第十七話
※
「ひっろ……何これ池じゃん……」
外周の長さは50メートルはある。子供なら泳ぎ回れそうな広さの露天風呂。しかも見事な山並みのパノラマである。
崖の上に立つような理想的な立地、湯量は豊富で、うめる前の源泉は80度もあるという。脱衣場の片隅には無料の温泉卵があったり、源泉の熱を利用した岩盤浴室。さらに広々としたサウナまである。男湯全体で100人は入れそうだ。
「ここ夜景も綺麗だろうなあ。夜にまた入ろうかな」
「昼中っちー! そっちも広いっすかー」
竹垣の向こうから黒架の声。女湯の方からは散発的に水音が上がる。
「めちゃくちゃ広いぞ、それより他にお客さんいないのか、大声出して大丈夫か」
「大丈夫です、こちらには誰もいません」
姫騎士さんの声だ。黒架と一緒らしい。
「姫騎士さん、あっちに打たせ湯もあるっす、あれがコリに効くっす」
「滝行ですね、でも私の知ってるものと違うような……」
打たせ湯のドドドという音が響いている。黒架が声を大きくしてるのはそのせいもあるだろう。
「おおう、黒架さんすごくスタイルいいね。モデルさんみたい」
「うへへ、ちょっと自信あるっす。でも先生もなかなかっす」
亜久里先生も一緒なのか。でも黒架って血液が青いから肌の色が人間と違うはずだけど、ごまかす方法でもあるのかな。
「姫騎士さんほんと髪きれいっす。世界が嫉妬する感じのやつっす」
「そうですか? 黒架さんの金髪もお綺麗ですよ」
「姫騎士さんは体にホクロが一つもないね。若いときは少ないものだけど、完全にゼロってのはすごく珍しいよ」
「ほれぼれするっす……。鼻とかもちいさくてかわいいし、まつげも長いし」
なんか会話が生々しくなってきたから離れていよう。
「昼中っちー! 聞いちゃダメっすよー!」
ならそんなでかい声だすんじゃねえ。
※
「こちら、A5ランクの陶板焼きとなります」
すごい。
じゅうじゅう焼ける肉。
野菜ほくほく。
ちいさいコーンかわいい。
牛肉の握り寿司すごい。
語彙を失いつつ僕たちはそれを堪能する。夕食で出てきたのは見事なブランド牛のコースである。赤身のユッケにテールスープに焼き野菜の盛り合わせ。デザートは舌が痺れるほど甘いメロンだった。
肉は追加も可能で、シメは鯛茶漬けか炊き込みご飯から選べる。希望すればすき焼きや野外バーベキューもできるという。
先生は地酒を堪能していた。お銚子一本までなら無料らしい。
「いやー、至れり尽くせりというか。すごいなあ……」
お風呂も入って食事も済んで、内臓からじわじわ火照る頃。
一階の自販機コーナーにて、僕はしみじみと感動していた。
黒架は姫騎士さんを連れてゲームコーナーに行っている。僕の目からはかなり古臭いゲームばかりに思えたが、黒架は赤い瞳をキラキラ輝かせて感動していた。僕は少し食べすぎたので、自販機コーナーで夕涼みの最中である。
「ここはいわゆる、バブルの夢のあとってやつらしいね」
声がぶるぶると震えている。マッサージチェアで全身もみほぐされつつ、浴衣姿の亜久里先生が言う。
「今ちょっと調べてみたよ。30数年前、ここを黒蔵温泉郷という温泉地にしようとして、どこかの大企業の出資でリゾート開発が行われたらしい。それでこんな立派な旅館が建ったけど、バブルが弾けてリゾート開発はとん挫。いくつかの旅館が経営を続けてたけど、もう残るはこの一軒だけ、それで経営方針を転換して一般向けにしたんだって」
方針転換で一般向けに……だからこんな激安セールをやってるわけか。
「あまり聞いたことなかったですね。西都から車で一時間なのに」
「セレブ向けの秘湯って触れ込みだったみたい。だから市のホームページにも載ってない。でもセレブ客も大して来てなかったらしいよ。温泉と料理が立派でも、こんな山奥じゃねえ」
先生はマッサージが気持ちいいのか、口元を緩ませている。背中の揉み玉の振動で前がはだけてきていて眼に危うい。
「やっていけるんですかね」
「無理だね。あの宿泊料でランニングコストをペイするには、常に半数以上部屋が埋まってないといけない。現実的じゃない」
「でも、30年経営してたんでしょ?」
「出資してた大企業の意向だよ。税金対策に存続させられてただけ。不採算部門をわざと抱えておくのも戦略ってことだね。でも方針転換したってことは、いよいよ見捨てられたかな」
シビアな意見である。しかしまあ理解できる。どう考えても七千円の宿ではない。
経緯はどうあれ30年以上続いている旅館なのだ。経営が危ういと聞いて物悲しい気分になってきた。
「何だかもったいないですね」
「滅びの美学ってやつだよ。こんな高級旅館に私らが泊まれるのも、運命の巡り合わせってものさ。この一瞬を大事にしないとねえ」
と、先生は完全にはだけかけていた胸元を直し、伸びをしつつ体を起こす。
「こういう宿はなかなか興味深いよ。いろいろな念が渦巻いてるからね」
「念?」
「そう、いとしく思う愛念。丹念で入念なもてなし。あるいは執念、怨念、無念、そういうのが渦巻くところは奇妙なことが起きるんだよ」
「お、怪談話ですか。みんな呼んできてやりましょうよ。黒架とかそういうの好きだし」
「怪談ってわけじゃないけど」
先生はわずかに苦笑する。
「昼中くん、私の研究テーマって知ってる?」
「え?」
研究テーマ? 亜久里先生は保健医であり、ときどき保健の授業を受け持ってるだけのはずだ。趣味で機械いじりをしているのは見てたけど。
「いえ知らないですけど……。大学に籍とか置いてるんですか?」
「ダメだよ昼中くん、学問とは生きることと同じ。研究はどこでもできるし、誰しも自分の研究テーマを持ってないといけない。いかにお金を稼ぐか、幸福になれるかでもいい。人生を生きるための目標だね」
酔っているのか何なのか、とぼけたような口調で言う。
「それで、先生の研究テーマって」
「重奏概念」
聞いたことのない言葉だ、大学で研究してたテーマだろうか。
「それは何ですか?」
「例えばね、この世界は「暴力の世界」だと感じている人がいる」
「? はい」
「また別の人は「学問と知識の世界」「経済の世界」あるいは「私だけの世界」とかね。いろいろな見方がある。同じ世界に生きてるのにも関わらず、だね」
「……」
ほぼ水平に倒したままのマッサージチェア、亜久里先生はその上に座って、片足だけ椅子に上げる半跏趺坐の構えになる。理系の雰囲気だがふっくらとした肉感、冷静そうな顔立ちなのに何かをたくらむような不敵な眼差し、そんな複数の印象が同居している。
「人によって世界の見え方は違う。そう説明されるのが一般的だろう。だがもしかして、誰しも自分だけの世界というものを持っており、必要に応じてそれを渡り歩いているだけ、としたらどうだろう」
「……そうだとしたら、何が起きるんですか」
「世界はこれまでの観測よりもずっと巨きいと分かる。一人一人が自分の世界を持ち、あるいは草や木、動物ですらも固有の世界を持つとしたら。そして何らかの手段で、他の世界から技術や資源を取り出せるなら」
亜久里先生がそんな研究を?
ただの高校の保健医、機械好きなだけと思っていた女性が、そんな独自の理論を立ち上げ、研究していたというのか。
「私はね、6歳から大学でそれを研究してたんだ」
「6……!?」
「飛び級なんてそこまで珍しいものじゃない。でもそこでしくじってしまってね、流れ流れて西都の町にたどり着いた」
「なんで西都の高校なんかに」
「理由があるからだよ」
……。
この会話は何だろう。何もかも作り話の戯れの会話なのか。それとも何かしらの必然なのか。
「……その、理由って」
「知りたいの?」
先生は歯を見せて笑う。
「じゃあ、私の恋人になるなら教えてあげる」
「……」
「うわ、ちょっと何そのマジな顔。冗談だよ冗談」
先生は手をひらひら振って、緊張した空気を笑い飛ばすように言う。
「この町にはね……」
聞けたのはそこまでだった。
どこか遠くの方から、女性の悲鳴が上がったから。
「! 今のは!」
急に空気が張り詰める。今のはまさか姫騎士さん? それとも黒架か? 遠かったし、建物で声が反響してよく分からない……。
「落ち着いて」
亜久里先生はスマホを取り出す。
すると、そのスマホの四隅からマッチ棒のような柱が立ち、スマホが2枚に剥がれ、一枚がマッチ棒の柱を登って屋根となる。つまり全体が箱型になった。側面も極薄のパネルのようなもので埋まる。
「すごっ……」
「これはちょっとだけすごい」
スマホの本体が消える。線だけで描いた立方体のようだ。スマホの表面に反対側の景色を映して透明に見せているのか。
「先程の悲鳴、音紋分析、反響音から発生地点を計算」
透明な空間にこの温泉宿が出現する。僕たちのいるあたりが輝点となり、そこを通り過ぎる波が出現。波は建物の形状に沿って反射しており、複数の波が表示され、やがて逆再生のように波が一箇所に収束する。
「悲鳴の主は40代から50代の女性。たぶん仲居さんだね。発生源は一階、カウンターの奥にある部屋。チェックインの時にちらっと見たけど、たしか支配人室だ」
「行きましょう」
走る。先生は帯を締め直しつつ後ろについている。
「いつのまにこの旅館のデータ取ったんですか?」
「自動だよ。動いたルートは常に記録させている。建物のマッピングもだ。いざという時に非常口が分からないと困るでしょ」
冗談めかしてそう言う。だが僕でも分かる。今の技術は現行の水準を超えていると。
「昼中さん! 今の悲鳴は」
姫騎士さんが廊下から飛び出してくる。おおよその位置は察しがついているのか、僕の前を走る。
「ま、待ってっす。浴衣の裾がもつれて」
後ろから黒架も来ていた。そして僕たち全員で支配人室へ。
入り口の前で、和服の中年女性が腰を抜かしてへたり込んでいる。
そして部屋の奥には男性が。
だらんと手足を伸ばす人物。その人物の周囲に、赤い水溜りが――。
「……!!」
支配人室の床はフローリングであり、赤は部屋いっぱいに広がっている。まさか、これは血……。
「そこの方、下がって」
先生が言う。僕が仲居さんの腋を持ち上げて身を支える。
「し、支配人が……」
仲居さんは息も絶え絶えである。そして気づいた。倒れている人物は僕たちを送迎してくれた人。50がらみの頭の禿げ上がった男性……。
先生は水溜りを踏まぬように中に入る。
姫騎士さんが言う。
「早く病院に」
「そ、そうだな。まだ息があるかも。救急車を……いや、車で西都の病院に送る方が早い。誰か免許のある人を呼び……」
「必要ないよ」
亜久里先生が言う。
必要ない……まさか、すでに。
「だってこの人、寝てるだけだもの」
…………
「は?」
「もったいない。そこそこ高いワインだよこれ。というか寝てもいない。ふてくされて寝っ転がってるだけだ」
え? 何? どゆこと?
「うう……ぐす。ほっといてください……」
その50がらみの支配人は、寝たままでめそめそ泣きだした。




