第十一話 【鏡の中のラインゼンケルン城】2
しばらくの混乱があって。
「無茶しすぎっすよ……二人とも」
あらためて黒架と話をする。それにしても天井の高い部屋だ。高いというより真上にもう一つ部屋がある。そちらは大きめのテーブルがあって銀の燭台に火がともっている。食事のための部屋だろうか。必要に応じてどちらの面を床にするか選べるわけか。
「この城に入ってくるなんて……他の眷属に見つかったらどうなることか」
「この城には何人ぐらいいるんだ?」
「二千人とちょっと……もっとも眠ってる仲間が大半っすけど」
「黒架は……その、人間じゃないのか? やっぱり」
僕の言葉に黒架が少し寂しげな顔をしたので、その手を掴む。
「人間じゃないとしても気にしない。ちゃんと知りたいんだ」
「……うちらは人間とは違う生物だと言われてるっす。人間の進化系だと言う人もいるし、ぜんぜん別の生き物から進化したという人もいる。ともかく私らは術式に通じてて、想像できるような吸血鬼の特徴を持ってるっすよ」
ぜんぜん別の……それは収斂進化というやつだろうか。サメは魚類でありイルカは哺乳類だが、同じような流線形の体に進化した、という話のような。
「黒架ジュノさん。実は私も吸血鬼じゃないかと思うのですが」
「へ? 姫騎士さんが?」
黒架は姫騎士さんの顔をまじまじと見る。
その顔は学校で見る黒架とまるで違う。同一人物なのは確かだが、肌はシルクのように滑らかで眼には赤い瞳が輝き、体のラインも普段よりずっと女性らしくなっている。これが本来の黒架だとすれば、普段の黒架は何日も眠っていないような状態に思える。
しばらく見ていた黒架は、ゆっくりと首を振る。
「違うっす。どこからどう見ても人間、同族ではないっす」
「そんなに違いますか……?」
「あたしらの血は青いんす。ほら」
黒架は手首を見せる。なるほど、たしかに真っ青な静脈のようなものが見える。
「人間とは成分もまるで違うっす。だから肌の色ツヤを見れば分かるっす」
「でも、学校での黒架さんは」
「化粧でごまかしてたんすよ。コルセットで体型も変えてたっす。目立たないようにしろって、小うるさいおばさんが多くて」
血の色が違う……。それを象徴的な事とは考えたくないが、確かに黒架は吸血鬼なのだろう。
だが、黒架が人間でないとしても、質しておくべきことはある。
「黒架、町を出るってどうしてなんだ」
僕が踏み込む。黒架は切れ長の目で僕をちらりと見て、ためらいがちに答える。
「……ハンターが町に来てるっす。町の隙間に住むような弱い連中がやられてて、うちらも城を引き払って場所を移るべきって声が上がってるんす」
「でも聞いた話では、吸血鬼ならハンターに勝つのなんて簡単だって……」
「え、どこでそんな話を……」
黒架は僕と姫騎士さんを交互に見て、そして諦めたように答える。
「確かにそうっす。ハンターと言っても人間。人間と吸血鬼では体のつくりが根本から違う。負けるわけがないっす」
「じゃあ、逃げなくても……」
「私の意見じゃないっす。一族にはハンターと戦いたくない人が多いんす。これから会合で、そのあたりについて話し合う予定なんす」
その刻限はさほど遠くないのか、黒架は立ち上がり、柱時計を見上げてからナイトドレスの襟に触れる。
「二人はこの部屋にいた方がいいっす、会合が終わったら家に送り届けるっす」
「黒架ジュノさん」
同じく立ち上がるのは姫騎士さんだ。二人の背丈は同じぐらい。互いに正面から眼を見る。
「それだけではないでしょう? 昼中さんから聞きました。なぜゲームを辞めるんですか?」
「ゲーム……」
今はそんな場合じゃないとも思ったが、意外にも黒架にとって核心を突く質問だったらしい。息苦しいかのように胸元をぎゅっと掴み、奥歯を噛む気配があった。
「姫騎士さん、人間の反応速度って知ってるっすか」
「反応速度……刺激を受けてから体が反応する時間ということですね。すいません、知らないです」
姫騎士さんは学校の勉強以外のことはあまり詳しくないが、これは雑学の領域だからだろうか。
たしか、測定によってだいぶ違うが陸上競技などではおよそ0.12秒が人間の限界と言われる。そのため、短距離走ではスタートの合図から0.1秒以内に動くとフライングを取られる。
「吸血鬼の反応速度は0.02秒を切ってくるっす。力も強い。思考力も段違いっす。そんな吸血鬼が、人間と互角にゲームできると思うっすか?」
「それは……すいません、私、ゲームというものをやったことがなくて……」
姫騎士さんがそう答えると、黒架はゆらりと視線を動かし、僕を見る。
「昼中っち、ごめんっす。以前よく対戦してた頃、本当は動きが止まって見えてたっす。私にとって格闘ゲームは負けるほうが難しいぐらいの世界。人間を相手に戦うのはフェアじゃないっす、だから辞めるっすよ」
「……黒架、仮にそうだとしてもゲームを辞めることないじゃないか。きっと公平に戦えるゲームもある。なにかしらハンデをつけるという手も……」
「やっぱり人間じゃないっす、私は」
彼女に向けて伸ばそうとする手を、黒架の細い腕がそっと払いのける。
「寿命も違う。能力も違う。きっと考え方も違うっすよ。無理があったっす、人間に隠れて生きるなんて」
「そんなことは」
「昼中っちのことだって」
彼女の両腕が、僕の首に回る。
細腕だが金属のように冷たく、固い。鉄パイプで組まれた首枷のように微動だにしない。
「ほんとは襲いたかったかも知れないっすよ。肌を抱いて、血を吸って、コウモリの翼で夜空の高いところに連れて行くっす。吸血鬼に噛まれるとどうなるか、想像できるっすよね。同族になるか、あるいは下僕になるっすよ」
「う……」
その薄く開いた口から、八重歯がのぞく。
長く鋭い、まるで牙のような。
僕の首筋を狙う赤い視線、肌に届く甘い吐息。
「……さ、もう話は終わりっす。後で迎えに来るから、この部屋で静かにしてるっすよ」
とん、と黒架は僕を突き飛ばす。僕は背後にあった椅子にどさりと座った。
軽くおだやかな接触だが、その一秒で彼女との距離が数メートルも離れたかのような。
黒架は振り向きもせず、大扉をぐいと押し開けて部屋を出ていく。あとには僕達だけが。
「黒架……」
もう、戻れないのか。
あの長い暗闇の日々、ゲームセンターの明かりだけを頼りに羽ばたいた蜉蝣のような日々。
あの頃はほんのわずか、心が通じ合っていたと感じたのに。
「昼中さん」
姫騎士さんは竹刀袋をかつぎ、僕の肩にぽんと手を置く。
「じゃあ行きましょう」
…………
……
「え?」
「会合ですよね。またコウモリさんに連れてってもらいましょう。その前に昼中さんは着替えたほうがいいですね。適当な部屋で男物の服を調達しましょう。それなら忍び込めます」
「いや姫騎士さん、なんか普通に行く感じになってる?」
はて、とその学園一の美少女は疑問を示す。
「もちろんですけど」
「今はっきり拒絶されたじゃないか……。しかも吸血鬼の会合に……忍び込むなんて」
それに、姫騎士さんの当初の目的も否定された。姫騎士さんは吸血鬼ではないと断言されたのに。
そう伝えると、姫騎士さんはぐっと拳を握る。
「私のことはいいんです。クラスメートの黒架さんと昼中さんの問題でしょう? 見過ごしておけません」
「そうは言ってもな……」
「昼中さん、問題は何も進展してませんよ」
「え……」
「黒架さんが、辛そうにしている、ということです」
「……!」
そう、確かにそうだ。
話していても印象はまるで変わらない。黒架はやはり、この町を出ていくことを悲しんでいる。ゲームを辞めることもだ。
それを仕方のないことと諦めるのか。まだ僕は吸血鬼について、何も知らないも同然なのに。
僕たちは黒架の部屋を出る。起きている吸血鬼は会合に行っているのか、城の中はがらんとしていた。
「やるべきことが分かった。黒架の抱える問題の解決策を見つければいいんだ。会合に行けば何か手がかりが……」
「そのことなのですけど」
壁に足をついて横倒しになりながら、姫騎士さんが言う。
「先ほどの話……本当でしょうか?」
「え、何が?」
「何か……話に違和感がありましたよね。それは黒架さんが嘘をついているというより、おそらく種族の中で醸成された認識……」
分からない、姫騎士さんは何かに気づいたのだろうか。考えに没頭している様子だったので口は出さない。
やがて男物の燕尾服を調達できた。僕たちはまた棺桶に入って、コウモリたちに運んでもらう。
※
「すでに被害は無視できない規模となっている」
ぎしぎし、と棺桶の蓋をずらすと、いんいんと響くのは黒架の声だ。
そこは真球に近い空間。直径は50メートルほどもある。あちこちに黒壇の執務机のようなものがあり、半数以上は誰も座ってない。隣の席と離れているのを見て少し安堵する。
直径50メートルとすると、球の表面積の公式がえーとS=4πr^2だから7,850平方メートル。サッカー場よりもやや広いぐらいか。ここが吸血鬼たちの会合場所というか、議場らしい。
ある方向に巨大な黒板が見えて、コウモリたちが飛び回って図形を描いている。それは何かのグラフと、この街の地形図だ。
「ハンターに襲われた者からの陳述は百を数える。ハンターまがいの人間も集まってるようだ。我らは何度も住処を追われた。事ここにおいてはこの地にとどまり、ハンターに対抗するべきと提案する」
「対抗……」
それが人間との戦いである、ということはひとまず置くとして、黒架がそう言ったということは、この地に残る意志はあったのだろうか。ハンターと戦うと。
がらんがらん、と重厚なハンドベルの音が響く。
「進言する。そのような戦いは我らの流儀ではない。以前と同じように土地を移ればいいだけのことだ」
「しかし、それではまた同じことが」
空間に仕掛けでもあるのか、声が空間全体にまんべんなく響いている。黒架が反論しかけるのを、音色の違うハンドベルが止める。
「先ほどの認識について訂正させていただく。我らはハンターに追われたことなど一度もない。ただ人間の中に反抗的な連中がいるのは事実、それとの無用の接触を避けているだけに過ぎぬ」
また別の声。女性のようだ。
「陳情とやらを会合で扱うことも納得ゆかぬわえ。どうせ禽獣にも等しき下等な連中、我らがなぜ獣のために働かねばならぬ」
わいわいと、非難めいた声が上がる。ハンドベルの音も響いてくる。
ふと、黒架に近い席の男が立ち上がり、他の参加者の方を向いて言う。
「皆さま、そういきり立つことはないでしょう。姫君はまだうら若きゆえに血気盛んなのですよ。人間どもを串刺しにして門前に並べてくれようとね。勇ましいことです」
散発的な、それでいて露骨な失笑が上がる。どうやら今の発言は吸血鬼ならではのジョークが混ざっていたようだ。
発言した男は黒架を振り向く。
「姫君、人間どもに襲われる不安で眠れぬ夜を過ごす日々、心中お察し申し上げます。ですがすでに次の居城の候補地は選出できておりますゆえ、あとは我々にお任せいただければと思います」
「しかし……」
ぎり、と黒架の歯がゆい気配が伝わる。
「それとも姫君、何かこの土地に格別の思い入れでもございますか?」
しん、と静まりかえる気配。
周りをうかがう。出席者は老人が多いように思える。それらが食い入るように黒架を見ている。
どうやら黒架は指導者の立場らしいが、吸血鬼たちの眼に敬意はない。
その一挙手一投足を採点するかのような。何か失言でもやらかさぬかと耳をそばだてるような気配だ。それが場に満ちている。
男の発言は続く。
「思えば先の女王陛下のお考えでしたな。この地にて極めて強固な鏡面結界を張り、人間たちの学び舎に姫君を通わせるとは。どのような狙いがあったのか私どもにはとても想像が及びませぬが、まるで、姫君を人間にしようとしている、などと口さがないことを申す者もいましたな」
しかし、と三音に異様な重さを乗せて言う。
「聡明な姫君ならばお分かりでしょう。我々は人間の捕食者であり、君臨者である。生物としても文化の上でも、人間は完全なる下等種。まかり間違っても交わることなどない。永遠に踏みつけておくべき惰弱な生物であると」
「それは……」
黒架は顎を引き、ぐっと何かを飲み込む気配のあとで、言った。
「確かに……その通りだ。私は人の世にて過ごすうちに、己と人間との力の差を感じていた。けして、相容れぬ、存在だと……」
「いいえ!」
だん、と執務机に躍り出る影。
「黒架ジュノさん! それは違います!」
姫騎士さんの声が、陰鬱とした空気を斬り裂いて響いた。




