第三十話
夜半の風が頬を撫でる。
閉店後にいくつかケーキの試作をし、店の戸締まりをして、24時間のスーパーで買い物を済ませ、帰宅の途についたのは夜の12時。居酒屋はまだ明かりがついているが、町はそろそろ温泉の熱に包まれて眠りにつく頃だ。
「日本の夏はこんなにも蒸し暑いのか……」
まだ梅雨明けの7月始め、この暑さが数ヶ月は続くと聞いて、早くもうんざりしてくる。祖国のフランスは一年を通して安定した気候であり、暑すぎることも寒すぎることもない。
「ふむ……この暑さだと味わいがからっと軽いものがいいか。バターを変えてみるか……」
何ごとも己の仕事に生かさねばならない。暑苦しさすらもだ。
長期潜伏のために始めたケーキ屋だが、やる以上は手を抜くことはない。
何より隣のメイド喫茶とやらにだけは負けぬ。この猛炎にして白日の名にかけて。
「……」
足を止める。
周囲80メートルほどの気配を探り、指の関節の具合を確かめ、つま先を地面に突き刺すように重心を安定させるまで一秒。
「出てきたらどうだ」
二人組、いや、片方は獣か魔物か、四本脚で歩いている。それが角を曲がって近づく。私はすでに人払いのまじないを開始している。
ばち、と音を立ててまたたく街灯。周辺の明かりが次々と消えて場が闇に近づく。これはラップ現象とも呼ばれる電子機器への干渉。片目を閉じて闇に眼を慣らす。
現れる。そいつは山高帽をかぶり、黒マントをなびかせた人物。その手からリードが伸び、獅子のような大型の獣が。
「――お前」
闇の奥からの声。術式で歪ませている。大した技ではないが、くぐもった声は男か女か不明にさせている。
「――仲間を、どこへやった」
「……」
もちろん仲間など知らぬ、何を言っているのか意味不明だ。だがこちらが答えてやる義理があるかどうか。
それよりは少し焦らしてみよう。こいつがどういう性格か知っておきたい。
「聞けば答えるのが当たり前か?」
「……お前」
歪められた声にありありと怒気がにじむ。
すでに町全体から人の気配が絶えている。結界術によって存在次元をずらしているのだ。
私はレジ袋を一回転させて真上に投げ、ベルトの背中側に指を入れる。
獣が駆ける。
それは短い四本の足、長い鼻と尖った口。首のあたりまで裂けた口と、ぎらりと月光に光る牙。
そして口腔の奥に感じる強烈な魔力。
私と獣が交差。自動車ですら抉られるような勢い、数百キロはある体が跳躍し、後方でがりがりとアスファルトを削りつつ着地。
私の手元には短剣。刃の長さは親指ほどの隠し武器だが、聖別の祈りがかけられている。
そしてそれは、粉々に砕けている。
「ほう……」
体毛の一本にまで循環する魔力。大型獣の分厚い脂肪と頑健な骨。並の剣では刃が立たんか。
ぴぎ、と豚のような鳴き声。私は落下してきたレジ袋をキャッチする。獣は小刻みに震えて、がふ、と反吐を吐く。
残念だったな。短剣で触れる刹那に拳も叩き込んでおいた。衝撃は脂肪の奥に浸潤。体内をかき混ぜられるような感覚だろう。東洋の神秘とか言われる技だが何のことはない。打つときの姿勢とタイミングの問題だ。
風切りの音。だあんと地面が爆散するような眺め。
すでに私はそこにいない。塀の上に飛び上がっている。ご丁寧に漆黒に塗ったムチか、山高帽の方は猛獣使いというわけだ。
さて、実力はだいたい分かった。生け捕りにしてしかるべき組織に引き渡すか。
猛獣使いと獣、私を挟んで左右に位置しているが。
む、こいつら。
掛け声も合図もなく、二人は背を向けて逃走を測った。息が合っている。別れて逃げてどこかで合流する気か。どうする、どちらかを追うべきか。
その時、強烈な咆哮。
F1が最大までエンジンをふかしたような音だ。周囲の民家に次々と明かりがつく。
「……なかなか手際がいい」
あえて町を叩き起こして追跡を防いだか。まあ良い。依頼のあるわけでもなし、今夜は見逃してやろう。
そして私は、散歩の続きを楽しむように家路についた。
※
七月。
剣道部は活気を増していた。道場の入り口には大勢の男女が詰めかけ、練習に出ている姫騎士さんに声援を送る。
七月下旬には大きな大会があり、姫騎士さんにとっては2連覇がかかっている。
だが姫騎士さんは他の部員の指導に専念していた。その大会は5人一組の勝ち抜き戦。去年はほとんど姫騎士さん一人だけの力で優勝したらしいが、次の大会では他のメンバーにも勝ち星を取ってほしいのだとか。
「私、ひらめいてしまったんです」
そんな忙しい日々であることを全く無視して放課後の図書室でのこと。
姫騎士さんは唐突に僕と黒架を呼び出し、それを発表する。
「犯人はドラえもんなんです」
「はい???」
僕と黒架の眼が点になる。唐突に犯人にされたドラえもんかわいそう。
「先日、ドラえもんを見てたのですが、人の眠気を吸い取る道具というのが出てきました」
「見てたのか」
いや違う、ええと、さすがは姫騎士さんだ。見るアニメも実に高尚。ドラえもんは日本人が最初に触れるSFだからな。
「なので、私は誰かに眠気を奪われてるのではないか、と分かったんです」
「……はあ、そうなんすね」
黒架の何とも言えないアンニュイな返答。
「きっとそうです。他人から眠りを奪ってぐっすり寝ようとしたり、眠りを売りさばく悪徳商人がいるんです」
「……」
そんな馬鹿な、と簡単に流せないのが姫騎士さんの恐ろしいところだ。
もちろん僕は姫騎士さんの手足であり下僕。僕に手伝えることがあるなら何でもやろう。
「それって貘みたいな話っすね」
黒架が言う。彼女の金髪はそろそろ他の生徒も慣れて来た頃だが、ここ最近は何だかますます顔色が明るくなって、肉付きも良くなってる気がする。それでいて切れ長の眼と細い首のせいで、流麗な印象は陰ることがない。
「夢を食べる獣っすよ。中国から来た妖怪で、日本にもいるっす」
「動物園にいる方のバクは見たことあるけど、妖怪の方も実在するんだな」
「そうっす。バクってのはもともと縁起のいい動物で、その絵を屏風や寝具に描いておくと、病気や邪気を払うと言われてたっす。寝具に描くという発想が転じて悪夢を払うとなり、さらに悪夢を食べるとなったっす」
連想ゲームのような話である。妖怪の成立なんてそんなものだろう。
「黒架ジュノさん、バクさんにお会いできますか?」
「うーん、吸血鬼は魔物を飼う人もいるっすけど、バクは聞いたことないっす。そもそもすごく珍しい獣で、一生に一度でも会えたらすごく運がいい方だとか」
というか、今の話では「悪夢を食べる」であって、「眠りを食べる」ではなくないか?
僕がそう言うと、黒架は腕を組んで困り顔になる。
「そういうのって会ってみないとわかんないんすよね。ママが言ってたけど、幻想の生き物ってのは人間の伝承に影響を受けるんす」
「影響……」
「そう、吸血鬼は十字架が苦手とみんなが思えば、私らは本当に弱くなる。吸血鬼が不死なのは伝承として強固だからと言われてるっす。吸血鬼が滅び去るイメージを誰も持てない。永遠に夜に君臨し続ける。だから無敵なんだって……」
まず吸血鬼がいて伝承ができたのではなく、その逆。伝承があってそこから吸血鬼が生まれた。
それは、亜久里先生の言う重奏の概念だろうか。吸血鬼は存在するとみんなが思ったから、吸血鬼のいる世界が生まれた……。
話がそれていると感じる。僕は軌道修正を試みる。
「黒架、他に眠りに関係する魔物はいるのかな」
「うーん、モルペウス、メア、ブラウニーにサンドマン……。でもどれも「悪夢を見せる」とか「眠らせる」魔物で、眠りを奪うって感じじゃないっす」
「よし、じゃあとりあえずバクを探そう。何か分かったら電話するよ」
「お願いします。私も部活が終わったら……」
言いかけるのを、僕と黒架の手が遮る。
「ダメだ。今は部活に専念して。夜中もちゃんと休むんだ。というかまずは聞き込みとかだから、深夜にはやることないからね」
「はい……すみません」
そして僕たちは聞き込みを始める。
最近、眠りに異常がないか。夢を見なくなった人はいるか。大きなバクみたいな獣を見なかったか。
荒唐無稽な質問だが、黒架はわずか数日で百人以上に聞き込みをしていた。黒架を中心に聞き込みにリレーが生まれ、少しでも関連しそうな話が黒架に届けられる。
黒架が人気あるのはそりゃ付き合ってる身としては嬉しいけど、なんかくやしい。
「あなたたち、バクを探してるの」
意外にと言うべきか、四日目の放課後にその人物は現れる。
3年の深水恵流先輩。目元に少し力強さを感じる顔立ちで、たっぷりとウェーブの乗った髪にはわずかに赤を入れている。
先輩は地元のツーリングクラブに所属しているバイク乗りとのことだ。冬なら革ツナギと缶コーヒーが似合いそうな凛々しい魅力を感じる。
「知ってるんですか」
「知っているというより、夢を見ない人の話を知ってるの」
西都高校、放課後の中庭。先輩は僕達に缶コーヒーを買ってくれる。聞き込みをしてるのはこちらなのに妙な感じだが、どうも聞いてくれる人を探してたらしい。
「それは私の母よ」
先輩の母親は深水蚕恵。西都に生まれ育った人物で現在43歳。バイク店を営んでいた深水城一氏に嫁ぎ、オイルの匂いに塗れて懸命に働いているという。
「ある時、母は子供の頃を思い出したらしいの。自分は15歳ごろまでまったく夢を見なかったと。夢がどういうものか分からなくて、テレビやマンガで語られる夢は、単なる眠る前の考えごとだと思ってたらしいの」
「夢を……」
姫騎士さんと似ている、と感じる。
眠ることがない、夢を見ることがない。それはもしかして当人は異常と思えないのだろうか。苦しいとか痛いとかならともかく、日常を送るぶんには支障がないことだし……。
僕は少し身構える。語り口がどこか重い。そして神妙な気配がある。
この話は、何かしら重大な秘密の暴露なのだ。深水先輩にとってはあまり人には言えない、しかし自分の中に溜めておくこともできない、そんな話だ。
「母はこう言ってた。母の母、つまり私の祖母は、目を覚ました自分を抱いて、ごめんね、すまないねえ、苦労をかけるねえと呼びかけていた。そして泣いてもいたらしいの。そんな呼びかけはごく小さい頃だけで、小学校に上がる頃には行われなくなった。思い出したのも祖母が亡くなって何年も経ってから」
……何だろう、その話は。
何かしら不気味で、奇妙な話だ。子供の頃の深水蚕恵さんに何が起きていたのだろう。祖母という人物は何を思って泣いていたのか。
「母は15歳の頃まで祖母の実家に住んでた。母は全寮制の高校に進学して、一度西都を出てるの。夢を見なかったのは実家が原因じゃないかと思う。もしかして、その家にバクが住んでたのかもね」
深水先輩は缶コーヒーを投げ、それはがらんがらんと音を立ててゴミ箱に入る。音に反応して鳥の飛び立つ気配があった。
「聞いてくれてありがとう。何だか不気味な話だから、あまり人に話したことがないのよ。求めてた話と違ってたらごめんなさい」
「いえ……とんでもないっす、参考になったっす」
「そうですね、ありがとうございます」
間違いない。と感じる。
夢を食べる存在、それが西都にいるのだ。
それは果たしてずっと昔からいたのか。
それとも、姫騎士さんに呼応するように現れたのか。
そして僕たちは、この件をどこまで追うべきなのか……。




