第一話
それは例えるなら、岩に突き立った伝説の聖剣。
小春日和のぬるい風を受け、歩むその気配に皆が足を止める
背はすらりと高く、肌は絹のようにきめ細かい。切れ長の目元と薄い唇は流麗な筆運びを思わせて、金属のような芯の強さをその内に秘める。
真の闇夜を思わせる漆黒の髪、何もいじらずに背中にゆるやかに流す。それが濃い藍色のセーラー服と溶け合っている。
「見て、姫騎士さんだよ」
「うわあすごく綺麗。腰ほそっ、モデルみたい」
女子がそんな噂を交わしつつ、しかし話しかける勇気のある者はない。いつも大勢が彼女を眺めるが、かがり火を恐れる獣のように遠巻きにするだけだ。
この西都高校の二年。剣道部主将であり全国模試のトップ常連。世界がうらやむ美貌と、近づきがたい孤高の気配を持つ人。
それが姫騎士さん。
全校で共有されるあだ名を持つほどの隔絶の人。タイプで言えば和風美人なのだが、なぜ姫騎士なのかは誰もよく知らない。姫武者とか姫侍はしっくり来なかったのかも知れない。
ともかく姫騎士さんの登場である。僕のような端役は邪魔にならぬよう、さっさと退散するべきだろう。
校舎の手前で左に折れて、そのまま非常階段の方へ。
背後でざわめく気配が聞こえる。姫騎士さんの行くところはどこも似たような感嘆と称賛、甘いため息と熱っぽいつぶやき。男子と女子の蛙の合唱。僕みたいな小物に気付く者はいないだろう。
一階西側、非常階段の下には潜り込めるスペースがあり、マットレスが敷いてある。
僕はカバンから小さな枕とアイマスクを取り出すと、もぞもぞと暗がりに体を滑らせ、手足を縮めて眠りに入る準備をする。
昼中一人、なんとも僕にぴったりな名前だなと思いつつ、僕は全身に眠りの指令を出す。鼻の上の方に力を入れて意識の遮断。
今は登校時刻。春の朝は少し寒いし、カビ臭いマットレスの上ではあるけど、大した問題じゃない。
僕は寝付きがいいことだけが取り柄。ホームルームをさぼり、一限目までのほんの30分ほどを、この場所で仮眠に費やした。
※
姫騎士さんは僕と同じ高校二年。光栄なことにクラスも同じだ。
「えー、日高く睡り足りて、猶お起くるに慵し、これは寝ても寝ても眠いというわけではなく、物憂げだ、起きる気力がないという事ですね……このとき作者は地方に左遷されており……」
だらだらと俯きがちに話す先生の声は余計に眠気を誘う。僕は教科書を立てて、顔を隠しつつ腕枕に突っ伏す。
ふと姫騎士さんの方を見れば、さらさらとシャーペンを走らせてノートを取っていた。あれだけ成績良くても勉強するんだな、とまどろみながら思う。
どうも彼女のことばかり話してしまうが、別に恋愛感情などあるわけもない。ただ、この世界の主人公はきっと姫騎士さんであり、誰を視点として世界を眺めても、それはきっと姫騎士さんの話になるのだろう。もはや羨ましいとか嫉妬するとか、そんな段階を遥かに通り過ぎた天上人なのだ。
「昼中くん、次のところ読んでください」
「はい」
がたりと立ち上がる。薄布のような眠気を2回のまばたきで落とし、黒板をちらりと見て要求されてることを推測する。
「遺愛寺の鐘は 枕を欹てて聴き、香炉峰の雪は 簾を撥げて看る」
「はい結構です。ここは有名ですね、枕草子にこの部分の引用があり……」
「昼中っち、いま寝てたっしょー」
横の席の女子、黒架がにやにや笑う。
「大丈夫、すぐ起きるのも特技だ」
「夜中寝とかないと駄目っすよー」
「夜は寝てる、昼も寝てるだけ」
「うひー」
小さく肩をすくめる彼女は青白い細面に充血した赤い眼。そしてカマキリのように長い手足。美人に見える瞬間もあるが、クマの濃い目元のせいで不健康そうな印象が優先する。
黒架は重度のゲーム中毒者であり、睡眠時間が極端に短いらしい。人の心配ができる身分ではないが、健康面が心配になる。
「どうっすか、後で一戦」
机の下で携帯ゲーム機をちらつかせながら言う。組んだ足は糸杉のように細く、白い。
「嫌だ、今日はまだ寝足りないんだ」
「ありゃりゃ、そっすか」
そして僕はまた机に突っ伏す。
その瞬間、視線が。
ふと気配を眼で追えば、姫騎士さんがさっと視線を前に戻したところだった。方角で言えば右斜め前方、だから姫騎士さんはかなり深く振り返っていたことになる。
小声だったが、会話を聞かれたのかな。
姫騎士さんの角度からだと突っ伏しているのも見えるだろう。
あの才女に情けない姿を見せてしまった。きっと呆れてしまっただろう。
ああ、どうか姫騎士さん、こんな眠ってばかりのゴミ野郎のことなんか気にしないでくれ。数秒でもあなたの物語に割って入ることなど恐れ多いことなんだ。
そして僕は自分を眠りで満たす。物憂げな春の気配を毛布として。
※
はっと目覚める。その瞬間、スマホが振動してアラームを鳴らす気配。スピーカー部分を指で押さえて、次いでアラームを止める。
「お世話になりました」
からからと仕切りのカーテンを開けば、何やら焦げ臭いような香ばしいような匂い。
「おっと、起きたかい」
片目にルーペをはめて、背を伸ばすのは白衣の保健医。やや胸元が開いたシャツに、わずかな自己主張を見せるヒール付きの靴。大きくウェーブのかかった栗色の髪。
どうも保健医という雰囲気ではない。いや、確か養護教諭とか言うんだったかな。
机の上には電子基板があって、電線の繋がった金属の棒から白煙が上がっている。匂いの正体はそれらしい。
「亜久里先生、何やってんですか?」
「ハンダ付けだよ、ラズベリーパイ」
「料理ですか?」
「まあつまり、パソコンを自作してるの」
ばさりと栗色の髪をかき上げ、するりと足を組む。スカートの裾からタイツを履いた足が覗いた。
どうもすべてが芝居がかった動きに見える。保健医になる時に変な漫画でも参考にしたのだろうか。
「昼中くん、体調はもういいの」
「病気じゃないって言ったでしょう。睡眠不足なんで寝かせてもらっただけ」
「そう、じゃあ午後の授業も頑張って」
「はい」
その時、ふいに背中に熱を感じる。
窓の外が鮮やかに晴れていたのだ。校舎裏の桜は満開。わずかに花の散りそめる頃。ちらほらと桜のかけらが風に舞う。
「いい天気だ。昼寝したら気持ちいいでしょうね……」
「今してたんじゃないの……?」
あきれ顔になる亜久里先生。
「寝たいなら屋上に行ったらどう? コンクリートが暖かくてオススメだよ」
意外なことを言い出したので、少し驚く。
「いいんですか? 授業あるんですよ」
「高校は義務教育じゃないし、どう過ごしても自由だよ。いつ退学してもいいし、空き時間に勉強してもいい。好きな道を選んで好きなように生きる。それが私の信条」
突き放してるわけではなさそうだ。本気でそう思っているのだろう。こんな僕を一個の人間として扱ってくれてる、と好意的に解釈すべきか。
「いえ、やっぱり授業は出ます」
「そう? 寝たいときに寝るって大事なことだと思うけどね」
そうかもしれない。
でもやはり、授業をさぼるほど思い切ったことができるわけではない。せいぜいホームルームを回避するのと、バレない程度の居眠りだけだ。僕なんかに許された悪事はその程度だろう。
そして、ようやくの放課後。
階段室わきのはしごを登り、消火水槽のタンクの脇へ。なるほど、コンクリートが心地よい温度に温まっている。
真昼ならもっと心地よかったかもしれないが、贅沢は言うまい。僕はタンクに背中をつけ、雛鳥のように丸まって眠る。
下校する生徒たちの声。校庭をぐるぐると回る運動部の掛け声が遠く聞こえる。それは船の中にて、板子一枚下の海の声を聞くような感覚。自分が世間から遊離して、一人だけの世界に行くような。
思考がとりとめのないものに変わりつつある。体から空気が抜けていくような、自重で体が潰れていくような眠り。やがて時間も曖昧になって、コンクリートの熱を太腿に感じて。
「昼中さん」
ん、誰だろう。
「はい」
僕は声に反応して上体を起こす。眠気を顔に出さないように眼を強く閉じてから、ぱっとその人物を見れば。
「え」
間近にあったその顔は、非の打ち所がない美しさ。
日差しの中にあってなお黒い髪。胸元を飾るリボンの立体構造。コンクリートに広がる藍色のスカート、そんなものが意識される。
「姫騎士……さん?」
夢ではない。それは分かる。
「昼中さん、お休みのところすいません」
そうか、お説教か。
さすがは姫騎士さんだ。僕のようなどうでもいい男までちゃんと気にかけて、苦言の一つも投げてくれようと言うのだ。姫騎士さんの時間を奪うことに申し訳無さを感じる。
さすがに姫騎士さんに叱られれば僕も反省するだろう。その予感に心がざわつく。
「ごめん。申し訳ないとは思ってるんだ。でもどうしても眠くて」
「はい?」
姫騎士さんは稲穂が揺れる程度に首を傾ける。
「昼中さん、実は相談があるんです」
「え、相談?」
僕の声が上顎をすべって奇声となる。
そんなまさか、姫騎士さんが僕に? 大統領に相談される方がまだ可能性高いぞ。
姫騎士さんは僕の足元の方で、横座りの形になっていた、そのまま上半身を前に出し、手をついて僕の下半身にかぶさるように動く。
「な、なにかな?」
「昼中さん、よく授業中に眠ってますよね」
「はあ、言い訳のしようもないけど」
「あの、それでですね」
姫騎士さんは少し恥じらうような、勇気を振り絞るような様子を見せる。そんな姿は初めて見る。おそろしく貴重な眺めに思えた。
そして姫騎士さんは、決然と唇を噛んでから、言った。
「眠るって、どうやればいいのでしょう?」
「…………は?」
ひときわ強い春の風が、姫騎士さんの髪をなびかせた。
というわけで新連載を始めてみました。
更新はゆっくりになると思います。評価・感想などお待ちしております。