第二十三話 【過去威の果ての八重垣の石】1
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大きな岩がある。
縦5メートル、横に11メートルほどで、寝っ転がった象のような形の溶岩性岩石だ。町の喧騒を離れて山道をずっとずっと登っていき、登山道を離れて岩場を下り、立ち入り禁止のロープを踏み越えてさらに10分。人の気配がまったく絶えた場所にその岩はある。
ここは火山性の土地であり、その岩の付近からは硫化水素や亜硫酸ガスが出ているとかで、観光地化もされていない。私はいつの頃からか、その岩のスケッチを行うようになった。
周囲は殺風景な岩場、草の一本もない谷底、なだらかな空間に寝そべる石を、木炭でスケッチしていく。
硫黄の匂いが立ち込める岩場には動物も来ない。私はひたすらに手を動かし、手直しをしつつ二時間で完成。特に感慨もなく立ち上がり、山を下りる準備をする。片道二時間の道のりは楽ではないが、まあ運動にはなる。
がら、と、岩の崩れる音。視界の果てに茶色の影。
私は反射的に身構える。谷底の平場とはいえ落石には注意せねばならない。
だが岩ではないようだ。茶色い塊は熊のようにも見えたが、よく見ればボロ着をまとった人間だと分かる。
私はその人に駆け寄る。こんな場所で身投げでもないだろう。
「もしもし、大丈夫ですか」
今まさに行き倒れた瞬間だったようだ。しかし何という汚さだろうか。使い古した雑巾のような正体不明の衣服。髪はぼさぼさに乱れて粉をふいたよう。顔も腕も泥で汚れて、しかも素足である。こんなガレ場を歩いてきたというのか。
「嘘でしょ……何この人。まさか崖の上から捨てられたとか?」
念のために崖の上を見るが誰もいない。
息はある。揺さぶってみるとノミのような小さな虫が飛び出した。
「ちょっと! こんなとこで行き倒れたら死んじゃうよ!」
「う……」
身を起こす。若い男のようだが、あまりにも汚い。
「しょうがないな」
私はリュックをその場に置き、その人を背負う。まるで木の枝で組んだ人形のように細いが、服が泥にまみれていてずっしりと重い。
さすがに二時間の道のりを背負っては戻れない。車の通りかかる道までも無理だろう。ひとまず私は谷を下る。
ほどなくそれは見つかった。簡素なプレハブ小屋である。急に天候が悪化した時のための避難小屋らしいが、利用してる登山者は見たことがない。毛布もないし、トイレや水場の用意もない。本当にただのプレハブ小屋だ。
私はその人を小屋に寝かせる。
「もしもし、いま救助隊呼びますからね、自分で歩けます? どこかケガしてるなら伝えないと」
「大丈夫、です」
男はそう答える。声はやはり若い、もしかして私より年下ではないかと思える。
「救助隊、は、不要です。ありがとう」
一語一語、切るように話す。そう言われても裸足でここから帰れないだろうと思うが。
足をちらりと見る。かかとが岩のように固くなってひび割れている。ロッククライマーというよりは行者のような。
と、そこでひらめく。
「あの、もしかして修行とかそういうこと?」
何かの宗派では、断食をしつつ一日に山を50キロ以上歩く修業もあるという。髪は生えてるけど、なるほど、インドの行者のような雰囲気もある。このボロボロの服もそれっぽく見えてきた。糞掃衣とか言ったかな。
「いえ、目的の、場所まで、旅を」
「旅? 歩き旅? 山道を通って?」
「本当に、気にしないで、けっこうです、ので」
その人物は小屋の壁に背をつけ、あぐらを組むような形で静止する。
「本当に大丈夫なの? まだ夜は冷えるよ」
「大丈夫、です」
「……」
たしかにケガをしてる様子はないし、ここまで自力で歩いてきたのも本当だろう。しかし、ここで夜を越すつもりだろうか。
「ああ、もう」
私は一度大岩のとこまで戻り、リュックを回収して戻ってくる。
「はいこれ、あげる」
中身をプレハブ小屋の床にぶちまける。チョコレートが二枚、家で焼いてきたパウンドケーキ、ドライフルーツとナッツの行動食、アメ玉が四つ。ペットボトルのお茶。
装備としては軍手に靴下、エマージェンシーシート。カイロは二枚。大きめのタオルとペンライト。あとは財布から二千円。
「向こうに進めば県道に出るからね。道なりに下って行けばバス停あるから」
「ありがとう、ございます」
青年は素直に礼を述べたが、なんだか義務的な口調である。本当は必要ないけど、あなたの行動に感謝します、というニュアンスを感じる。
「本当に救助隊呼ばなくていいのね? それとも呼ばれると困るとかそういうこと?」
「大丈夫、です」
かたくなというより、柳に風という様子である。もしかしてこの人物は、まったく困ってもないし助けも不要だったのでは、とすら思える。
「じゃあ私、帰るよ。もう出ないと暗くなってくるから」
私は小屋を出て、何度か振り返りながら帰路につく。
何だか最初から最後まで私のお節介だったような気もする。外見はどう見ても遭難者というか行き倒れというかだが、何だか全然そんな感じがしない。焦りとか苦痛とかが見えてこないのだ。
私は二時間かけて山を下り、バスで帰路につく。
帰宅したらお風呂に入って、ストレッチして就寝。
翌朝。
まだ暗いうちから家を出て、24時間営業のスーパーで買い出し。
そして山へ。
始発のバスで登山口まで行き、2時間かけて例の岩場へ行くと。
「やっぱり……」
彼はそこにいた。
岩の前に陣取り、片膝を立てた姿勢でじっと座っている。
私は持ってきた大きめのパーカーをかける。彼は抵抗せずそれに袖を通す。サンダルを渡すと、何も言わずに素直に履く。
「あなた名前は?」
「名前……」
彼はゆっくりとした動作で私を振り向く。幼いような、それでいて達観したような顔をしている。
「好きに、お呼び、ください」
「名前ないの? もしかして記憶喪失ってやつ?」
「いえ、呼びにくい、名前ですので」
外国人なのだろうか。騙されて日本に連れてこられた労働者とか。それでこんなボロボロになるのかな、とも思うが、とにかく名前が必要なようだ。
「じゃあ、イシくん。この石のそばで見つけたから。私のことは峰岸って読んで」
「峰岸、さん」
確認するように、口中でつぶやくイシくん。
その視線が岩に戻る。
「これは、重要な、石なのですか?」
「ぜんぜん」
私は手頃な石に座り、またスケッチブックを取り出す。朝食はスーパーで買ったサンドイッチと、家で入れてきたホットココアだ。イシくんにも渡す。
イシくんは感謝の言葉を述べ、のそのそとそれを食べる。
「スケッチ、されている、ようですが」
「趣味だよ」
私はもくもくとスケッチする。集中してくるとイシくんのことも気にならなくなった。がりがりと木炭で描きなぐって、細かく修正を加えていく。
どさり、と何かが横に置かれる。甘い匂いがした。
見ればイシくんがいて、その脇に果物が置いてある。アンズや野苺のような小さなもの、ビワにさくらんぼ、リンゴに桃に、見たことのないような南国のフルーツもある。
「これどうしたの?」
「取って、きました。峰岸、さんも、どうぞ」
そんな馬鹿な、このあたりにはお店もないし、リンゴの樹なんか見たこともない。詳しくないけど季節もバラバラな気がする。
そもそも、今イシくんは何分ぐらい席を外していたのだろう。集中してたとはいえ、十分以上も脇を意識しなかった記憶はないのだけど。
「……変わった人」
呟くが、反応はない。私は木炭を走らせつつ言う。
「ねえ、旅がどうとか言ってたけど、どこへ行くつもりだったの」
「あちらの、方へ」
指さす。それだけ言われても何もわからない。
「なぜこの山に? 迂回できるはずでしょ。道を歩けば安全だし」
「この岩、から」
岩を指して言う。
「大きなものを、感じたの、ですが」
「それ……封印石の伝説」
イシくんが私を見る。彼が初めて、能動的に私に興味を示した、そんな気がした。
「それは、何でしょうか」
「この岩、真ん中に亀裂が入ってるでしょ」
「はい」
「伝説があるの。この岩は大昔に怪物を封印した岩で、いつかは封印が解けて怪物が解き放たれるんだって、あの亀裂はその兆候」
私はスケッチブックの最初の方を見せる。それは中央に亀裂のある箱型の石。
「封印……」
「それは爪と牙のある生き物かもしれないし、もっと概念的なものかもしれない。大きな不幸とか、人の愚かさとか」
「そのような、伝説が」
「あるというか、私が作ったの」
これはただの岩だ。特に由来もないし、知ってる人もほとんどいない。すべては私の中だけで生まれ、完結する物語。
「だから私は、怪物を封印してるの」
スケッチブックをめくる。次のページでは石に注連縄とワイヤーが巻かれている。割れないように補強したのだ。
次のページでは周りに杭が打たれ、板が渡されて牧場の垣根のような眺めに。
その次には横に祠が。
絵の中で時間が経過する。鳥居が、社殿が、そこを守る宮司さんと巫女さんが。
やがては木も植えられ、水も引いて立派な神社となって、大勢の参拝客が――。
「このスケッチブックが36枚綴り、36枚の連作なの。これが完成したら、悪いことは起きない、封印は解けない、そう確信できる気がする」
いつの頃からだろう。私はそんな妄想に取り憑かれた。
だから片道二時間かけて山に通い、こうしてスケッチを重ねている。一度来るごとに一枚だけ岩をスケッチし、その周囲を想像で補う。
「そう、ですか」
イシくんは少し残念がった様子だ。
「やはり、違った、ようですね」
「何が?」
「私の、目的と、似ていたのです。だから、寄り道をして、ここへ」
「ふーん?」
私は木炭を動かす。それは祭りの様子、石の封印が続くことを願う神楽だ。私の想像の中で、私がデザインした衣装と小物。振り付けも私が考える。私は踊りの一瞬を切り取ってスケッチブックに刻む。
「その、スケッチブックは」
イシくんの声が。
「十七冊め、ですね」
手が止まる。
私は驚いて彼を見た。
なぜ、書き終えたスケッチブックは燃やしてるのに。誰も知るはずはないのに。
タッチだけで何度も描いている絵だと見抜いた? 冊数まで? そんなことが……。
「……そうよ」
もう丸二年になる。
私は何度も何度も山に登り、スケッチを続けているのだ。誰にも会わず、他の何にも興味を示さず、ただこの岩だけを。
おそらく私は病気なのだろう。馬鹿馬鹿しいと思っていても、どうしても山に通うことをやめられない。
仕事も辞めて、わずかな貯金で食いつなぐ日々だ。お金が尽きたらどうなるのか。貴重な人生の日々をこんな風に過ごしていいのか、苦悩が絶えることはない。
「何とかしたいんだけどね」
いつも抱えている、大きな不安。
それは自分のことというより、世界の抱える不安だ。
多すぎる人口とか、絶えることのない戦争とか。
あるいは、人がいつか必ず死ぬこととか。
くろぐろとして、巨大で、想像を超えるような大きな不安。この岩の中にその不安が詰まっていて、私が描くのをやめた途端、世界にあふれる。
そういう、妄想。
「では、何とか、しましょう」
イシくんの言葉が、十秒ほど遅れて認識される。
「……え?」
「石の中の、怪物を、退治して、しまえば、よいのです」
「退治って」
「手を」
彼が手を取る。木炭が地面に転がった。
「スケッチブックを、顔の前に」
その声、なぜか逆らいがたい響きのある声。私は言われた通りにする。
「すべての絵を、同時に、見てください。視線が、紙背へと、突き抜けます」
できるはずがない、とはならない。できて当然だと、よく理解できて、すぐにでも実践できるような感覚が。
「眼が、紙を抜けるとき、眼球が、紙で、包まれます」
分かる。その概念が、自分自身を正面から見るように、ありありと見える。
「立って……」
手に持ったすべてを落として、私は眼を見張る。
それはいつもスケッチしていた石。その周囲を囲う垣根。板塀とか大和塀とか呼ばれる、板をずらりと並べた板垣根だ。
しかし数が凄まじい。蜘蛛の巣のような同心円のような、何重もの垣根。大黒柱かと思うほどの分厚い板で造られている。
そして垣根の間に板が渡され、高床式倉庫のような社殿が築かれている。神楽殿があり、宝物殿が、本殿が、寝泊まりや修行のための建物が。あの岩は垣根と建物に取り巻かれている。
広さは野球場ほど、いや、街一つほどもある垣根と社殿の世界。私達はその社殿の一つにいるのだ。
「これ、は……」
「過去威の果ての八重垣の石」
ボロ布をまとったイシくん。私の手を引き、壁に渡された橋を歩く。なんとなく語りが流暢になっている。
「恐ろしいものを閉じ込める世界です。封印の安堵、それは不安の裏返し。あなたの不安が生み出した世界」
「イシくん、あなた何者なの。これって」
「私は何者でもありません。さあ、あの岩のもとへ」
そしてイシくんは指し示す。垣根の中央にある巨岩。
十重二十重に封印され、それでもなお不安のやまない、あの岩を。




