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姫騎士さんは眠りたい  作者: MUMU
第四章 百眼の蛇と姫騎士さん
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第二十九話 【万の名の果て境界駅】





暗黒。


そうとしか言えず、そうとしか感じられない世界。それは虚無の黒だ。風景も、自分自身も、時の流れすら絶無。

それは黒い液体で満ちた井戸の底。感覚を遮断する無数のカーテン。何も起こることのない牢獄の永遠。

落下するような上昇するような。何かを考えているのか、それとも眠っているのか。


無限に近い時間が、ただ流れている。


「――昼中さん」


光が。


僕の周囲を照らす筒型の光。大地があり草がある。僕の手足、眼球、肺と心臓、そして脳の実在を意識する。


「昼中さん」


そっと抱き留められる。僕は姫騎士さんの腕の中にいる。


「昼中さん、覚えていますか、私のことを」


もちろん覚えている。

なぜそんな言い方をするんだ。まるで、何十年も離れていたような。


姫騎士さんは安堵したように短く息をつき、そして周囲に景色が戻る。

そこは物質の世界だった。詰みあがったガレキの山のような眺め。


そこにあるのは建材、食材、家具、生物、貨幣と紙幣、機械に道具。

物体だけではない。文字や記号や、考え方や、きわめて抽象的な言葉までが積みあがっている。何もかもがここにあると理解できる。


よろず境界きょうかいえき


姫騎士さんが言う。この場所ではその声は特別な力があるように思える。

そうか、ここは名前のある物と、ない物の境界となる駅。世界に新しいものが生まれるとき、この場所から旅立っていく駅なのだ。


「昼中さん、あなたは世界の崩落に巻き込まれて、一度は名前を失いました」


名前を失う……。それは恐ろしいことというより、ひどく悲しいことに思えた。


「世界が崩壊すると、その場所は名前を失います。私は名前のない場所から何とか昼中さんを探しました。でも、とても時間がかかってしまった。想像をはるかに超えるほど」


理解する。それは人間の尺度では表現しきれないほどの長さ。この世界には名前のあるものより、ない物のほうが遥かに多いのだ。まったく比較が不可能なほどに。


「姫騎士さん……」


姫騎士さんは、何者なのか、今ならわかる。今、この場所でだけ彼女を正確に理解できる。


この場にいる姫騎士さんはいわば分身。あるいは本体。あらゆる場所に存在する自然法則のようなもの。僕の知っている姫騎士さんと同じでもあり、別人でもある存在。


「これから帰還します。この場所でのことは、針の先ほどしか記憶に残らないでしょう。もう二度と、危険なことはしないでくださいね」

「わかったよ、約束する……」


そして上昇。


上昇。


光が眼に満ちて。


そして僕は帰還する。何もかもに名前のある世界。

世界全体から比較すればゼロに等しいほど小さい、姫騎士さんのいる世界へ……。





眼が覚めた瞬間。誰かに抱きしめられる。


「……! あ」


何だろう、何か途轍もなく長い夢を見ていた気がする。

白い部屋、白いベッド、ここは病院だろうか。


僕を抱きしめるのは金色の髪。黒架だ。


「あうー! よかったっすー! 昼中っち三日も眠ってたっす、覚えてないっすか」

「三日……」


泣きはらした赤い眼。化粧の落ちた青白い肌。そのくしゃくしゃな顔を見て、僕はそっと頬に手を当てる。


「ごめん……心配かけたな。姫騎士さんにも迷惑かけてしまって……」

「そうっすよ、姫騎士さんも責任感じてたっす。自分のせいでもう眼を覚まさなかったらどうしようって」


おそらく、僕を探していた記憶は現実世界の姫騎士さんには無いだろう。この世界にいる姫騎士さんは、その本体からわずかに伸びる指先のようなもので……。


現実世界?


僕は何を考えていたのだろう。うまく説明できない。針の先ほどの記憶がさらに遠くなって、やがて完全に失われる。

途轍もなく遠いところから帰ってきた、そんな実感だけがある。


「それに私を置いていくなんてひどいっす。電話くれれば飛んで駆けつけたのに」

「本当にごめん……あの時は切羽詰まってて」


「やあ、眼が覚めたね」


白衣を着た亜久里先生が入ってくる。首から聴診器を下げていた。

先生はベッド脇にどさりと座り、入院着の襟元を開いて胸に聴診器をあてる。


「うむ、正常」

「先生ってお医者さんだったんですか?」

「いや? 単に君の介抱と、姫騎士さんの健康診断を頼まれただけだよ」


健康診断?


「ラボの設備は生体用じゃないからね。ここは西都の病院だよ。私が一週間だけオーナーになったの」

「なったの、って……」

「まあ細かいこと気にしないの。今日はゆっくり寝て、明日また検査して退院の日取りを決めるから」

「あの……医師免許とか」

「あるよ」


びし、と天井付近を示す。確かに亜久里先生の名前で医師免許が飾ってあった。なんで僕の個室に?


「もしかして偽造……」

「心配しないの、そこらへんの医者より優秀だから」

「いやそういう問題では……」


ばたばた、と音がする。

入ってくるのはやはり白衣に、昔なつかしい印象のナースキャップ。ベッドから頭が出るぐらいの身長に、銀のトレイを捧げ持つ少女。


「おきたか!」


桜姫である。伸びをして僕に手を振る。


「君たちのおかげで、桜姫を初期化せずに済んだ。セキュリティも大幅に強化したよ。昼中くんにはお礼を言わないとね」

「僕じゃないです、すべて姫騎士さんのお陰で……」

「ひるなか!」

「な、なに?」


桜姫はぴょんとベッドの上に飛び上がり、僕の腹にぼすんと座る。少女の顔立ちに、猫のような三角の眼。それがにこりと笑う。


「ありがと」

「……」


先生が、桜姫をひょいと抱えあげる。


「桜姫はみんなに感謝してる。姫騎士さんにも、お店のメイドさんたちにも。君にもだよ。君だって立派な働きをしたんだ。桜姫が感謝した分ぐらいは、誇りに思ってくれると嬉しい」

「……ありがとうございます、そう言ってくれて」


と、そこで先生は桜姫の持ってきたトレイに手を伸ばす。そこには茶封筒が置かれていた。


「これ、渡しとくよ」


中からは何枚かの書類。


「何ですかこれ」

「君が眠ってる間、この病院で姫騎士さんの身体検査をやったの。レントゲンにCTに超音波検査。血液検査に尿検査に24時間脳波計もね。君たちにも確認してほしいって」

「確認……」


姫騎士さんは、常に僕達に見てもらいたがっている。眠るところを、吸血鬼である可能性、ロボットである可能性を誰かに観測してほしいと思っているようだ。

自分で認識するだけでは不十分、誰かに見てもらって初めて自分が確定する、そういうフシがある。まるで、自分の呼び方を誰かに決めてほしいかのような。


「先に結論を言うと、どこからどう見てもただの人間、まったく怪しいところはない。確かに24時間脳波計では睡眠は確認できなかった。でもそれだけで病気とは言えない。他に健康上の問題がないなら、そういう体質の人もいるだろう、というだけの話だ」


先生は科学者らしく、観測したままを受け入れるようなコメントをする。

黒架は茶封筒の中身を確認していた。


「ほうほう……姫騎士さんって身長あるのに体重控えめっすね。あ、見て見て、マンモグラフィ写真っすよ。ガンもなくて健康な」

「見せるな見せるな……それは黒架だけが確認してくれ」

「でも姫騎士さんか、不思議な人だけど、何だか不自然な気がするな」


先生はまだベッド脇に座っている。というか二人ともそろそろ降りたら?


「不自然……」

「黒架さんから色々聞いたけど、姫騎士さんは自分を眠らない種族だと思ってるらしいね。吸血鬼だとか、機械だとか」

「はい」

「それって、自分を人間だと思ってない、ってことでしょう?」


……。


そうかも知れない。

僕と黒架だって薄々感じてはいる。姫騎士さんはあまりにも並外れている。オカルトの頂点であるソワレにも、科学の頂点である亜久里先生にも分からない。

人間でないなら、何かまったく別のものなのだ。


僕は、今後も姫騎士さんに協力できるのだろうか。ただの矮小な人間、今回のように暴走したりもする小者に過ぎないのに。


いずれ見捨てられるかも知れない。奇妙な世界で命を落とすかも知れない。


それでも一緒にいられるだろうか。


「昼中っち」


黒架が頭を撫でてくる。優しい手だ。僕たちは互いに親と離れているけど、奇跡のような出会いに恵まれた、大切な人だ。


「姫騎士さんの役に立ちたいなら止めはしないっす。私も姫騎士さんに助けられたっすから。ただ、一人で先走らずに、私にも相談して欲しいっす」

「そうだね……本当に悪かったよ。次の機会にはきっと……」


「やくだつ!」


と、桜姫も両手を上げる。


「私と桜姫も協力するよ。この西都で何かが起きるという、ネットワークでの予言。その中心に姫騎士さんがいるのは間違いない」


何かが起きるという予言……。姫騎士さんにも危険が及ぶだろうか。あるいは姫騎士さんが救世主となってそれを止めるのか。


……まあ、どちらでもいい。


今はただ、体を癒そう。そして次の機会に備えなければ。


「そういえば先生、姫騎士さんは」

「海に行くとか言ってたよ」

「海……?」


剣の修行だろうか。でも姫騎士さんは家に道場があるし、そもそも籠もるなら山だろうし。


「自分は魚かもしれない、だから海に行って魚とお話してくるって」

「…………」


姫騎士さんは相変わらずのようだ。僕も退院できたら付き合おう。


姫騎士さんが何者でも、この世界に何が起きるとも、僕が姫騎士さんの味方であることは揺らがない。


それは確固たる幸福だ。


今はただ、姫騎士さんのために尽くそう。

いつか、姫騎士さんに眠りが訪れる、その日まで。





数日後。


私は学校の保健室でネットニュースを眺めていた。

記事によると、台湾で未成年のハッカーが逮捕されたらしい。公共施設のカメラへの不正アクセス常習犯。その手腕は大人たちを驚かせた。

少年は略式裁判による保護観察処分の上、18歳までコンピュータへの接触が禁止される見込みだとか。

おそらく、18歳までにはその人物の天才性は失われるだろう。もう二度とネットワークの世界で暴れることはないと確信できた。


私は端末をスリープにして、包帯を薬箱に詰めてた人物に話しかける。


「姫騎士さん、明日は釣り堀だって?」


姫騎士さんは薬箱の点検に来ていた。剣道部で使用する応急処置用の薬箱だが、古くなっていたり足りなかったりするものもあるので、保健室で補給するのだ。

主将の姫騎士さんがやるのは妙な気もしたが、姫騎士さんは剣道部の練習自体にはあまり関与しないらしい。高校剣道と姫騎士さんの剣術は違いすぎるのだ。


理想から一ミリもはみ出さない顔の造作。落ち着いていて背筋の伸びたスタイル。確かに姫だの騎士だの言われるのも納得。


「はい、釣り堀は初めてです。昼中さんがお弁当を作ってくれるそうなので、今から楽しみです」


姫騎士さんは一人暮らし。料理だって一人前なのは知っているが、そこは指摘しない。昼中くんも好きでやってることだろう。


とはいえ先日のように危険が伴うこともある。教員としては、一言ぐらい言っておくべきか。


「姫騎士さん、そんなに何者なのか知りたいの?」

「……」

「人間でいいじゃない。眠らないだけの人間だよ。姫騎士さんはみんなから慕われてるし、尊敬されてる。それだけで十分じゃないかな」

「私は……」


複雑な色の眼だ。様々な感情が入り混じった虹のような眼差し。そのような感情の振れ幅に、姫騎士さん自身が戸惑うかのようだ。


「私はたぶん、眠っていたんです」

「うん……?」

「自分が眠らない体質なことを、疑問に思っていませんでした。夜はただ床に入って休むだけ。とりとめもないことを考えて、暗い天井に動物の顔を幻視するような夜でした。眠るということを知らなければ、そのまま一生を終えたかも知れません。それは眠りに似ている気がします。何も活動せずに、ただ穏やかな時間を受け入れるだけの日々でした」

「……今は、眠りを知ってしまったの?」

「はい」


その頬に朱が差す。内心の熱をそっと抑え込むような、高揚に揺らめく声を鎮めながら話すような、姫騎士さんの言葉。


「眠りそれ自体は穏やかな時間です。でも、それは毎日の大きな緩急だと思います。疲れ果てるまで動き回って、泥のように眠る。その繰り返しはバネが弾むようです。どこか不完全で、危なっかしくて、未成熟にも思える眠りという現象。それに憧れます。私も眠りたいんです。眠って、みんなと同じものが見たい。私の持ってないものを持つ人たちに、近づきたい……」

「……」


沈黙。

私が何か言う前に、校内を時報のチャイムが駆け抜けていった。夕方5時を告げるチャイムだ。


「すいません、道場に戻らないと」

「ああ……引き止めて悪かったね。また何かあったら相談に乗るから」

「はい」


姫騎士さんは保健室を出ていく。


部屋に残るのは花のような気配。少女が持つ華やいだ気配の残り香だろうか。

今まさに真っ赤に染まらんとする、うららかな花弁。庭の片隅に咲く美しい花。そんなものを想像する。


「姫騎士さん……」


悩み、戸惑い、行動する。それが若かりし日々の姿だろう。

他の人より少しだけ大人びているけれど、姫騎士さんも今まさに思春期を迎えるのだろうか。


だがその道、果たして平坦に続くだろうか……。








「……恋を、しているんだね」



今回が話の区切り目。単行本で言うと一巻終わりぐらいかと思います。

次の章からは中編が増えていく予定です。

続けてお付き合いいただければ幸いです。他の企画もぼちぼち動かしていきます。

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