第十三話 【眠りて廻る灰溜まりの壜】
「さあ、この部屋なら安全ですよ」
案内されたのは、どこか古びた部屋。
掃き清められてはいるが、あらゆる調度が黒ずみ、欠けていて、とても歴史のあるものに思える。
「私は黒架カルミナ。人間がこの城に訪れるのは久しぶりですね。歓迎いたしますよ」
カルミナ、と名乗った女性は黒架に少し似ている。落ち着いた妙齢の美しさを備え、その肌は磁器のように青白い。
彼女は部屋の中央にあったテーブルにさっと手をかざす。すると人数分のカップが生まれ、湯気を立てる紅茶が生まれた。
「ママ、一族のみんなが……」
「心配せずともよいのですよ。ハンターの言っていた通り、私達に滅びはありません。この城の誰も踏み込めぬ場所、摂理の果てで眠りにつき、月の光とともに目覚めるのです」
「で、でも火で焼かれて、剣で斬られてた、同族が蘇るとこなんて見たこともないし……」
母親の前だからか、黒架はやや幼い様子になっている。その頬をカルミナがそっと撫でる。
「あなたはまだ夜の深淵に触れていませんからね。我々のたどり着いた無限の境地、術式の神秘を見せてあげたいけれど、あそこは容易に行ける場所ではないし、言葉で語ることは難しい……」
「その場所は」
姫騎士さんが発言する。銀食器に匙が触れるような硬質な声。不思議な存在感を持って響く。
「どう行けばいいのですか」
「そうね……肉体のままで行くのは不可能ですが、星ひとつない真の夜。朽ち果てた古城の門をくぐり、錬金術の書を踏みつけ、地の底の霊に呼びかけ――」
カルミナの手が緊張を示す。姫騎士さんをまじまじと眺めつつ、周囲の気配に耳をそばだてるような気配。
「……踏み越える、それは茨の園、水銀の海、硝酸の沼、硫黄の獣、やがて黄金の循環に至る回廊」
呪文のような言葉。そして、最後の一文を飾るような姫騎士さんの声が。
「眠りて廻る灰溜まりの壜」
景色が揺れる。意識に一瞬の断絶。
方向感覚の喪失、とてつもない距離を飛ぶような感覚。
はっと気づく、そこは灰色の砂漠。
真夜中の砂漠である。灰のようにきめ細かい砂が広がり、そこに人の背丈ほどの壜が並んでいる。
それはガラスでできた人間の形だったり、動物だったり植物だったりする。ガラスの花。ガラスの鳥。あるいはガラスの猫。そんなものが灰に半分埋まっている。瓶の口からはさらさらと砂が注ぎ込まれるように見えて、内部を少しずつ満たしていく。
星空かと思われたそれは無数に書き込まれた文字。あるいは数式か化学式のようなもの。抽象化された動物や道具の絵もある。
おそらくは数万ページに及ぶほどの膨大な文字が夜空にある。霞のようにも見える細かさだが、眼をこらせばその一文字一文字が読める気がする。
「我々は自己進化の特異点に至った種族なのです」
赤いロングドレスの女性、カルミナもそこに降り立っている。
「我々の城の核となる場所がここ。無限という術式を満たした壜です。我々は滅びれば微粒子となってここに環り、魂の器に少しずつ自己を満たしていくのです」
「ここが……話には聞いてたっすけど……」
黒架は茫然としている。カルミナは薄く笑って姫騎士さんを見た。ぞっとするほど美しい女性だが、笑い方には柔和な穏やかさがある。
「あなた、不思議な力を持っていますね。ここは肉体あるものには触れえぬ概念的な世界です。あなたは高位の魔法使いではなさそうですが」
「不思議、なんでしょうか、やっぱり」
カルミナは面白げに口の端を上げる。
「私にもあなたのやっていることは説明できない。この世にはまだまだそのような神秘が満ちているのです。どうか己の力を大切にしてください」
カルミナは姫騎士さんに興味があったようだが、自分の娘を優先させたいようだった、話を切り上げて黒架の手を取る。
「ジュノ。我々にはハンターの襲撃など何ほどでもない。いかに高位のハンターでも我々の不死は脅かせず、城の下層に眠る深遠なる方々には指一本触れられない。あなたが気に病むことはありませんよ」
「……」
「今回の騒動は、私の責任なのです」
「え……」
「本来、我々はハンターに狙われるような存在ではない。一族を敵に回すことになるのはもちろん、城の根幹を涜すのは至難の業。あるとすれば、それは人の世との最後の争いの日になるでしょう」
「でも……実際に」
「私がいけなかったのです。あなたにもっと広い世界を見てほしかった。私は人間の文化を取り入れようと考え、あなたにも人間のことを学ばせようとした。それが一族の反感を買ったのです」
反感……。
それが今回の事件を招いたのだとすれば、まさか。
「コウモリの眼を通して見ていました。あのハンターは、一族の者の手引きで入ってきたのですよ」
「……! そ、それは誰っすか! アンテルミア、ジャコバン、まさかロゾの爺さま……」
名前を挙げられて、カルミナはひどく悲しむように思えた。沈痛な感情が眼の端に浮かぶ。
「あの場にいた全員ですね?」
姫騎士さんが言い、黒架が目を見開いて振り向く。
「なっ……」
「そうです」
カルミナは答える。
「この城にてハンターを暴れさせ、その責任をあなたと私に取らせるつもりだった。しかしまさか、白炎のソワレなどを呼び込むとは」
そうか、だから会合で黒架は不自然なほど孤立していたのか。
この地に留まっていたのは黒架の判断だった。その会合の最中に乱入があれば、黒架の責任にできると考えたわけか。
「そんなことが……」
黒架はカルミナの裾にすがりつき、畏れにわななくかに思えた。様々なことがありすぎて感情の整理がつかないのだろう。
「私は、この城を移動させようと思います」
カルミナは場の全員に言う。
「今回の首謀者たちは私の責任において封印します。この城もしばらくは深き夜の果てに隠しましょう」
カルミナが片腕を上げる。すると灰に埋まっていた壜がふわりと持ち上がった。
数百もある人型の壜。それが頭を下にして宙に浮き、灰が頭頂部の穴から落ちて砂漠に混ざる。
ただそれだけの光景なのに、不思議な恐ろしさがあった。それらの壜はいつ正しい向きに戻るのだろう。内部の砂をすべて地に落として、ただのガラスの器としてこの場所に浮かび続けるのだろうか。
「ジュノ、あなたは人の世に残ってもいいですよ」
「残る……でも」
「吸血鬼の社会はもう完成され尽くしてしまった。それが幸福だと言う人もいるけれど、あなたにはもっと広い世界を見てほしい。予感があるのです。この世はまだまだ広く、新しいもの、忘れられたもの、理解の及ばないものに満ちている。それを探求することにはきっと意味があると」
「ママ……」
ふと、奇妙な気配が。
それは姫騎士さんが動いてない気配だ。
微動だにしていない。眼はどこを見るでもなく、口は息が漏れない程度に閉じられている。
これは……この構えは何だろう。
何の感情も感じられない、いや違う、これはポーカーフェイスだ。感情を外に漏らすまいとしているのだ。
姫騎士さんは何かを隠している? いや、そうじゃない、今なにかに気づいたのか。
何か、今の会話に不自然な点が。
「昼中さん……」
小声で囁かれ、僕はぐっと口をつぐむ。黙っていてほしいという合図と受け取った。
だが僕の小市民性ゆえか、黙っているのは了解できても、考えることまでは止められない。
そうだ、あのハンター。
最初にやられた吸血鬼は「なぜ」と言っていた。不死身を見越して攻撃させたわけではない。あれはソワレの裏切りであり、それが意外だったのだ。
なぜ裏切った? 吸血鬼は不死なのになぜ攻撃したのだろう。
カルミナ、黒架の母親である彼女は、内紛のことを知っていた。すべてを防ぐことは間に合わなかったとしても、何か手を打てたのではないか。
ハンターと接触し、何かを依頼することぐらい、は。
「……」
疑いとは洞窟に似ている。勘ぐれば底はなく、深く入り込めば戻ってこれなくなる。
推測だけならいくらでも可能だ。今回の騒動がどこから計画されていたのか。それは誰の利益となったのか。結果としてカルミナは自分と、娘に反感を抱く者たちを一掃できた。
ソワレ、短剣使いのハンターと機械のメイド、それとカルミナはどのぐらい関係しているのか、どこまでが偶然で、いつから結託していたのか。
あるいはそれは、もっとずっと昔から。あるいは黒架ジュノという吸血鬼が生まれる前から、という可能性すら……。
カルミナは、その吸血鬼の女王は曖昧に笑い、僕にささやかな視線を投げるかに思えた。
「また会いましょう、何も定かならぬ夜に」
ふと。肌に触れる風。
硫黄の匂い。ここは西都の町だ。温泉の香りを感じる町。僕たちは道の真ん中に立っている。黒架のアパートがすぐそこに見えた。
いるのは僕と姫騎士さん、そして吸血鬼の姿となっていた黒架だけ。
「……黒架」
黒架はぼんやりと空を見つめていた。その麦の穂のような金の髪、赤い瞳がさみしげに揺れ動く。僕の眼にはもう城は見えないし、西都を囲うように存在した超高層ビルも見えない。
黒架は耳を澄ませるような動作をして、僕たちを見る。
「……もう大丈夫っす。お城は消えたし、夜の生き物たちも騒いでない。ハンターもどこかへ消えたみたいっす」
やや義務的にそう言う、僕はそんな黒架に呼びかける。
「黒架、今から東京に行こう」
「……え?」
きょとんと、その赤い眼が丸くなる。
「一緒にやってたゲームあったろ、あれの聖地系ゲーセンが東京にあったはずだ。新宿ワンダーランドだったかな、秋葉原バンバンでもいいか。千葉には五井カーウォッシュってのもあったな。明日は配信のある日のはず。ネットで有名どころに呼びかけてみるよ、女子高生が遠征行くって」
「ひ、昼中っち、それどころじゃないっす。私はいま、城を出ることになって……」
「黒架、問題は一つずつ解決するんだ」
その両肩を掴み、眼を見て言う。
「一族のこと、今後の生活のこと、考えればキリがないだろう。だけどゲームのことはすぐにでも解決できる。お前の力がトップに通用するかどうか確かめろ。他のことなんかそれから考えればいい、今はゲームのことだけを考えるんだ」
「で、でも、戦って、もし一度も負けなかったら」
「やる前から勝つなんて決めつけるな!」
通行人が聞いてたらツッコミが飛びそうな言葉だが、むろん真剣そのものだ。
「全力で戦うんだぞ、それが相手に対する礼儀だ。一生懸命戦って、勝ってしまったらそれは仕方ないじゃないか。そこからまたどうするか考えたらいい。結果を出してこそ見えるものもあるはずだ。広い世界を見る、それが黒架のお母さんの望みだろう」
黒架は震えるような眼で僕を見て。静かに息を吸う。僕たちはゆっくりと時間をかけて、互いの呼吸を合わせようとする
やがて黒架は、こくりと頷いた。
「わかった……っす。東京行くっす。有名どころとガンガン戦うっす!」
「よし、さっそく行こう。現金あるか?」
「大丈夫っす、ぶっちゃけ私ってば大金持ちっす。現金とか宝石がたっぷり用意してあるっす」
「よかったですね、お二人とも」
姫騎士さんも満足そうに頷く。
黒架も僕も、抱えている問題はけして単純ではない。だがそれでも前に進むことはできる。
一見すればどうでもいいような悩みでも、それでも若者にとっては大きな壁。打ち砕いて前に進むべき壁なのだ。
「でも今から東京に行かれるのですか? バスがありませんけど」
「う、それは……」
西都の町に鉄道の駅はない。高速道路が接しているので、高速バスを使えば県の中心部まではすぐだが。もう新幹線の最終も出てる頃だろうし……。
「タクシーで行くっす! 今は深夜の3時ぐらいっすね。明日の昼までには東京に行けるっす!」
「おお、それでこそ黒架だ」
僕たちは青春の気炎を上げ、これからの滅茶苦茶な旅に心を躍らせる。東京タワーにも登ってやろうか、温泉地の子として大江戸温泉を偵察してみるのも悪くない。美味い物もたっぷり食べてやる。
何もかもこれからだ。僕たちの青春も、人生の大いなる試練ってやつも。
「駆け落ちと思われませんか?」
それは思われそうな気がするけど、言わないで姫騎士さん。




