第十五話 【名乗りて荷抜けの猫小路】
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カレンダーをめくるごとに日差しが強くなる。
グラウンドからはやけくそのような運動部のかけ声、剣道場からはじけるような竹刀の打音。そして帰宅していく女子の楽しげな声。
あっという間に5月も下旬である。夏の気配が山を駆け上って西都の町に覆いかぶさる。気温は上がり、水田はきらきらと輝き、雨の匂いが風に混ざる季節だ。
「昼中っち、また遠征行きたいっす」
黒架が僕の席に来て言う。まだ黒のウィッグはつけたままだ。地毛証明書を申し込んでるらしいが、髪の根元から金色なのを確認するために少し時間がかかるのだとか。面倒な話である。
放課後の教室。うつらうつらと突っ伏し寝をしていた僕は、とりあえず喉が乾いてたので水筒を開ける。
「遠征か、いいぞ。今度はまた東京か、大阪とか名古屋でも」
「パキスタン」
飲もうとしてた麦茶でむせる。
「ぱ、パキスタン……な、なんで?」
「知らないんすか。パキスタンのゲーセンは格ゲーが熱いんすよ。世界的なプレイヤーが生まれてるっす」
黒架が熱弁するところによれば、パキスタンの若者は毎日のようにゲームセンターに集まり、負けたほうがプレイ代金を支払うルールで四六時中対戦してるらしい。そのストイックさがハイレベルなプレイヤーを育て、世界大会でパキスタンの選手同士が決勝を争う、なんて事態も起きたのだとか。
「ゲーセンの熱を感じたいっす。あとビリヤニとかコルマとか食べてみたいっす。パキスタン料理は香辛料が山盛りらしいっす」
「……うーん、でもパキスタンだと今の時期暑くないか? そういえば太陽とか大丈夫なのか」
「いや夏場はけっこうきついっす。日焼け止め塗ってても火で炙られてる感じ。そういえば吸血鬼だから香辛料苦手だし、実は食べたくないかも」
「どないやねん」
と関西弁で突っ込みつつ、帰り支度を始める。
「そういえば姫騎士さんの件はどうなったっすか?」
「特に何もない。部活で忙しいらしい」
何度でもしつこく言うが付き合ってるわけではない。お声が掛からなければ赤の他人も同然である。7月下旬に剣道の大きな大会があるので、部への参加が増えてるのだとか。
「姫騎士さん全国覇者っすからねえ。もっと一緒に遊びたいんすけど」
「こないだはマスコミも来てたな、2連覇できるかどうかって注目されてて」
「その私ですが大変です」
「わああああっ!?」
急に現れた姫騎士さん。僕たちは飛び退いて驚く。机がどかんと倒れて中から小さな消しゴムとか出てきた。
「ひ、姫騎士さん!? びっくりした……」
「私の話題だったようなので気配を消したほうがいいかなと」
「しなくていいから……」
「姫騎士さん、なんだかテンション高いっす……」
確かに、稽古着の姿だが頬が紅潮しており、肩で大きく息をしている。
「大変なんです、これを見てください」
と、姫騎士さんは自分の防具を見せる。
「ええと、丸胴……だな? それが何か」
「ここです、ここ」
指差す、そこにはぽつぽつと猫の足跡が見える。スタンプで押したようなファンシーな印象だ。
「あ、猫さんの足跡っす」
「剣道場で防具を身に着けたら、こんなものが」
「ははあ、猫に踏まれたんだな」
ほほえましい話である。写真をアップしたらそこそこいいね付きそう。
「そうなんですが、この足跡には見覚えがあるんです」
「は?」
「この手帳を見てください」
と、姫騎士さんは黒革張りの立派な手帳を取り出す。
中身はなんと猫のデータである。西都の町にいる地域猫。その品種、雌雄、体毛、外見的特徴はもちろん。好きな食べ物、鳴き声、世話をしてる人、およその行動半径まで記されてる。
「うわ、すご……30匹以上のデータが」
「よく道端でお休みされてるので、眠ることのヒントにならないかと思って、年明け頃から調べてました」
ということは姫騎士さんの眠りの師匠は僕が最初じゃなかったのか。軽くショック。
「この足跡はポットちゃんといって、弓音公園の近くにいる猫さんの足跡です。白くて美人で、地域猫なのでたまにスルメとかあげてました」
姫騎士さん渋めのチョイス。
「ええと、つまりそれで……?」
「おかしいんです。猫の行動半径は平均して150メートルぐらいと言われてます。弓音公園は1200メートルほど離れてます」
確かに、高速道路の下を通って道の駅を抜けてさらに先だ。感覚的には西都の東の端である。
「例外的に遠くまで行く子もいますが……。ポットちゃんは大通りを横断できる子ではないんです。なのに、なぜかこの高校に現れたんです」
「な、なるほどっす。でもまあ、それは誰かが連れてきたとか……たまたま何かのはずみで遠くに来たとか……」
「迷子になったかも知れません。一緒に探してください」
「わかった探そう」
「昼中っち!?」
一も二もない。姫騎士さんにやれと言われたらやるのだ。そう決めたのだから。
僕と姫騎士さんは駆け足で剣道場に向かい。
「……なんかノリが違うっす。私のときと」
黒架もぶつぶつ言いながらついてきた。
※
剣道場では二十人ほどの部員が声を出しながら打ち合っている。僕たち三人に気づいてくるりと体を向け、聞き取れない大音響で挨拶してくれる。
「ど、どうも」
「みなさん、そのまま練習しててください、ちょっと出てきます」
出てきます、と言いつつ更衣室に、しかも女子更衣室に入るのはすごく奇妙だが、誰も何も言わずに打ち合いに戻る。
聞くところによれば姫騎士さんは部に籍は置いてるものの、試合に出る以外は完全に自由なのだという。彼女の流派は高校剣道と違うため、部員の指導は控えてるらしい。それでもたまに部に出ると、指導を求める部員で列ができるのだとか。
それはさておき、更衣室である。
なんだか独特な匂いがする。防具に染み付いた汗の匂いだろうか。消臭スプレーが笠地蔵みたいに並んでるのが風情を感じる。
「たぶん、この窓から入ったんです」
防具を収めた棚の上、天井付近に換気用の窓がある。
「え、でもあの高さ、どうやって入ったっす?」
「この裏はすぐブロック塀で、その向こうは確か廃屋なんですよね。たぶんブロック塀を伝って来たんです」
出ていく分には防具棚の上から出ていけるわけか。
「じゃあ昼中さん、お願いします」
「わかった」
僕は防具棚をがしがし登り、狭い窓に体をねじこむ。
「の、ノータイムっすか」
「昼中さん、塀の向こうに出たらお電話してください」
お電話って言い方かわいいなと思いつつ外へ。なるほど十センチ先にブロック塀がある。いちおう建物と塀の隙間も見るが何もいない。建物の凹凸のせいで、人が入り込めるスペースではない。
慎重に塀を乗り越え廃屋へ。かなり古い民家だ。屋根が崩れており、がらくたが散乱している。
姫騎士さんに電話する。
「いま廃屋に降りた。普通の民家だけど朽ち果ててる。屋根も落ちてて入れない。猫の気配はない」
「私たちも別のルートで向かいます。昼中さん、塀に沿って敷地を一周できますか」
「歩いてみる。うん、一周するぐらいならできそう」
夕日が差してきた。日の入りまではまだ長そうだが。
「昼中さん、時計回りに回ってますか」
「ああ、回ってる」
「では、その廃屋に仮の名前を付けてください。山田さん家、田中さん家、というように」
「……? じゃあ、時任さん家」
「そして、角を四回曲がるごとに違う名前を付けてください。塀より上に視線を上げずに歩き続けてください」
「わかった」
僕は疑問も反論も言わない。ただ従うだけだ。
時計回りに、ここは時任さん家……。がらくたを猫の足どりで踏み越えながら歩き、進み、草を踏んで岩井さん家。塀より上を見ないように、ときどき廃屋の奥も覗きつつ鈴原さん家。
まだ回線は繋がってるが声はしない。二人は走っているのか、荒い息遣いと、時おり黒架が何か尋ねるような声。僕はひたすら進んで藤川さん家。
これは「スクエア」に似てると感じる。
真っ暗な部屋の四隅に人間が座り、一人が壁沿いに進んでその先にいる人にタッチする。タッチされた人はまた壁沿いに進み、その先でまたタッチ……野中さん家。
最初に北東にいた人物からスタートしたとすると、北東はスタートした瞬間に無人になる……磯部さん家。このルールでは四番目に動いた人間は誰にもタッチできないはずだが、なぜかこのリレーが続く場合があるという。
これが簡易降霊術「スクエア」だ。篠原さん家。
猫は廃屋に入っただろうか。そして家々を渡り、どこかへ。
「あ、いま5回曲がってたな、ええと次は」
「止まるにゃ」
ばしん、と棒が打ち合わされる音。
「え……」
見れば、それは猫耳を持つ男たち。時代劇のような水色の着物が眼に入る。
二足歩行の猫が長い棒を持ち、僕の前でバツの字に打ち合わせていた。
「どこへ行くにゃ、名を名乗るにゃ」
「え、ええと、昼中和人。猫を探してるんだけど」
「その猫の名は何にゃ」
少しすりきれた縮緬の着物に、猫の足跡のような小紋、すなわちワンポイントの柄。下は股引をはいて編み上げのワラジという、火消しとか岡っ引きのような格好をしている。頭はぼさぼさの髪に猫の耳、チョンマゲではないんだな、などと思う。
「名前は確か……ポットちゃんだ。白くて美人で、スルメをよく食べてたとか」
二人の猫人間は互いに視線を送り、にゃあにゃあと何かを話し合ってから棒を下ろす。
「通っていいにゃ。ポットなら迷子になったって騒ぎになってたにゃ」
「マタタビ商人のゲンゾーに捕まったかもって噂だにゃ」
「ゲンゾー?」
「恐ろしい猫にゃ。もう何人も無理やり嫁にされてるにゃ」
「去勢からも逃げ続けてる大悪党なのにゃ」
去勢という言葉に、もう片方の猫が股間を押さえて震える。
とにかく大変なようだ。手遅れになる前に見つけよう。
二匹の猫が守ってたのは門というより、塀に空いた大穴のようだった。それをくぐって向こうへ。
そこは路地のようだった。左右は天に届くほど高い塀。稲妻のようにカクカクと曲がりながら続いている。
まるで昔なつかしの巨大迷路である。板塀の路地だけがえんえんと続いており、三叉路に十字路にと、めちゃくちゃに分岐している。
「姫騎士さん、変な空間に入った。路地みたいだけど、塀がすごく高い。それに猫耳の人間が」
「名乗りて荷抜けの猫小路」
姫騎士さんの声。その電話の声で、世界の輪郭が明確になる気がする。夢うつつの場所ではなく、実在するのだと確信できるような。
「そこは猫さんたちの社会です。ポットちゃんを探してください」
「了解」
ときどき猫人間もいる。虎縞の着物を着た商人ふうの男。黒の着物で長椅子に寝そべる女性。妙な色気がある。
キセルをふかしていた男がいたので、ポットちゃんとゲンゾーについて聞いてみた。
「ポットか、ありゃあいい女だにゃあ。ケツがでかくて背骨がぐにゃりとしてて、足音も立てずに後ろを通られた時にはゾクゾクしたにゃあ」
「はあ」
「ゲンゾーが絶対モノにしてやるって息巻いてたにゃ。そう言えば……さっき「かつお」にゲンゾーの籠が入ってったにゃ」
「籠……」
道を教わり、その通りに進む。体をねじ込んで通るような狭い道。今にも崩れそうな石壁の穴。クジラほどもある車の下は這って進む。
そして、路地の先に門構えが見えた。「かつお屋」と書かれた宿屋のような建物。
宿屋というより……いや、温泉町だからというわけではないが、露骨な連れ込み宿だこれ。
その宿から、姫騎士さんが出てきた。
「あれっ」
白い着物の女性を連れている。後ろから黒架も出てきた。
黒架はケージを持っており、それには茶トラの猫が入っている。
そして車の音。
気がつけばここは商店街の路地。と言っても5メートルもない、ただの家どうしの隙間だ。表通りを車が通っている。
「っと、戻ってきたのか……」
どうやら別ルートの姫騎士さんたちの方が早かったらしい。
足元で白い猫が姫騎士さんの脛に体をこすり、どこかへ走り去ってしまった。
「ポットちゃんは無事だったっす。ゲンゾーはこのままお医者さんに連れてくっす」
地域猫だから去勢が必要らしい。あわれゲンゾー。今度見かけたらニボシあげるからな。
「相変わらず凄いね、姫騎士さんの力というか、何というか」
「ありがとうございます。でも……まだ眠れないままなのですが」
姫騎士さんは自分の力についてはどうでもいいらしい。悩みは眠れないことなのだ。
その力と、眠らない体質は何か関係あるのだろうか。まだ何も分からないことだらけである。
「姫騎士さん、そういえば眠りたいんすね」
「はい、方法を探してるんです」
黒架は少し考えて、そしてぽんと手を叩く。
「それならいい方法があるっす!」
「本当ですか。ぜひ教えて下さい」
黒架はこんな狭い路地なのに、手で僕達を招く。そして三人が額を突き合わせる格好になると、やや鼻息荒く、言った。
「酒池肉林っす!」
ごん(頭突きの音)。




