第二話
世界は広く、人生は長い。
何が起きるか分からない、それはそうだろう。
でもだからって、何もかも信じられるわけじゃない。
多少の混乱のあとでようやく共有できたことは、姫騎士さんは本気で言っている、ということ。
「眠ったことがない……」
「はい」
屋上は少し風が強くなってきたので、図書室へと移動する。図書委員は姫騎士さんをちらりと見たが、僕の方には気づきもしないように思えた。
姫騎士さんと差し向かいで話をする、他の生徒に見られたら大変なことになりそうだ。
いや別にそうでもないかな。お姫様が猿と話をしてても、猿と交際してるという噂は立つまい。
「でもそんなこと……あるのか?」
棚からギネスブックだとか都市伝説の本だとかを集めてくる。しばらく探すとそれっぽい記述が見つかった。
「これだな……不眠のギネス記録としては、1964年、アメリカで行われた不眠記録の264時間が最長。つまり11日間だ。しかし起きていることを示すのが外観だけで、脳波や生理状態などを測定していたわけではないので実験としては不完全……」
現在、ギネスブックでは不眠の記録は更新されていない。挑戦することが生死に関わると考えられるからだ。更新に危険の伴うものや、人生を棒に振ってしまうほど何十年もかけるような記録は基本的に更新されないらしい。
別の本では、都市伝説として軍による不眠実験が行われたという話が見つかる。しかしこれは最初から最後まで作り話らしく、元ネタと言えるような実験も確認されていない。
「不眠症、というものでしょうか?」
姫騎士さんが言う。机に差し向かいで座るだけでもオーラに圧倒されそうになる。
顔立ちは一見すると柔らかくも見える。美々しい顔立ちには微妙な脱力とわずかな困惑。それでいて菩薩のように近づきがたい気高さ。
本当にくらくらするほどの美人だ。気を張ってないと魂が溶け出しそうになる。
「ええとだな……簡単に調べてみたが、不眠症、睡眠障害というのは寝付きが悪かったり、寝ている間に何度も起きたりするもので、完全に一睡もできないという病気じゃないみたいだな……」
ふだん寝てばかりの僕にそれを相談する、というのは分からなくもないけど。そもそも高校二年まで発覚しない、なんてことがあるのだろうか。
「……ご両親に相談は?」
「両親は今は海外に出張中です。心配をかけたくないんです」
姫騎士さんの家は誰でも知っている。山の上にあるお屋敷である。古くは有力大名に使えた武士の家系だとか言われており、この西都の町の大地主でもある。このあたりのマンションやら中小企業にはその苗字を冠するものが山ほどある。
「でも、その、今までおかしいと思わなかったのか……?」
「眼を閉じて、じっとしていることが眠ることだと思っていたんです。両親が私にそのように促すので、そうしているべきなんだと思いました」
「だって赤ん坊の頃とか」
「生まれたその日からです」
な……。
生まれた、その日の記憶がある子供の話は聞いたことがある。いわゆる天才児などによくあるエピソードらしいが……。
「でも、どうも私の思っている眠りは、他の方とは違うようだと」
姫騎士さんにはわずかに不安の気配が感じられる。何事にも動じないと思われている彼女だが、やはり思い悩んでいたのだろうか。
「違うというと?」
「他の方は、眠ると周りの物事に反応が鈍くなるでしょう? 眠りが深いと、ちょっと揺り動かしたぐらいでは起きなかったりしますよね」
「まあ、そうだね」
「私の「それ」は、ただじっとしていただけなので、違うと思います」
僕だって寝起きはいい方だけど、さすがに何もかも感知しているわけではない。
「ちょっと待ってほしいんだが……姫騎士さんは、夜中ずっとじっとしているのか? 何時間も?」
「夜は剣術の稽古をしています。布団に入ることもありますが、それは体温を保って、体を休めるための行為だと思っていました」
「稽古……夜通しってことか?」
「そうです」
……。
もちろん僕なんかが姫騎士さんを疑うなど恐れ多いことだが、信じる信じないは別の話だ。まだエスパーだとか前世の知り合いだとかのほうが身近に感じる。
「何かの勘違いじゃないのか」
常識的に、そう答えるのが庶民には似合いだろう。
「おそらく非常に寝つきが良くて、寝起きも爽快な体質なんだと思う。ほとんどまどろみもなく眠りに入って、朝には瞬時に覚醒する。それで自分には眠りがないと思ってるだけだ」
「そうではないと思いますが……」
姫騎士さんは長い指を顎の先につける。
「どうしたら証明できるのでしょう? 昼中さん、私が眠らないでいるところを見ていてくれますか」
「見ていると言っても……それは何十時間もずっと観察し続けないと」
とうてい無理な話だ。互いに自分の家に帰らねばならないし。
「では、今から来ていただけますか」
「はい?」
声が間抜けにこぼれ出る。
数秒を置いて、上ずった声もまろび出た。
「い、家に来いっていうのか……?」
「ご迷惑でなければ」
姫騎士さんは何事でもないように言う。
「ご家族がいるだろ、両親は海外とか言ってたけど、他の親戚とか同居人が……」
「今は私だけです」
「それは、まずいだろ、いくらなんでも」
「まずい、とは、何がでしょうか」
「何がって」
もしかして姫騎士さんはとんでもない世間知らずの箱入り娘、というやつだろうか。男と女だぞ。
まあ現実的なことを言えば、剣道で全国制覇している姫騎士さんを押し倒すなんて僕には無理な話だ。間違いが起こる可能性など一ミリもない。
だからといって、ほとんど知りもしない男を家に上げるなんて。
「……」
なんだろう。僕の側がそんなことを心配してるのも滑稽に思えてきた。僕は姫騎士さんの保護者ではない。
というか姫騎士さんの家に行けるとか、5000年ほど生きてても巡ってこないイベントだろう。一も二もなく飛びついてこそ男じゃないのか。
何よりこれは、姫騎士さんの頼みなのだから。
「わかった、行こう」
※
なだらかな山に囲まれ、わずかな温泉宿を抱える山あいの町、その北側にそびえる屋敷が姫騎士さんの家だ。石段の果てに見えるその姿は寺か何かにも見える。
裏手には車が通る道もあるのだが、僕たちは百段ほどの石段を登って正門にたどり着く。案の定、登りきった頃に膝が笑う。
「昼中さん、先に上がっていてください。夕飯の支度をしますね」
「夕飯……うん、じゃあ遠慮なく……」
門をくぐると森が遠景に遠ざかり、広々とした敷地に縦横無尽に建物が並ぶ。渡り廊下で連結された日本家屋、白壁の土蔵。屋根付きのガレージには猛獣のような外車。駐車スペースは6台分もある。敷地内に街灯があって、建物があかあかと照らし出されている。
邸内も広い。縁側から上がればいきなり二十畳敷きの大広間。由来の有りそうな壷に掛け軸。柱はやや黒ずんでおり年季を感じさせる。
遠くで野鳥の鳴く声がして、ふいに寂寞たる心地になる。
「この家に一人で……? 掃除するだけで一日が終わるだろ……」
部屋には膝の高さの長机があるだけ、押し入れから座布団を出して、エアコンの電源を入れれば低い駆動音でようやく家に火が灯る。
何だろう、この妙な懐かしさ。
二階家を中心にいくつもの棟が並ぶ構造。入り組んだ直進していない廊下。飾り気のない部屋。初めて迷い込む町のような、昭和の下町を散歩するような感覚がある。
普段なら待ち時間が10分もあれば仮眠を取るのだが、このときは妙に目が冴えていた。緊張のためだろうか。
「昼中さん、こちらの部屋へどうぞ」
姫騎士さんに呼ばれてリビングへ。
食事は意外というかカレーだった。ちゃぶ台の上に漬物の壺が3つほど並んでいる。
「申し訳ないな……夕飯までご馳走になっちゃって」
「いいえ、気にしないでください」
姫騎士さんは白っぽいワンピースに薄緑のエプロンをつけていた。通学カバンは部屋の隅にそっと置かれており、そして気づけば外は暗くなっている。
「この家で一人暮らしなのか……」
「はい」
それは特に何の意味も含まない「はい」だった。「はい、大丈夫です」でも「はい、大変なんです」でもない、ただのYESだ。
食事を終えて、洗い物を片付けて、宿題と明日の支度をする。姫騎士さんと向かい合って宿題をするとは思わなかった。
そして夜の9時、ひととおりの家事を済ませた姫騎士さんが言う。
「これから稽古に入ります。道場は少し冷えますので、なにか着込むものをご用意しますね」
「じゃあ、僕は適当に見てるから」
「はい」
姫騎士さんは二年の剣道部主将。その竹刀さばきは完璧とすら言われており、一年の夏には九州の大きな大会に出て、すべての試合を一本勝ちして全国制覇を成し遂げた。
姫騎士さんは白の剣道着に着替えて、大きな道場の中央に立つ。
稽古に使うのは木剣のようだ。小指からぎゅっと握り、切っ先を前方に据えたまま前後左右にすり足で動いたり、目の前の仮想敵に打ち込みを繰り返す。
それは高校剣道とは違う動きに思えた。袈裟懸けに打ち下ろした木剣が鋭角に跳ね上がる動き、真後ろの敵を柄で突くような動き。
暴漢のようだ。複数のガタイのいい男たちに囲まれている。姫騎士さんは木剣を振るってそれを打ち据えていく。武士の家系だとか聞いてるけど、家に伝わる流派とかだろうか。
そんな稽古が何時間も続いている。
月が中天に昇り、星がまたたき、やがてしらじらと朝の光が東の空に。
「本当に寝ないのか、もう8時間もやってる……」
それを夜通し見ている僕。だが飽きはしない。姫騎士さんの動きには一種の独創性があり、一つとして同じものはない。見るうちに時間が矢の速さで過ぎていく。
これは一種の根比べだなと感じる。
姫騎士さんが眠るか、それとも僕が音を上げるか。
その奇妙な生活は、その日から一週間続いた。