第三話
風車がからからと回るような日々。
姫騎士さんはいつもと変わらない。日々の授業でノートを取り、委員会の仕事にも出る。
剣道部主将という立場ではあるが、部に出るのは週に一、二回らしい。うちの剣道部のレベルに合わないのか、流派の違いというやつか、詳しい理由は聞いていない。
姫騎士さんには趣味というものが見当たらない。家にテレビはあるがコンセントが抜かれたままだし、本も雑誌もない。おもちゃも絵本も、人形すらも。
あえて言えば剣が趣味なのだろうか。しかしそれもどこか妙な感じだ。あまり楽しそうに見えないし、かといって自分を追い込むほど熱心に鍛錬、という印象もない。
無理に形容するなら、稽古をすると決まっているから稽古する、という感じだ。
「もう一週間か……」
さすがに風呂場の中まで見張ってはいないし、学校でもそれなりに離れる時間はある。部活の時も剣道場には入れない。僕も何度か家に帰って着替えたり、身だしなみを整える必要があった。
しかし平均して毎日二時間、それほどしか眼を放していない。
姫騎士さんが授業中に居眠りなどするはずもないし、そもそも学校にいるときの姫騎士さんは常に二桁の人間から見られている。それとなく聞いてみてるが、うつらうつらと船をこぐ様子すら無いらしい。
「本当に眠ってないのか……」
小石につまづいて体が傾く。あわてて体勢を立て直した。
僕の方もだいぶ疲労している。学校で細かく眠れるといっても、合計しても大した時間にならない。
見張っている立場でもあるし、姫騎士さんと一緒にいる時間は寝ていられない。多少の意地も入っていた。
7日目の夜、僕は姫騎士さんと話をした。
「僕なりに調べてみたが、ベトナムのある男性、あるいはフランス出身のアメリカ人など、何十年も眠っていないと主張する人がいたらしい。それらは後天的に不眠症になった人で、医師が言うには、本人も気づいていない程度に数分間の睡眠があり、それで十分に睡眠が取れるという体質らしい」
医師たちは睡眠は人体に必要不可欠と考えるらしい。何か生理学的な根拠があるのだろう。
だが少なくとも二人は確認できたのだ、3人目が姫騎士さんではいけない理由はない。
「その方々は、寝ようと思えば眠れたのでしょうか」
「わからない……ベッドに横にはなるが目を閉じることはなく、少なくとも身の回りのすべてのことに気づいている、と主張しているとか……」
「私は、自分が眠らないのか、それとも眠り方を知らないだけなのか、それが気になるんです」
道場の中である。板張りの床は冷気の膜が張っており、稽古着の姫騎士さんは僕の前に来て座る。
「だから昼中さんに、眠り方を教えてほしいんです」
「それは生理現象だから……方法とかじゃないんだ。体が要求することに自然に従うだけだ」
「では、なぜ眠くなるのでしょう?」
問われて、僕は姫騎士さんの眼を見つめる。その瞳の中に無限の宇宙があるような錯覚。
人はなぜ眠るのか。根源的な問いだが、さすがに十数年も生きてればそれっぽいことは言える。
「それは、夜があるからだ」
格子の嵌まった窓から夜空を見る。不安定に転がるような半月。西都の夜景よりは見ごたえのあるまばらな星。
「夜は視界が利かず、気温も下がるから活動しにくい。だから眠ることでエネルギーを温存しておく」
「夜行性の動物もいますが、それは何故なのでしょう」
「それは一種の逆張りだ。昼に活動する生物から逃れるために夜に動く。あるいは夜に動きの鈍くなった生物や、眠っている生物を狩って捕食する。砂漠などでは日中は暑すぎて動けないので、夜に動く……」
「なるほど」
心から納得したようにうなずく。姫騎士さんならすぐ浮かびそうな答えだが、どうも姫騎士さんは思考の偏りというか、当たり前の連想がうまくできない事があるらしい。全国でもトップの学力なのに不思議なことだ。
「夜だから眠る……ですが、眠らなくてもいいのではないでしょうか? 動かなければ十分では……」
「脳の活動のせいだ。脳は大量のブドウ糖を要求するので、無駄に働かせるわけに行かない。脳の休眠状態がつまり眠りだ」
「脳を休ませる……」
姫騎士さんは少し考える。この会話は質疑応答であると同時に、僕と共有できる言葉を探し、僕と世界観をすり合わせる作業に思えた。ややあって口を開く。
「なぜ完全に止まってしまうのでしょう? 外敵に捕食されてしまうほど深く眠るのは致命的な弱点になります。停止までしなくてもいいはずです」
「そりゃそうだけど……」
たとえばキリンやガゼルなどの被捕食者はどうか。
彼らは睡眠時間が極端に短かったり、眠りが浅かったりする。あるいは群れの中で常に何頭かは起きていて、外敵の接近をすばやく警告するのだとか。僕はそういう話をする。
――では人間は?
現代人ならば、脳にエネルギーを送るための十分な食事ができる。夜間に明かりを作ることもできる。夜に捕食者から身を隠す必要もない。言ってしまえば眠るべき理由はない。
人間はやがて、眠りを必要としなくなる、あるいは好きなときに好きなだけ眠れるようになる……それは一種の進化であり、姫騎士さんはその現れ……。
「……」
いや、違う……。
「それは、合理性だ」
進化すれば人間は眠らなくなる、それは不自然だ。
眠らないことは進化ではない。もし人間がこの先何万年も進化しても、眠りだけは失わない、そんな気がする。
「眠りは生物としての合理性から生まれている。だから何らかの病気であったり、特異体質でない限りは眠るのが自然なんだ」
「……」
姫騎士さんは正座のまま、少し身をこわばらせるかに思えた。
「……いや、すまない。姫騎士さんがどう、と言いたいわけじゃないんだ」
「昼中さんは、なぜ眠るのですか?」
「なぜ……それは、そう決まっているから、眠くなってしまうから……」
「でも、眠くなくても寝ようとする時がありませんか?」
「う……」
確かにそうだ。授業のたびに細かく寝ようとしているが、眠気に耐えかねて、というわけじゃない。
ではなぜ僕は寝るのか。朝の階段下で。昼の保健室で、放課後の屋上で。
「それは……安らぎだからだ」
心の奥底に腕をそっと入れて、その答えを掴み取る。
「眠りは穏やかで安心する、快楽を得られる。だから眠る。一種の娯楽だ」
「……そうですか」
道場に綿のような静けさが降りる。姫騎士さんの玄妙な顔立ち。曖昧になる時間。壁が遠ざかるような感覚。
「昼中さん、眠ってみていただけませんか」
「眠る……」
「眠る瞬間をよく見せてください。それで何か分かるかも知れません」
「それは別に、構わないけど。でも制服のままだし……」
そのような事は大した障壁にならなかった。
僕は姫騎士さんが出してきた寝間着に着替えていた。柄のない薄水色のうすもの。長襦袢といって着物の下に着るもので、寝間着にもできる。木綿のようだが、肌触りがシルクのように柔らかい。
「本当に寝るぞ」
「はい」
なんだか間抜けな応答になってしまった。肌も若干火照っている。さっき風呂を借りたからだ。
十二畳ほどの寝室に大きめの布団が敷かれており、厚手の羽毛布団がかかっている。少し暑そうにも見えたが、寝間着の通気性が良いので丁度いいかもしれない。
布団にもぐる。全身をまんべんなく押さえつける重さ。熱が逃げずに布団に溜まり始める。体験したことのない上等の寝具だ。
姫騎士さんは枕元にてやはり正座を組み、僕の顔をじっと見下ろしている。意味不明な場面には違いない。
「電気を消してほしいが……」
「はい」
かちかち、と紐を引く。豆球だけを残して部屋が暗くなる。寝室が広く、飾り気がないので壁までの距離も分からない。
浮かぶのは姫騎士さんの輪郭だけ。闇夜に浮かぶ白の稽古着。緑色にも感じる網膜の残光。春の夜風が屋敷を駆け抜ける音。
僕は意識を内側に落とそうとする。
眼を閉じて、脱力し、布団の中に無重力を見出す。
うなじのこわばり、鼻と口での無理のない呼吸。
ゆっくりと、呼吸を。
ゆっくりと……。
「昼中さん」
そっと、蝶が花に止まるほどの声が降りる。
「眠れませんか」
眠れない。
なぜだろう。もう相当な時間が経っている。数十分か、あるいは一時間か。だが眠りに入れない。
「おかしいな……いつもは簡単に……」
この数日、睡眠は細切れになってていつもより眠れていないのに。耳の奥から来るような妙な緊張感のせいで眠れない。
見下ろす誰かの顔。わずかに見える眼球の白い部分。大きな布団の中で泳ぐ僕。不安がせり上がってくるような深く重い夜。
手が。
姫騎士さんの手が布団の中に差し入れられ、僕の手を掴む。
しっとりとした温かい手、毎日、一晩中木剣を振るっているとは思えない手だ。
「少し、お散歩しませんか」
「散歩……」
それもいいかも知れない。僕は身を起こして、姫騎士さんに誘われるままに立ち上がる。
「ごめん……普段ならもっとすぐ眠れるんだ。なぜかな、緊張してるのか……」
「生活に変化がありましたからね」
月明かりの中、縁側にあったサンダルを履いて外に出る。かたかたと二人の足音が重なり合う。
「ゆっくり思い出してください。どうやって眠っていたのか、どんな時に眠れたのか」
そして私に教えて下さい、と小さく言い添える。
本当に入り組んだ屋敷だ。建物がいくつあるかも分からない。有機的に入り交じる渡り廊下や石畳の小道。
角を曲がれば開けた場所に出たり、狭い道を通り抜けたりして。
そして、既視感。
どことなく古びた風景。
ゴミ箱のある路地裏。
ポスターで埋まっている電柱。
板塀が斜めに重なり合った町なみ。
砂混じりのアスファルトの道、子供がチョークで描いた落書きが残る。
そして道にまでゴミ袋のはみ出した家。ポストには無数の封筒が刺さったままの。
この町は。
いや違う、この家は。
いつの間に帰ってきたんだ。
「ここは、昼中さんの家ですか」
「そんなはずは」
姫騎士さんの家には百段近い石段があるはず。それを下った覚えなどない。僕はそう答える。
「ではきっと、昼中さんの中にある、ご自宅ですね」
錯覚に過ぎない。
僕は自分で思うより朦朧としていて、見ている景色を、記憶のそれとダブらせているだけ。
周囲には建物が増殖している。
迷路のように複雑な下町。温泉の蒸気が香る町。振り向けば建物に囲まれている。どれも今にも崩れそうで、腐り落ちそうなぼろぼろの家。それは僕の家だ。
行けども行けども僕の家にたどり着く。
そうだ、僕は子供なのだから。
外をどう歩き回っても、家にたどり着くのが当たり前で……。
「入ってみましょうか」
入りたくない。
しかし、足が勝手に動く。
それは僕だ。
小学生の僕が、ランドセルを背負って家に入っていく。他に行く場所もない僕、選択肢のない足どり。
「大丈夫ですよ。昼中さん」
僕の手を、姫騎士さんが握っている。それが強く意識される。
「私がついてます」
その熱だけが真実であり。他の全ては悪い夢なのだろうか。
だけど姫騎士さん、この家には。
怪物が――。