第十話 【鏡の中のラインゼンケルン城】1
そして深夜零時。
の、三時間前の午後九時。
僕は姫騎士さんの家の庭で柔軟体操を行う。
「あの、昼中さん」
縁側の雨戸を少し開けて、声をかけてくるのは姫騎士さん。
「なぜこんなに早く来たのです?」
「気にしないでくれ。気合いが入ってるだけだ」
僕は両腕に両足、胴体にもサポーターを巻いて防御力を高めている。いちおう十字架とニンニクとポケット聖書も用意してウエストポーチに入れてある。リアルな武器としては柄の長いハンマー。ホームセンターでは警棒は売ってなかった。
冗談のような装備だが大マジメだ。黒架の身内とはいえ、吸血鬼が友好的とは限らない。
姫騎士さんは雨戸の隙間で目を三角にする。
「……もしかして、見張ってないと置いてかれる、と思ってませんか?」
「思ってない」
僕は石段の上で柔軟を続ける。姫騎士さんの方に視線は向けない。
「うたぐり深いと嫌われますよ、もう」
姫騎士さんの物言わぬ抗議の気配を受け流し、もくもくと体操を続ける僕。
3時間後、僕たちは夜の西都へと繰り出す。
「そこの角のアパート。あれが黒架の家だ」
「あの白いアパートですね」
昼中さんは稽古着の上から黒のジャケットを羽織っていた。竹刀袋を背負っているが、中身は容器の名の通り竹刀か、あるいは木刀だろうか。
昔ながらの二階建てアパート。もちろんエントランスやインターホンなどなく、二階の廊下は外から丸見えになっている。他の住人も眠っているのか、明かりの漏れている部屋はない。
「ここの202号室なんだけど」
「お城がありますね」
姫騎士さんは真上を見上げて言う。春の星空がすばらしいパノラマで広がっていた。
真上を見るということは、空に浮く城? そんなファンタジーじみたものが……。
「お城……どんなお城なんだ?」
「よく見えないんです。ただ、あるということしか分かりません。お城の気配……とでも言うんでしょうか」
何も見えない。姫騎士さんにしか見えていないのだろうか。何だかそれも違う、姫騎士さんにも見えていないようだ。
「今まで見てきた奇妙な空間……あれとは違うの?」
「だいぶ違います。今までの空間はやや不安定でしたが、これはすばらしく完成度が高くて洗練されてます。それなのに細部が曖昧で、輪郭がハッキリしない……昼中さん、見えてるはずのものが見えない、というのはどんな場合が考えられますか?」
問われて僕も考え込む。
「うーん、むかし読んだ子供向け科学の本にいろいろ書いてあったな。小さすぎて見えない、透明だから見えない、保護色になってて見えない……」
「……もっと、他に」
「あとは、ええと……大きすぎて見えない、近づきすぎて見えない、なんてのもあったな」
それは例えば、地球だ。
我々は地球が丸いこと、青い星であることを知識では知っているが、見ることはできない。地球から十分離れることができないためだ。何らかの科学的観測で、地球の形や色を推測するしかない。
「近すぎて……」
姫騎士さんは考え込んで。
そしてぽんと手を打つ。
「そうか! 分かりましたよ!」
「ほんと?」
「これはとても大きなものです。全体を見ないといけなかったんです。昼中さん、私と息を合わせてください」
「何でもする……言ってくれ」
「ではまず眼を閉じて、ゆっくりと深呼吸を」
言われるがままに眼を閉じて、肺から息をすべて吐くような呼吸。
「町の気配を感じてください。鳥になった気持ちで町を西から東へゆっくりと飛ぶんです」
僕は言われた通りにする。生まれ育った町だ、細かな建物まで思い出せる。山裾を駆け下りて風に乗り、酒屋と中華料理屋を左右に見て大通りを飛ぶ。
「あれは……」
閉じた眼の中に、ビルの影が。
それは雲に届くほどのシルエット。1辺百メートルを超える敷地を埋め尽くすビルが、高さ数百メートルまで伸びている。
あんなビルは西都には、いや、日本のどこにも。
「眼を開けないで」
姫騎士さんの手が顔を覆う。眼を閉じた視界がもう一段階暗くなる。僕は想念の中で羽ばたきを続ける。
一つや二つではない。西都の町を囲うような途轍もない規模の摩天楼。超高層ビルの異名、空を削り取るものとはこのことか。
「昼中さん、何が見えますか」
「ビルが見える。とんでもなく大きい。表面がミラーガラスになっていて星空が写り込んでいる」
これはまるで結界。王冠のように西都の町を取り囲むビルの巨人。その鏡面と星空が互い違いに見えて、山なみが屈折を起こすような眺めだ。
「なんて規模だ……」
全体の直径は10キロ以上。どれ一つとっても世界ランクに名を連ねるほどのビルがそびえ立つ。
そしてそのミラーガラスの輝きに、城が。
それは月のような白亜の城。宙に浮いており、無数の尖塔が放射状に付き出す海胆のような形。そこに回廊を備えた城壁が巻き付いている。天地も上下もない球形の城。あるいは経文で封印された忌み物を思わせる。
「あれは……城と言うより、まるで星……」
「昼中さん、今から手をゆっくり下にさげます。その時にまぶたを下におろしてください」
「下に……姫騎士さん、何故そんなことが分かるの?」
「何度か経験して分かりました。これは一種の技術です。ふだん見えてないものを見るために、体にまとわりついてる常識を脱ぐんです」
この儀式めいた手法、姫騎士さんは誰にも教わらずに……。
言われた通りに試みる。まぶたを眼球の下に引っ込めるような感覚。確かに下におろせた気がする。
そして見える、やはり西都の町がビルに囲まれている。輪郭も曖昧な鏡面仕立てのビル。あれが住宅ならば一万人は住めそうな大きさだ。
「すごい……こんなことが。しかも城が、鏡の中だけにある」
すべてのビルに城が映り込んでいる。真上には何もないのに。あれが吸血鬼の城なのか。
「鏡の中のラインゼンケルン城。そのように呼びましょう」
目をしばたたく。もうビルも、鏡像の城も消える気配はない。姫騎士さんが名前を呼んだことで世界に定着したのだ。今はそう理解しよう。
「でもどうやって行けばいいんだ。浮いてるし、そもそも鏡の中にあるって……」
城の浮いてる高さはおそらく10メートルほど。高い建物に登れば行けない高さではないが、そもそも上には何もないのだ。
「簡単ですよ、あちらのお宅から行きましょう」
と、姫騎士さんは手近なブロック塀に登る。一動作で全身を持ち上げるようなしなやかな動きだ。民家の屋根に音もなく駆け上がる。
「だ、大丈夫?」
僕もなんとかついていく。姫騎士さんは屋根の中央で何かを覗き込んでいる。それは鏡のようなプレートと、カマボコ型のユニットが連結した機械だ。
「……太陽光発電機」
「はい、パネルは鏡のようになってますからね、上のお城も映り込んでます」
姫騎士さんは何度か踏み切り位置を確かめたあと、えいとパネルに飛び込んだ。
そして足の先から飲み込まれ、姿が消える。
「うおっ……。ぼ、僕も行かないと」
飛び込む。一瞬の無重力と天地逆転の感覚。そして、だんと足先に強い衝撃。磁石に張り付くように生まれる重力。
そこは石材の上。城壁を構成する組石の側面に立っているのだ。頭の上にはさっき降りてきた屋根も見える。
「け、けっこう高かった。2メートルぐらい降りたな」
「お城がゆっくり上下してます。今はあの屋根に近かったようです」
確かに、頭上で西都の町が離れつつある。遠景のビルに映ってると分かりにくいが、この城はマリモのようにふわふわ動いているのだ。
……じゃあ屋根から5メートルも離れたときに降りたら、軽く足が折れてたな。あまり深く考えないようにしよう。
「入ってみましょう」
城壁の上側に向かう、足が城に吸い付くような気がして、上側に足を乗せると重力が90度傾いた。風景だけが回転するように感じる。
「足を置いてる場所が下と見なされる感じだな……。やろうと思えば壁も天井も歩けるのか」
通用口らしき扉から中へ。
城の中は広い。あらゆる方向に床があり、調度があり、燭台の明かりがある。炎が立ち上る方向までバラバラだ。
部屋は卵型の空間が連結されるアリの巣のような構造で、あらゆる方向から回廊が伸びている。ときおり見事な絵画やステンドグラスに圧倒される。
「すごい構造……気をつけないと迷いそうだな」
「これだけの広さなら何百人も住めそうですね」
個室もある。簡素なもので、家具としては本棚と書き物机、机にはハンドベルが置かれている。
そして中央にでんと置かれるのは棺桶である。蓋は空いていて中は空っぽだ。
同じような部屋が大量にある。手回し式のオルゴールとかレコードプレイヤーとか、調度にズレはあるものの似たような造りだ。
「やっぱり住人がいるんだな……でも不在なのか。城の外に出てるのか……?」
ごそごそ、と音がする。見れば棺桶に潜り込もうとしてる姫騎士さんが。
「……何してるんだ?」
「本物を経験してみたくて」
と、中にあった白い枕に頭を乗せ、そっと目を閉じた。
かと思うと身を起こしていそいそと出てくる。
「……中に、匂いがこもってます」
「……」
吸血鬼、わりと臭い説。
「……いやそんな場合じゃなくて、黒架を探さないと」
ばたばた、と音がする。
はっと身を隠せば、コウモリの羽音だ。
「会合には何人来るんだ」
「全員とはいえ、眠りの深い連中は来ないだろう。三百ってとこだな」
「のんきなもんだ、ハンターが来るかもって時に……」
柱の陰から見れば、夜会服の男性が空を飛んでいる。背中からは巨大なコウモリの羽根。
それに続くのは棺桶である。黒いもやのようなものに乗っているが、よく見ればそれは無数のコウモリだ。
「おい、棺のまま会合に出る気か」
「百年も寝たままだったんだ、身を起こすのが辛いんだよ」
「使い魔は城主さまのものだぞ、むやみに働かせるのは……」
そんな言葉をかわしながらどこかへ消える。
「吸血鬼……ほんとにいたんだ」
「百年眠ってたんですね、羨ましい……」
「今そこ問題じゃないから」
で、会合か。この城に住む吸血鬼たちが集まるのだろうか。そこに黒架も来るのか。しかし出来るなら黒架だけに会いたいが……。
「ひらめきました」
と、姫騎士さん。
「コウモリさんを使い魔として利用してるようです。私達も運んでもらいましょう」
「ど、どうやって?」
「書棚を見たところ、英語は通じるようですので」
さらさらと、書き物机にあった半紙とペンで文字を刻む。
Please take me to Junho's room(ジュノ様の部屋へ連れて行ってください)
その紙を棺桶に置き、ハンドベルをからんからんと鳴らす。
「さ、一緒に入りましょう」
「ま、マジで……」
名案にも思えるが、危険な賭けなことも確かだろう。だが、どうせ右も左も分からない城の中だ。姫騎士さんの思いつきなら乗ってみるのもいいだろう。
ばさばさと羽音が聞こえて、僕たちは慌てて棺桶に入る。
て、この体勢は。まさか。
中はもちろん真の闇。その中で姫騎士さんに抱きつく格好になってしまう。
「わ、悪い」
「大丈夫です、動かないで」
ばさばさと無数の羽音が集まってくる。いったいコウモリがどうやって棺桶を運ぶのか謎だが、しばらくすると棺がふわりと浮き上がる。
だが二人も入ってるとは知る由もない、重すぎるのかふらついている。何度かがんと壁にぶつかる気配もあった。
「うう、やっぱり少し臭いです……」
「……僕の匂いじゃないよな?」
そして数分後。羽音がどこかへ去っていき。
ずりずり、と蓋が勝手に動く。
「な、何してるっすか、昼中っち……」
「黒架!」
僕は勢い込んで立ち上がる。かなり広い居室だ。ここが本来の黒架の部屋か。
「黒架! 心配したんだぞ! いきなり学校に来なくなって! 映画館でのことだって、聞きたいことがたくさん」
黒架は蝋のように白い肌に、胸元が切れ込んだ黒のナイトドレス。ヒールの高い赤の靴。そして光の川のような黄金の髪。
いつぞや姫騎士さんと迷い込んだ世界で見た姿だ、やはりあれは黒架だったか。
「て、姫騎士さん? なんで姫騎士さんがいるっすか?」
姫騎士さんは先に棺桶に入ったので、必然的に後から出てくる。姫騎士さんは稽古着のほこりをはたき、やおら黒架の手を取って、言った。
「黒架ジュノさん。棺桶っていい匂いのものもありますよね?」
「……は?」
姫騎士さん、順序を大事にしようか。




