1.3 悍ましいもの
今、舞台裏から大砲が運び出されていく。
それの前には緑色の表皮で覆われた男が立っていた。三発放たれることになっているが、随分と派手なことをするものだと思う。今回はよほどいい後ろ盾がついているのだろう。
布の隙間からその様子を見ながらタイミングを合わせようとした。まずは自身を拘束している枷、それから檻をどうにかしなければならない。
まず一発目が放たれると同時に勢いよく両手に繋がれた鎖を引っ張った。歯茎が剥き出しになるぐらいグッと奥歯を噛み締める。爆発音は会場全体を包み込み、両手に繋がっていた鎖は砕けて床に落ちた。
二発目が放たれるとともに両足の鎖が砕ける。
三発目には檻の格子を捻じ曲げた。
今まで全くと言っていいほど何もしてこなかったので、音だけでもすぐに怪しまれるのかもしれなかった。団員たちの五感から逃れるには観客が騒ぐような今が丁度いい。鎖を断ち切る音を一番大きな音に紛れ込ませておけば、問題はないだろう。
後ろから一番大きな観客たちの拍手が溢れ出す。不味い、もうそんな時間か。
全ての演技が終わった。急いで下に敷かれた藁を盛り上げて檻の格子を隠す。すぐさま折れ曲がった格子を隠すように寝そべる。
今頃、客が出口に流れ込んでいることだろう。檻の前を何人の団員たちが通り過ぎる。中々、立ち去ってくれない者もいた。自身の心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じる。大丈夫だ、落ち着け。寝息っぽく深呼吸をする。気付かれやしないだろうか。
足音が聞こえてくる度に早くどこかへ行ってくれることを内心で願う。最悪の場合は強硬手段に出ることも………。
明かりが消えた。どうやら耐え切ったようだ。あと少し待つだけでいい。
街そのものが寝静まり返っているような時間。この日に限っては団員たちとて例外ではない。今なら見張りを全てツテが用意した人間に任せてぐっすり眠っている。
一週間に一度は演技が終わった頃に全員が一斉に床につかなければならない。そのような奇妙な規則がこのサーカスにはある。運がいい。もしこの日でなければ、別の方法を考えならなかった。
身を捩り、作ったばかりのギリギリ自分が通れるぐらいの隙間から檻の外に出る。なるべく足音を立てずにゆっくり慎重に去っていく。
テントから離れた所でズボンのポケットから香辛料の入った袋を靴の中に詰めた。これで嗅覚による追尾をある程度は乱せるだろう。
一気に走り出す。上手くいけば、抜け出したことなど明日になるまで気付かれることはないだろう。あとは待ち合わせ場所に辿り着くだけ。
暗い路地裏、月明かりだけを頼りにほぼ静寂に包まれた道を進む。この先に待ち合わせ場所がある。
視覚はあまり頼りにはならないが、それでも迷ったりして時間に遅れたりすることもない。この時のために下見まで済ませてあった。
遠くからは野犬のものらしき遠吠えが聞こえ、雲一つない夜空には真ん丸の満月がてっぺんよりも下の方に浮かんでくる。綺麗だとは思った。不思議な魅力さえ感じる。
「やあ、ナナシ君。今、来たところなのかな」
「どうも……」
月明かりの中へルイスもまた入って来る。こちらの姿を確認すると笑顔で手を振った。
どうやら彼もいま来たばかりのようだ。まだ待ち合わせ場所に着いていないのだが。
「ここに来れたっていうことは上手く抜け出せたのかな?」
「ええ、まあ。檻や枷の方は錆び付いていたので、思っていたより簡単でしたよ」
自分を拘束していた鎖は引き千切ったし、閉じ込めていた檻もこじ開けた。
肩を軽く回す。自由にはなったが、どちらも無理にやったせいでどうも手首や足首が痛い。見れば手首からは血が滲み出ていた。
「もう後戻りはできないよ。それでも、こっちを選んだっていうことでいいのかな?」
「ええ」
「しっかり考えてきたんだね?」
「考えてはきました。寝ても覚めてもそのことばかり。でも、いくら考えても、最初に出した答えに戻ってくるんです。そうするべきなんだって、そうしなければいけないんだって」
これでいい。それ以外の選択肢などはなく、そのためなら何だってやる。それが自分なのだ。
ふと昨夜のやり取りを思い返す。もしかしたらあの話を聞いた瞬間から自分は居ても立っても居られなくなったのかもしれない。
◆
「もし…、遺体としての彼女とならまだ会えると言ったら?」
「………どういうことですか?」
「そのままの意味だよ、もちろん亡くなった時のままで」
「つまり、彼女の遺体は五百年経った今でもまだこの世に遺っていると?そんなの………」
あり得ないと言おうとしたが、その言葉を飲み込む。その言葉がどれだけ意味をなさないのか誰よりも身を以て知っていたつもりだった筈だ、狂おしいほどに………。
喜ぶべきなのか、或いは悲しむべきことなのか。何をどう思えばいい。
ルイスは話を続けた、未だに心の整理がついていないにもかかわらず。
「だけど、今となっては呪いを振り撒いて大量の犠牲者を生み出すだけの呪物に成り果ててしまった」
紐で巻物のように束ねられていた数枚の紙きれを彼は鞄から取り出し、手渡してくる。紙はボロボロでシミや傷だらけだった。よほど古いものなのだろうか。
「開けてみて。中身については他言は無用で、機密情報みたいなものだから」
「これは……………」
一枚目の紙に書かれていたのは右腕の挿絵だ。これを描いた者は一から腕をつくるつもりだったと言われれば、きっと信じてしまうことだろう。まるで設計図のように一本の綺麗な腕を異なった角度から捉えたもの、それもかなり緻密に描かれている。
挿絵だけではない。何よりも目を引いたのはおびただしい書き込みの方だ。紙の端から端まで全てが几帳面に書かれた文字や式でびっしり。式の意味は分からないが、全てこの右腕についてのものだろうか。唯一の余白部分である挿絵をも埋め尽くそうとする勢いだった。
それに小さいが、腕に一つだけあるこの傷は―――――…
……――――ここまではいい。まだどこかの絵描きが右腕を上手く描こうとして練習したというなら納得出来る。そう思うことにして一枚目、二枚目と捲って変わる右腕の挿絵を見ていく。そして、三枚目を捲った。
大きく目は見開かれ、紙面に釘付けになる。四枚目には知性は感じられない。決まって描かれていた右腕の絵がそこにはない。代わりに描かれていたのは文字とも呼べないような落書きの数々―――――
いや、右腕の絵は確かに描かれている。気付かなかった。三枚目までなら文字はびっしりではあったが、ある程度の規則性があった。ここにはそんなものはない。
感情の赴くままに殴り書いて塗り潰し、子供のような絵も描かれている。だが、子供でもこんな描き方はしない。絡まり合っているのだ、描いたものが乱雑に。
線の一部は文字なのか……。大きさはバラバラ。腕の絵を線たちが徹底的に台無しにする。紙面全体が黒く塗り潰されようとされ、何を描いたか判別がつかない。見てるこちら側も精神が病んできそうだ……。
こんなの……、まともな精神状態の人間が書ける代物ではない………。
「二十年ほど前だったかな。ある高名な学者が偶然にも手に入れられたみたいでね。その際、亡骸の記録を遺していたんだ」
「これが……………」
「五百年、腐敗することもなく、干乾びることもなく、綺麗なままであり続けた。何も特別なことはされずにたった一人の人間の死体がね」
…………そうであって欲しくなかった。
視線を一旦、一枚目に戻す。あの一緒に過ごした彼女が今ではこうなっている。時間が止まっているかのようにずっとあの時のまま。綺麗だからこそより残酷に感じる。
思わず口元に手を当てた。これを記した学者に彼女の亡骸は何をもたらしたのか。紙を捲る度に沸騰しかけの血液が逆流していくような錯覚を覚える。
ただひたすら気分が悪い。吐き気がこみ上げ、全身の毛がよだっていくのを感じる。
とうとう最後の紙に指を掛けた。
白いとまず思った。無作為に斜めから一本の線だけが引かれている。前の一枚のはみ出た線の一本とピンと合う。描き終えたというより途中で筆が止まったと考えるべきか。それに、この下に付いている黒ずんだもの。最初はシミだと思っていた。でもこれは―――――
「血…………?」
「もういいかな? 凄い汗だし、まずは息をした方がいい」
「あっ……ゲホッゲホッ。…ゲホッゲホ!」
返事を聞く前にルイスは紙を取り上げ、鞄に仕舞う。遅れて咳き込む。自分は息をすることすらも忘れていた。
だが、まだ聞きたいことがある。大きく息を吸い、肺に空気を取り込んだ。聞くのは少しだけ憚られる。自分にとって都合の悪いことだと予想出来ているからだ。
「その方は…………どうなったんですか?」
「…………志半ばで亡くなられたよ」
「……死因は?」
ガサゴソと少し時間を掛けて鞄を漁る。次に彼が鞄から取り出したのは数枚の紙切れ。今度は手渡すことはしない。ただ遠目で見せるだけ。加えて暗がりのせいで見えづらい。よく目を凝らしてそれを見る。
だが、写っているものが分かった瞬間に目を逸らしたくなった。写っているのは人間の死体。
いや、あれは人間なのだろうか。
「これがその学者の遺体の状態だそうだ。断っておくと彼は人外ではなく、人間だったよ。ただのね」
見たこと確認してすぐさまルイスは鞄に紙切れを戻す。
人間のもののようだ。顔は分からない。千切られたように首から上がなくなっていたからだ。そこから放射状に噴き出したであろう血液が絨毯にべっとりと付着していた。
だが、どういうことだ。残った手足は鱗だらけだった。明らかにただの人間では持ち得ないものだ。
「亡骸の影響だと思われている。彼を含めた一家の遺体は全く別の生物へと変質。加えて彼は内側から破裂したような状態だったそうだ。いや、彼の一家だけじゃない。伝染するように隣接する家、そのまた隣接する家も全滅。おまけに右腕は今なお行方不明」
「それが彼女のせいで……………」
「亡骸は時代とともに所有者も変えている。おかげで、人の心までも変えるとすら言われるようになった。そして、関わった全員が全員、悲惨な末路しか迎えることはなかった」
首の右側に刻まれた何本もの赤線、いま自分が持つ一番分かりやすい彼女との繋がりに触れた。
眼球が揺れ動く。心臓の音がうるさい。思わず叫び出しそうにもなった。何も考えたくない。まるで悪い夢を見ている気分だった。
「まさに呪いだよ」
彼女の亡骸。それがルイスが最初の方に言っていた自分の一番欲しがりそうなもの。少なくとも何よりも優先せざるを得なくなりはした。そう表現するのは間違いではないのかもしれない。全くもって酷い話だ。
「……それでルイスさんはその在処を知っているっていうんですか?」
「運良くその情報が手に入ったんだよ。 君なら分かるよね、本来ならこれはあってはならないことだって。これ以上、犠牲者が出る前に僕はそれを防ぎたいんだ。そこで君の力を貸して欲しい」
「……………」
何か別に思惑がある気がする。だが、善意もないわけでもないようだった。
「さて、君はどうする?この話に乗るのか、乗らないのか」
「僕は…………………」
言葉が途中でせき止められてしまう。首を伝って冷汗が流れ落ちる。彼の手を取っても、不幸になるだけなのかもしれない。それに、まだルイスの言ったことが全て嘘である可能性も………。
いや、それは自分が傷付きたくないためのものか………。
実際に自身の目で確かめてくればいい。真実かどうかは些細なことだ。これ以上、失うものもない。あったとしてもどうせ大したものでもないのに、リスクを恐れてどうするというのか。
それでも、やはり怖いと思ってしまう、また彼女の変わり果てた姿を見るのが。脳裏に焼き付いたあの日の光景だけは比べようのないぐらい鮮明に思い出せる。もう二度とあんな思いをしたくないと思った。
―――――なら、彼女への想いは嘘だったのか。
「そんなわけないだろ………」
自分にだけ聞こえるように小さな声で言った。
喉の奥に引っかかった言葉を強引に絞り出そうとする。迷う必要はない、最初から自分は引き返すことが出来ない所にいた。何より彼女は他人の不幸を自分のことのように悲しむ人だった。彼女の亡骸は彼女自身が望まないものとなってしまっている。自分はそんなことを受け入れられる筈もなく、それは彼女も同じの筈だ。だから――――――
「続きは明日にしよう。ついでに場所も変えた方がいいかな。よく考えてから来るんだ」
「え?」
決意を固めたというのに、ルイスはそれを遮った。彼の視線はこちらには向いていない。視線の方向に目を向けるとそこにあったのはこちらに向かって近づく明かり。形からして電灯のものだろう。光によって人ならざる巨大な影が浮かび上がる。
薄い布一枚で隔たれた向こう側に誰かがいるのだ。
「時間は明日のサーカスの演技が全部終わって団員たちが寝静まり返る頃にでも。場所は南地区の噴水の前。抜け出すにしても、まあ……そう難しくはないみたいだから。この話に乗らないのなら、来なくてもいいよ」
「あっ…………」
伝えたいことだけをまとめて伝え、ルイスの存在は消失する。まずは気配だけが薄れ、それからゆっくりと暗がりの中へ後退っていった。
闇に溶け込んだと表現した方がいいのかもしれない。
彼もいなくなり、この場はまた自分一人になった。
◆
「僕は貴方の話に乗りますよ。酷く身勝手な理由からですが」
ナナシはあの時、言いそびれたことを言った。
一番欲しいものは手に入らなくなってしまったが、やることは変わらない。彼女から十分すぎるほどに色んなものを貰ってしまった。だから、それを返しに行かなければならない。これからやるのは手から零れ落ちてしまったものを再び掬い上げようとするような行為だ。返し切ることはきっと出来ない。希望はなく、待っているのはひたすら残酷な現実のみ。
「……分かった。じゃあ、行こうか」
「まず、どこへ行くんですか?全く知らないので、そこを聞きたいんですけど」
「僕もその話を聞いてびっくりしたんだけどね。そこにはナナシ君がよく知るものがあると思うよ」
「…………? そんなものがあるんですかね、あまり今の時代のことは分かりませんし」
「詳しいことは街を出てから話そう、こういうのは順序があるからね」
「何か回りくどいですね」
「―――――このまま行かせるわけないだろ」
「「!」」
野太い声がこだました。二人は急いで声をした方を振り向く。すると、そこには先程まで何もなかった暗闇の中に人影が出現しているではないか。闇の中から出てきたのは小太りで立派な髭を生やした男。
「座長…………」
出来れば、こうはならないようにしたかったのだが。だが、座長の背後の闇にはまだ何かがいる。目を凝らし、闇の中を覗こうとする。
見えたのは蠢く眼球だった、それも夥しい数の。
同時に何もなかった周囲が気配と影で溢れ出す。壁沿いにまで後退って距離を取ろうとするが、ネバついた液体が地面にすぐ隣に落ちた。
すぐさま上を見上げる。路面上だけではない、こちらを見下ろすように建物の屋根の上からも。それら一つ一つが極端に大きかったり小さかったり。人間のものではない。
気配は周りに次々と出現し、既に自分は取り囲まれていたんだと気付く。どうやら逃げるにしても、遅すぎたようだ。
まさかこうも容易く勘付かれるとは。細心の注意を払っていたとはいえ、所詮は素人の浅知恵ということか。
「全くもって理解に苦しむ。本当に逃げられるとでも思ったのか。だとすれば、当てが外れたな。全く、誰が高い金出して買ったと思ってる」
近付くだけ座長の体は大きくなっていく。決して遠近感によるものではない。肉体そのものが肥大化していた。そして、人の形も崩れていっている。
変化に身に纏う衣類は耐えられない。最初は服のボタンが飛び散った。ビリビリと音を立てて破れていき、辛うじて繊維だけでも繋ぎ止める。それも更なる変化で数本が切れてしまう。
眼前まで来る頃には瞬く間に原型を一切とどめていない異形の怪物に変身していた。
「お前は俺の所有物なんだよ」
大きく振り被った手がナナシに直撃し、もの凄い勢いで体は壁に叩きつけられる。建物に走った亀裂からボロボロと崩れ落ちる瓦礫は容赦なく彼を下敷きにしてしまう。
鬱陶しく体に纏わりつく衣服だった布切れを引き剥がし、投げ捨てた。
全身に浮き上がった赤い血管に灰色の肌。白い鬣に肉食獣のような鋭い牙。大きな四つの目玉がこちらを睨んでくる。
人の姿を捨てた悍ましくも歪な化け物がそこにいた。
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