第二十四話 【過去威の果ての八重垣の石】2
私たちは落ちぬように手を結び、板垣根の上を渡って石に向かう。
この世界での石はさらに大きく思えた。立派な二階屋ほどもあり、垣根の上からはみ出している。大きさだけで神格を持つと思えるほどの、威圧。
「八雲立つ……」
それは古い歌だ。素戔嗚命が奇稲田姫命を娶った時に読んだと言われる、日本最古の和歌。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
妻と籠るためにいくつもの壁や塀を作ったことを、この日本という国を取り巻く雲の雄大さにたとえた歌だ。
注目すべきは八重垣という言葉が三度も使われていること。言葉としてのリズムを求めたとか、新居の荘厳さを讃えるための強調であるとか言われる。
つまりは八重垣とは結婚の象徴であり、祝福すべきもの。私はそれを封印に応用した。
恐怖の封印とは、それを神に祀り上げることだ。神聖なものとして荘厳な建物で囲い、儀式と祈りを捧げることで順応する。恐怖の対象を神として崇めることができる。
この世界は私のそんな心象の現れか。神秘的で厳かで静謐、何一つ変わらず続いていくような完成度。
だが。やはりその中心を、恐れる。
「何か、いる……」
私たちは垣根の一番内側に立つ。塀は頑丈で、気をつければ人とすれ違える幅だ。
岩の中に、何かがいる。
それを意識することが恐ろしい。外に出てしまったなら、私にとって破滅的なことが起こるような予感。
できれば永遠に閉じ込めておきたい。私の人生を犠牲にしてでも。そのような病んだ考えが捨てがたい。だがもはや口には出せない。
「あの中に、あなたの不安があります」
イシくんが言う。少年のような仙人のような、アルカイックな微笑み。
「そ……外に出して、大丈夫なの?」
「大丈夫です」
イシくんは、いつの間にか剣を握っている。黄金色に輝く両刃の剣。教科書で見た古代の銅剣だ。
それを投擲。矢のように飛んだ剣は石に突き刺さり、ひび割れが一気に上下に広がり、そして黒雲が。
穴を開けられたボンベのように黒雲が吹き出し、拡散せず綿飴のようにまとまり、そして一箇所が角のように大きく膨れ上がると、それが大きく。
振り下ろされる、と思った瞬間には到達している。受け止めるのはイシくんの手。衝撃波で周囲の垣根がみしりと鳴る。
「ひっ……」
「私から離れずに」
イシくんの手から閃光。眼の奥が痛むほどの光とともに、不可視の衝撃で触腕が吹き飛ぶ。
「肥大、混沌、暴力性、嗜虐性、そして滅び。これがあなたの不安の根源」
黒雲はまるで粘土の怪物のようだ。一度ぎゅっと固まるかに見えた瞬間。四方八方に触腕を伸ばす。
「とまれ」
びしり、とそのウニのような怪物がストップする。見れば金の針か、ガラスの雨のようなものが怪物の全身に食い込んでいる。
「これは純粋で原始的な恐怖です。不定形で、巨大で、正体不明。あなたはそれを自己と分離した。しかし、必ずしも正しい立ち向かい方ではありません。人は不安に正対し、正しい姿を知って克服する」
イシくんが手刀を振り下ろす。ゆっくりとだが重い、世界が西と東に分かれるような錯覚。怪物からくろぐろとした触腕が削ぎ落とされ、汚泥のようなものを噴き出し、どんどんと小さくなってゆく。
「誰もがそうして、己の、心の真実に近づくのです」
「心の、真実……」
現れる。それは黒いシルエット。
わずかに陰影を持った、私そっくりな姿の女性。
――ああ、そうか。
これが私の、封じ込めていたもの。
イシくんはそっと私の手を取り。黒い私の方へと導く。
「イシくん……」
私もまた、イシくんの手を握り返し。
彼の手首にそっと触れる。
ぱしゅ、という空気音。
「何を」
言い終わるより早くそれは来た。
イシの全身が布のように地面にくずおれ、皮膚は紅潮して瞳孔が収縮し、手足がこきざみに痙攣する。
「ただの毒よ。非致死性だけどあらゆる作用機序が織り込まれてる。今の貴方ならそんなのでも効くでしょう?」
だがさすがと言うべきか。イシは手をついて起き上がらんとする。
私は指を振る。その指に合わせて垣根には文字が刻まれる。私にしか読めない絵画と記号の中間のような文字。長い時間をかけて練り込んだ力だ。イシに術の圧力がのしかかる。人間なら魂が破滅するほどの術が。
「あなたは」
舌が真っ赤に腫れ上がっているのに、よく喋れるものだ。
だがもはや数値化できる程度の存在。この世界を瞬時に破壊できる力はない。その前に私が動く。
私は高速で言葉を重ねる。場の複層化、回路の自閉、そして無数の術を並列的に。黒い私は水のように溶けて、黒い流れとなって足から私に混ざっていく。
垣根が縦方向に構成される。もはや地面もなく空もない。真っ白な空間の中に三次元的に構成される八重垣。百重の輪か、百五十か。果てしなく肥大と複雑化を続け、囲いの直径は月に比肩するほど。その板の一枚一枚が呪文で埋め尽くされている。
「煌月、結べ」
ばさり、と地面に落ちるのはスケッチブックだ。
そこは山の中の岩場。
大岩はもうない。無数に束ねた術とともにスケッチブックに封印した。
私は携帯を取り出してメッセージを送る。
彼女はすぐに来た。きいい、と航空機のような音とともに着地するそれはメイドである。スラスターがわりにジェットノズルで姿勢制御するので普通にやかましいが、本人は気にしてないようだ。
「ミネギシ、終わりましたか?」
「ええ、予定通り封印完了。ようやく元の生活に戻れそう」
私は。術者としての自我を封印し続けていた。
この場にいた「私」は私の作った仮の自我、本来の私を怪物に見立て、この地で封印し続けていたのだ。そうでなければあれを欺いて接近するのは不可能だった。
それは確かに結界を成した。多神教ならば神すら封じる結界。
「あなたの予想通りね。十年のうちにこの地をあれが通る。実際はニ年だったけど」
「ノー。何が通るかはミッシング。何か巨大なものがここを通る、という予測を立てただけです」
「そうね、それが私の方の予言と噛み合った。十年のうちに世界にあれが現れると」
私は術で、このメイドはネットワークから予言を成したわけだ。
「私は、あなたの言う予言はノービリーブです、魔術など存在しない事象です」
「……じゃあ、私が術で食べ物を出したりしてるの、どう思ってたの?」
「データ不足により判断不能です」
「……ま、何でもいいけど」
ともかくニ年がかりの仕事は終わったようだ。私は指を適当に動かす。絵ばかり描いていたので指にタコができている。
――もし何も通らなかったら?
その時は私の自己封印は永遠に解けなかっただろう。術についてのすべてを忘れた私は、寿命が尽きるまでここで絵を描いていたに違いない。まあ、起きなかった事象などどうでもいい。
「そちらの首尾は?」
「ユージュアリィ。世界中の重奏からお宝を集めてます」
どさり、と置くのは大きな麻袋。なんとなくサンタを連想するが、メイドとサンタは別に似てないなと思う。
このメイドの目的はシンプル。自己の最適化だ。
そのためにあらゆる設備を揃えて自分をアップグレードしている。お金がかかるが、こうやって結界……メイドは重奏とか呼んでいるが、そこから美術品を集めている。
「ミネギシ、そろそろ教えて下さい。「あれ(ザッツ)」というばかりで何が現れたか分かりません」
「仕方ないのよ。予言は微妙なものだから。言えば結果に影響が出るおそれがあった」
だが、もう良いだろう。今は私の手の中にある。
「ある人物に、あなたは何者かと問いかけた」
「? オーケー」
「その人物は「何者でもない」と答えた。この答えは正しくない。どんな存在にもそれを表現する名前がある。役職や国籍、持てる技術や能力、最低でも人間であるとは言える」
「オフコース」
「でも、唯一そう呼べない存在がある。どう呼んでも正しくないもの。名前を当てはめると、それは違うということが言った者にすら分かってしまう。ゼロ的存在、空集合ならあり得る。しかし違う。それはものごとに名前をつけることできる。一方的な命名権こそが特別である証」
「全然わかりません、ノーグッドです」
「つまりは」
私は術で飛び上がる。空の果てまで、できる限り誰にも聞かれぬように。
「最初に、光を光と呼んだ人よ」
メイドも私についてくる。まったく理解できた様子はないが仕方ない。彼女の知る言葉は私のそれとズレている。
「さあ、探さないとね」
「シーキング? 何をです?」
「あれが受肉した理由。見当はついてる」
あれの力は信じがたいほど弱まっていた。本来の力が1とするなら、小数点以下にゼロが並びすぎて数え切れないほどに。
それは何を意味する。彼が1に戻る手段か、あるいは新たなる1が生まれているのだ。
おそらくは、この弓型の島国に。
「それはそうと、美術品集めは順調のようね」
「オーイエス。先日鑑定システムをアップグレードしました。焼き物に対応可能です」
「あら素敵。見せてくれるかしら」
結界にはこの世から失われた器物もある。霊的なものは私が引き取ってもいいだろう。
メイドが麻袋を差し出し、私は術でそれを浮かべつつ、中を見る。
「………」
「どうです。レジェンドな名品ぞろいです」
私は空を飛びながら、ため息を雲に分け与えつつ、言った。
「あなた……割れる、ってわかる……?」




