」
「そうだな」
ソワレはのっそりと振り向き、口の端だけで笑いながら僕らに近づく。
そして、そっと紙を差し出す。
「夏の新作フェアを予定している。涼しげなゼリーやシャーベットもあるぞ。割引券を進呈しよう」
「……」
「そう尖った目を向けるな、吸血鬼の姫君」
ソワレは体から力を抜き、なるべく温和に話そうとしている。僕達を子供扱いしてるのと同義だが、仕方あるまい、客観的に見れば猛獣と子犬である。
「あの一件は吸血鬼の古老、深遠なる方々は承知の上でのことだ。私と君が敵対する理由はない」
「分かってる」
声をこわばらせつつ、黒架が背中越しに言う。
「理屈は分かってる、あれは実質的には反カルミナ派の粛清だった」
黒架カルミナ、黒架の母親だ。吸血鬼のかつての指導者であり、吸血鬼の城とともにどこかに姿を隠したらしいが。
「でも感情はまだ収まらない。あなたとはあまり会いたくない。敵対するつもりは私もないけど、あなたの前で感情が揺れ動くことが不快なの」
「ふむ」
ソワレは白髪に指をすき入れ、ごきりと首を鳴らす。
「吸血鬼の階梯を上ることだ。人間など及びもつかない深淵の存在となれば、ハンターなどに悩むこともなくなる。あるいは、人間としての成長だな」
「……何を言っているの」
「君の母上は人間を評価していた。その文明や生命力に敬意を払っていたのだよ。姫君にもそれを学んでほしいと思っていたのではないかね」
「……」
黒架は背中で身を固くする。ソワレは少し残念そうにまなじりを下げ、振り向いて歩み去ってしまう。
その姿が見えなくなってから、ようやく僕は黒架の肩を抱く。
「大丈夫か」
「心配ないっす……ちょっと緊張しただけ」
それは心的外傷だろうか。
あのラインゼンケルンの城での戦い、あれが黒架の心に影を落としているのか。
黒架は何度か深呼吸をして、そしてようやく落ち着いたのか、ぱちりと赤い眼をまたたかせる。
「それより昼中っち、どうも結界の匂いがするっすよ」
「結界」
黒架は小さなバッグを提げていたが、その中から長めの針を取り出す。自然石を削ったものなのか、表面には油膜のような光沢がある。
「この土地……うちの城に似てるっす。術式の気配っす」
「結界で何か隠されてるのかな、黒架の城みたいに」
「結界は自然に生まれることもあるけど、これは秩序を感じる。ちょっと結界破りの術を試してみるっす」
黒架は口の中で何かをとなえ、思い切り振りかぶって針を投擲。
がつ、と針が空中に突き立ち、波紋が広がるようにコンクリートの壁面が。
針は三本。その周辺でぴしりと空中放電の気配があり、周囲に輪郭線が浮かび上がる。積み木を組み合わせたような、立体的な構造物が見える。
これは、何だか力技な印象だ。例えるなら透明になれる術を使っている相手に針を投げて、痛みで術を解除させるような。
「う……!」
ばきいん、と針が砕ける。
数秒だが見えた。それはキャンプファイヤーのような、コンテナ状のコンクリート塊を積み上げた構造。僕たちを囲むように八角形に積まれた巨大なタワー状の建物だ。
「かなり高位の結界っす。自然発生したものじゃない。専門の術者が何年もかけて構築したものっす」
「……」
結界……この場所にそんなものが。
それはバクの話と関連してるのだろうか。それとも先日の宿のように、この場所にあった団地の自己認識というやつだろうか。
僕たちが迷い込む不思議な世界、それは一つ一つ理屈も法則も違うような気がする。では今回のこれは一体……。
「黒架……姫騎士さんに電話しようか。姫騎士さんなら電話越しでも僕たちを結界に送り込めるはず」
「……ううん」
黒架は少し悔しそうだった。先ほどソワレに会ったためもあるだろう。吸血鬼としてのプライドもあったかも知れない。
「もう少しやらせて欲しいっす。こう見えてもちゃんと吸血鬼の術も勉強してるし、文献も読んでるし、爪の鍛錬も……」
指をカギ型に曲げて力を込める。その指先で血管が脈動するような気配があり、爪がびきびきと音を立てて伸びる。以前にも見た能力だ。肘から先を水平に、肘を真後ろに引いて弓をつがえるように構え、呼吸とともに突き出す。
「やっ!」
瞬間、爪の先端が何かを破る。
僕たちがシャボン玉の中にいて、その薄膜が崩壊していくような眺め、周囲に出現するのは八角形の構造体。
まずコンテナのような直方体のマンションを東西南北に置く。それに斜めに渡すように同じ形状のコンテナを置き、それが三段、四段、五段と積み重なっている。一つのコンテナは列車の車両ほどの大きさがある。
「これは……」
「人工的な結界っす。というより、ここにあった団地は本来はこういう形だったっすよ。住んでる人間は誰も気づかない。幻覚にかかったような感覚だったと思うっす」
外側に出てみる。なるほど、一つ一つの直方体には窓もあるし、ベランダもあって物干し竿も見える。内側は窓一つなくのっぺりしているので無機質だが、外側から見るとお洒落なマンションに見えなくもない。コンテナが重なってる部分は階段になってるようだ。
「なんでこんなものを?」
「え、さあ……?」
上を見る。霧がかかっていて上の方は見えない。というより上の方は煙のように薄くなって大気に溶けている。正確な高さがよく分からないのだ。
「これって何階建てなんだ?」
「ごめん……それもわかんないっす。結界を力づくで破ったから、見える範囲が限定されてるっすよ……」
「……」
かなり古いものというのは感じる。
ここにバクがいる……いや、かつて「いた」のだろうか。
と、そこで僕の耳がぴくりと動く。
「何か聞こえる」
「……そうっすね、私も聞こえたっす。あそこ」
言うが早いか、黒架は背中のファスナーを下ろし、肩甲骨から翼を伸ばす。胸元がぴたりと吸い付くようなワンピースなので、翼を出しても服のラインが崩れない。
黒架が僕を持ち上げ、北東の三階へ。
造りは本当に昭和風の団地である。ベランダには石碑のようにごつい室外機、薄汚れた布団ばさみ、プランターの破片とか用途のよくわからないゴムホースとかが置かれている。
ガラス戸は開いていた。僕たちが踏み込むと、声が。
「……誰? 吸血鬼?」
そこにいたのは、山高帽をかぶって黒マントを身に着けた人物。
女性だろうか。眼の下まで布を巻いているので顔立ちが分からない。
そして、大きな獣。
それは短い四本の脚、象のように長い鼻。大きく裂けた口と短い体毛を持つ獣。
「バク……」
つぶやく。動物園で見たマレーバクよりはだいぶ大きく、脚は虎のように縞模様が入っている。耳の後ろにタテガミのようになびく毛があり、全体の大きさは大型冷蔵庫か軽自動車か、とにかく想像していたより大きい。
「そうよ、これが獏。夢を食べる獣ね」
くぐもった声でその女性が言う。獣は畳の上に横倒しになり、ひゅうひゅうと短く浅い息をしている。素人目にも苦しそうだ。
「なんか具合が悪そうっす」
「ここに来る前にちょっと怪我をした。内臓にダメージがある」
女性は心配そうに腹を撫でる。体毛で分かりにくいが、その部分は黒ずんで腫れ上がっていた。なんだか重傷に見える。崖から落ちたか、バイクに横っ腹から衝突されたか。
「大丈夫なのか?」
「バクは強いから自然治癒できる。ただ、夢を食べさせないと治りが遅い」
「夢……」
「あなたたち、ちょっとここで寝てくれない?」
唐突にそんなことを言われる。
「え、ここで?」
「特にそこのあなた、その翼は吸血鬼でしょう? 高貴な種族の見る夢なら栄養がありそう」
「ちょっと待ってくれ、そもそも君は誰なんだ、この西都の町で何をしてるんだ?」
「私はリッチフロー」
その女性は黒一色の衣装、さらに胸元にさらしを巻いていたが、急にそれをほどいて胸元を露出させる。果たしてその豊かな双丘の間に、猛獣の牙をクロスさせた刺青が。
「バクを操る一族よ。仲間を探しているの」




